移住者プロフィール
武藤 一樹(いちじゅ)さん
移住時期
2007年
出身地:岐阜県、前住所:東京都、現住所:石川県羽咋市神子原地区、職業:自家焙煎珈琲店「神音(かのん)」店主、農産物直売所「神子(みこ)の里」代表
目次
INDEX
生きることに必死だった大学時代
岐阜県出身の武藤さんと石川県との出会いは、大学時代に遡る。奥様との出会いの場所ともなった、金沢美術工芸大学への進学がきっかけとなった。進学のための転居と聞くと、華やぐ学生生活に想いを馳せ、溢れんばかりの希望と期待に胸躍らせる姿を想像するが、武藤さんはもっと切実であったという。
「入学した年に両親の離婚を経験しました。奨学金を借り、アルバイトを掛け持ちして、“ここで生きていくしかない”と、必死の思いで卒業しました。大学を出たらすぐに稼いで、生活をしていかなければならないという覚悟は、すでに持ち合わせていましたね」
切実なる日々の中で生まれた「夢」
目まぐるしい日常を送る一方で、“自身の喫茶店を持ちたい”という夢を抱くようなったのも、この頃であった。
「安直な理由ではありますが、美術、音楽、そして大好きなコーヒーを“ごっちゃに実現できる場所”として、『喫茶店』を目指し始めたのが、大学在学中でした。ただ、美大を出てすぐに、喫茶店の店主になれないことは分かっていましたので、まずは奨学金をお返しするためにも、生活のためにも、就職をしました」
大手CD量販店に就職し、金沢の店舗を経験したのち、吉祥寺への異動を機に上京。入籍前ではあったものの、すでに生活を共にしていた奥様も帯同したという。仕事と並行して4年ほどコーヒーの修行を積み、“実生活”と“夢”を同時に追い続ける生活を、がむしゃらにこなしていく。
一貫してぶれなかったビジョン
26年前の1996年8月2日、コーヒーチェーン「スターバックス」が日本に上陸し、第一号店となる「銀座松屋通り店」をオープン。コーヒーの世界を広げる新しいスタイルとして、徐々に人々の生活に浸透していくこととなるが、そんなコーヒー文化の変遷に揉まれつつも、武藤さんの「喫茶店」のビジョンは、一貫してぶれることはなかった。
「当時から、マイクロロースター(小規模の自家焙煎)で、オンデマンドに特化した、コーヒー専門店を志していました。細かくお客さまのオーダーに対応しながらも、アーティストとして、自分の“手”で作った仕事を、お客さまの“手”に渡して、喜ぶ姿を“目”でみる。“ハンド トゥ ハンド”を実現するために、夫婦2人で経営するようなお店のサイズ感でやりたい、と。そういうお店なら、自分のカラーを出しても説明ができますからね。実際開いた『神音(かのん)』は、当時思い描いた通りのお店になっているんですよ」
結婚を機に金沢へ
2002年、結婚、子宝に恵まれたことを機に、東京から金沢へ戻ることを決意。その背景には、難聴というハンデを抱える奥様の存在が大きかったという。
「実生活でも困ることがままある状況なので、『小さい子の色々な“サイン”に気づいてあげられないかもしれない』と、共働きしながらの育児に不安を感じていました。だから、『子育ても全部一緒にする』と、宣言しちゃったんです(笑)。
ただ、その生活を実現するのは、東京では難しい。修行をして、お店を持てるように準備するからと話し、金沢に戻りました。子育てしながらいきなり独立するのは経済的にも難しかったので、東京でお世話になったマスターに口を聞いてもらい、金沢のコーヒー豆専門店で働きながら、並行して、物件探しなどの開店準備を進めていくことにしました」
スタイルを追求したら、選択肢は自然と「田舎」に
金沢での生活を経たのち、同県羽咋市に移住することになるのだが、ご夫婦共に大学時代を過ごした“縁”のある金沢に、居を構える選択肢はなかったのだろうか。
「自身が目指す、小規模な“ハンドトゥハンド”のお店のスタイルを考えると、都市部では成り立たないんですよね。お取引様との関係も相当“密”になると予想できましたので、街中で開業したら、おそらく飽和してしまうでしょう。東京の生活が選択肢から外れたように、金沢の街中での開業という選択肢も外れたんです」
キーワードは「1時間」
理想的な土地に巡り合うまでに、要した時間は4年。その間に見て回った物件数は、40軒にものぼるというのだから驚きだ。
「自分のビジネスの根幹になるであろう業務店様とのお取引を考えると、田舎は田舎でも、都市部から離れすぎてもいけないという点は、譲れませんでした。(車で)片道2時間の距離となると、半休でも取らないといけないほどで、これってもう“小旅行”ですよね。でも、これが片道『1時間』の距離となると、行けるんですよ。『1時間の移動』は、僕の中で一つの“キーワード”になると思っています。
羽咋市は富山県にも近くて、(富山県)高岡市まで40分、金沢まで1時間、奥さんの実家の輪島までも1時間半、和倉温泉のある七尾市までも40分くらいでした。もうここに決めるしかないですよね(笑)」
ついに、移住ー
山間に広がる棚田と伝統的家屋の集落が織りなす美しい景観を有し、「景観形成重点地区」にも指定されている、羽咋市神子原(みこはら)地区。この場所こそ、一家が念願の移住を果たした場所である。
「神子原(みこはら)町」「千石(せんごく)町」「菅池(すがいけ)町」の3町から成る神子原地区は、一時は、数年で無人化の恐れがあるといわれる限界集落に指定(2009年に脱却)されるほど人口減少が進んでおり、武藤さんが移住先として選んだ「菅池町」は、特に過疎高齢化が著しい地域であった。
「移住当初、『こんな何もない場所になぜきたん?』と、口々に尋ねられました。でも、僕には、地域の人たちが“何もない”と思っているようには、見えなかったんですよね。ここで生きていることの“自信”のようなものを感じたとでも言いましょうか」
武藤さんは、この時すでに、「何もない」中にある、本当の「ゆたかさ」を感じ取っていたのかもしれない。
夢の実現。自家焙煎珈琲店「神音」をオープン
谷間の集落にひっそりと佇むのが、2007年に武藤さんがオープンし、奥様と二人三脚で営む、「自家焙煎珈琲店 神音(かのん)」である。築70年の古民家を再生した寛ぎの異空間で、ハンドドリップで一杯一杯丁寧に淹れられた珈琲を味わうのは、最高に贅沢な時間であろう。
今でこそ根強い人気を集めている「神音」だが、オープン当初は、「こんな場所で喫茶店を出しても誰も来てくれないだろ」と、厳しい言葉もかけられたという。身を粉にして、営業活動に奮闘されたであろうことを想像して話を伺うと、「実は、オープンしてから15年、一度も営業をかけたことはないんです」と、驚きの一言が返ってきた。
「コーヒーに目覚めるお客さんを一人でも多く増やすためには、とにかく来店してもらう必要がありますよね。そのきっかけ作りになればと、僕がオリジナルカレーを、奥さんがケーキやパンを担当する形で、ランチを始めたんです。これが集客の火付けになりました。古民家が醸し出す“空間”と“時間そのもの”を、お客様ご自身で“体感”していただくことが、何よりのプレゼンになったようで、その“時間の流れ”をご理解くださった方が、『自分のお店に取り入れたい』と、名乗り出て下さるようになりました。
5人が10人、10人が15人と、どんどん増えていって、今、25件ほどお取引頂いております。密にやりとりしながら、15年ほど良いペースでお客様とやって来ましたので、コロナ禍になっても、卸売だけでなんとか賄えております。程よいんですよ、本当に程よい」
土地との出会いは「縁」
店名の「神音」は、『自然と隣り合わせた神々の音が聞こえる里』という意味を込めて、名付けられたのだとか。
「神子原だから“神音”とよく言われるんですが、実は、神子原と出会う2、3年前には、すでに決めていた名前なんです。ものすごい偶然ですよね。なので、候補地になったのが神子原という名前だと聞いた時、『神繋がりか。ご縁だな』と、思いました」
この物件に決める最後の核心となったのは、やはり“古民家”だったからなのだろうか。
「実は、僕、古民家に対する憧れは、特になかったんです。キャンバスとして描ける自由度の高い広々とした空間が持てて、畑や田んぼが周りにあって、ゆったりと子育てに向き合う時間を確保できるところ。
尚且つ、先ほどの“1時間圏内”という条件を満たしている物件って、古民家しかないんです。だから、結果、古民家になったという(笑)。そこに、神子原の素晴らしい景観が加わったことが、移住の決め手となりました」
ありのままの飾らない姿を見せてくれるのも、武藤さんの魅力の一つであろう。
高野誠鮮(たかの・じょうせん)さんとの出会い
明るい人柄で、コミュニケーション能力に長けている武藤さんでも、見知らぬ地に移住し、一家の大黒柱としてゼロから生活基盤を構築していくのには、並々ならぬ努力を求められたことだろう。どのように地域との関わりを深めて行ったのだろうか。
「市役所の移住相談窓口に行ったら、対応してくれたのが、神子原米のブランディングにも携わった高野さんだったんです。『喫茶店をやりたいんです』と話したら、『いいねー!』って。その方、日蓮宗のお寺の息子さんで、日蓮宗といえば“観音様”の信仰ですよね。『僕、神音(かのん)カフェってつけたいんです』と話したら、聞き間違えたようで、『観音(かんのん)?いいねー!ご縁だねー!ここで店するしかないよ』。
そんな具合にグイグイ引き込まれちゃって(笑)。色々な場所に連れて行っては、素晴らしい景色を見せてくれました。その方が最初の親代わりになってくれたお陰で、地域に溶け込みやすかったのかもしれません」
この人物こそ、羽咋市役所勤務時代に“限界集落”を蘇らせた「スーパー公務員」として、ドラマ『ナポレオンの村』(2015年)のモデルにもなった、高野誠鮮さんだ。ローマ法王に献上した神子原米の仕掛け人でもあり、僧侶、大学教授としても高名な人物として知られる。
親代わりとなってくれたもう一人の存在
能登地方に古くから伝わり、今も尚、根強く存在している慣習のひとつとして、「烏帽子(よぼし)親」というものがある。烏帽子親とは、本当の親子ではない別の家族との間で親子の関係を結ぶ、“擬制親子”の習わしであり、能登では、烏帽子(えぼし)がなまり、「よぼし親、よぼし子」と呼ばれている。
「僕の住む神子原地区にもその慣習が残っていて、菅池町に入る時に、『烏帽子親となる人を探すように』と言われました。要は、身請け人です。僕の場合は、入居予定物件の持ち主の親類に、“親”になってもらいました。
“親”からは、その土地の作法や日常生活の全てを教えてもらい、『この子らは俺の家族だからよろしゅうね』と、地域の人に紹介して回ってもらうんです。育ての親と言ってもいいでしょうね。核家族だった僕らが菅池に来て、菅池の家族の一員になり、今では、向こう3町両隣の神子原地区の皆が家族のようなものです」
しんどさが浮き彫りになるのは人と人がぶつかるから
家族同然とも言える濃密な“繋がり”は、田舎暮らしの魅力の一つでもあり、同時に、不安要素の一つとも言えよう。「街」暮らしの長かった武藤さんにとっても、例外ではなかったはずだ。
「当時はまだ、“田舎暮らしは人生の楽園”だなんて謳われるような、田舎暮らしブームでもなかったですし、田舎暮らしに変な“憧れ”も“先入観”も持っていませんでした。それが結局、何も構えない自分の性格に合っていたんでしょうね。
欲しいと思っていたものに必要な要素を加えたら“田舎暮らし”であり、“人の繋がり”だったんです。
田舎って人付き合いが面倒ということがフォーカスされがちよね。でも、“田舎だからしんどい”のではなく、人と人がぶつかるから、“しんどさが浮き彫りになる”だけなんだと思うんです。どこで暮らしていても、しんどさって必ずあることだと思っているので、腹を括っていました」
繋がり続ける想い
そんな武藤さんでも、移住当初、田舎のコミュニティに戸惑いを感じたこともあったのだとか。
「助けられすぎて怖いとまで思うほど、周囲の人によくしてもらいすぎて、思い悩んだ時期もありました。小さな子を抱えながら、生活を立てていこうと必死な時期で、何かを返せる余裕などありませんでしたから。喫茶店の常連さんにお寺のご住職さんが何人かいらして、ある時、聞いてみたんです。
「これって不義理ですか?仏の道的に、どうなんです?」、と(笑)。『周りの人は余裕があって、助けたくて助けてるんだよ。お金も時間もないなら、返さなくていい。あなたに余裕ができた時に、周りを見渡してごらんなさい。きっと、困っている人がまたいる。その時に、あなたが返したらいいんや』。同じ言葉を何人ものご住職からいただいて、『これだ!』と、思いましたね」
受けた「恩」を別の誰かに手渡す、そしてまた人から人へ、人から土地へ、想いは繋がり続けていくのだろう。
感謝の気持ちをカタチに。「神子の里(みこのさと)」の代表に就任
羽咋市と富山県氷見(ひみ)市を結ぶ国道沿いに位置し、能登の原風景を楽しみながら、“地元の農産物に出会える場所”として人気を集める、農産物直売所がある。2018年に武藤さんが代表取締役に就任した、「神子(みこ)の里」だ。
「この土地にできることはなんだろうか、と考えた時、農家所得の向上や雇用創出など、地域の役に立つことができれば、との想いから、代表を引き受けることにしました」
まさに、“恩返し”ならぬ“恩送り”の気持ちが、「カタチ」となったのだ。地域の方々が株主となり、開業当初は、100%地元出資であったというが、その後行われた2回の増資と、クラウドファンディングにより、現在は、地域外からの資本も参入。
「地域外の人がこの土地に興味を持ってくれていることを、僕は知っています。経済循環させていくためには、去年と同じではダメで、来年は倍、再来年は3倍、というくらい成長していかないといけないですよね。地元の人にも、市にも、理解、そして同意をしてもらい、前に進んで行きたいですね」
2020年11月にリニューアルオープンし、新たな販売エリアやイートインコーナーが設けられた、神子の里。ますます目が離せなくなりそうだ。
取られている対策と取るべき対策の乖離
さまざまな移住対策を取り、“町おこし”に積極的なイメージのある羽咋市だが、実際に取られている対策と、取るべき対策に“乖離”が起きているのが現実だという。
「羽咋市も移住対策をとってはいますが、ピントがずれていると感じる点もあります。例えば、古民家の耐震工事に対して、上限200万円の補助金を出してるんですが、古民家の耐震工事ってすごくお金がかかるんですよ。
僕もそうでしたが、移住してくる人でお金に余裕がある人の方が少ないと思うんです。『耐震工事された所でないと、市は斡旋できません』なんて言われたら、それがハードルになって移住者が諦めて帰ってしまう、なんてこともあるわけなんです」
新しい「菅池町」へ
前知事から命を受け、石川県の「移住応援特使」としても活動する武藤さんに、定住した菅池町の現状について伺った。
「菅池町は先進的ですよ!自信があります。世代交代したので、僕ら主導で、この町のことを自由に動かせるようになりましたから。今の町会役員は、46歳の僕を含め、ものすごく若返りました。『ちゃんと未来を繋ごう』という意識のある世代に地域の“舵”を渡して信用して任せられる地域であれば、移住者の受け入れ体制も整備しますし、おそらく社会は変わっていくと思います」
時代はワーケーション!働きながら未来のことを考えてもいい
昨今、“新しい働き方”として注目されている、「ワーケーション(ワーク+バケーション)」。導入する企業の増加に伴い、ワーケーションを誘致する自治体も増えている。
「神子の里でインターンとして働きながら、神子原地区に滞在し、移住や生活のことを考えながら決めてもいい、と思いますね。働きながら未来のことを考える。時代はワーケーションですから。それには、どうしても行政的なサポートが必要になります。
個人でそれをやろうと思ってもなかなか大変なので、そこのサポートに力を入れて欲しいですね。模索中の方が心地よくいられる場所、もっと“開かれた場所”にしていく必要があると思っています」
神子原の素晴らしい景観を届けたい
現在、神子の里の活動として、新たなプランを進めている武藤さんに、神子原地区の魅力について伺った。
「神子原地区の景観は、とにかく圧巻です。晴れていれば、日本海も立山連峰も両方見られて、尚且つ、昔の営みがそのまま残っている場所。こんなすごいところなのに、“なんでみんな移住してこないんだろう”と思うくらい(笑)。その素晴らしい景観を眺められる施設を作りたいと思っています。
入湯施設を作って、地元の方にはいつも開放する。そうすることで、外から遊びに来た人と地元の人の間に『会話』が生まれますよね。地元の人たちがこの土地をまず肌で感じて、この土地の息遣いに想いを馳せる、スローな時間を過ごしてもらえるコンテンツが必要だと思っています。
他にも色々なプランがあるので、プロジェクトチームを作って、進めているところです。地元の人間が自分達の土地のことを諦めたら、先に進まないですから。頑張っていくだけです」
原動力となる「家族の存在」
現在、高校1年生、高校2年生、大学2年生の3児の父でもある武藤さん。父親業の傍ら、「神子の里」の代表、「神音」のオーナーをこなしてきた武藤さんのバイタリティは、どこから溢れてくるのだろうか。
「両親の離婚により『家族』という単位を失い、“自分の帰る場所がなくなった”という、虚無感にも近い感情を抱きました。だから、“自分の子どもにはそういう経験をさせたくない”という想いが強いのでしょう。家族を養うと覚悟を決めてこの地に来ましたから、決めたことはやり遂げますよ。まぁ、夢ばかり追いかけて来ましたけどね(笑)」
野菜ソムリエの資格を有し、10年以上自給自足の生活を送ってきたことにも、お子さんの影響があったという。
「一番上の子がアレルギー持ちなんです。『食』べることと『育』てることって密着していますよね。なので、自宅隣に畑がある、この土地を選びました。僕にとって野菜作りは、時間的に絵を描くことができない自分の“表現欲”を満たしてくれる時間でもあります。家族だけでなく、お客様の顔を思い浮かべながら、おすすめしたい野菜を作っています」
野菜に込められた“想い”は、今までもこれからも、たくさんの方に届けられていくー。
今後のビジョン
歩みを止めない武藤さんに、5年後、10年後のビジョンを伺った。
「僕ね、この仕事を早く引き継いで、退職したいんです(笑)。個人的な夢としては、コーヒーをしっかり売って、55歳くらいまでにしっかりストックを作って、オーベルジュや簡易宿泊を備えたようなサウナをやってみたいですね。でも、まずは、この地域が自立して、自分の足で動き出せるような構造体を作り、“地域の中で経済が回るようなコミュニティ”を作ることが先決です。
それができたな、と思った時に、潔く後陣に引き継いで、さっさと退きます(笑)。それが夢です。自分が蒔いた種や広げた風呂敷は、しっかり回収しないと気が済まないタチですから。広げきった風呂敷に、愕然とする時もありますけどね(笑)」
田舎暮らしの「リアル」を想定して移住してほしい
最後に、移住を検討している方へメッセージをお願いしたところ、田舎暮らしの「リアル」を率直に語ってくれた。
「仕事柄、移住相談をされることもよくありますが、“田舎に来れば、豊かにのんびり暮らせて、不便なのさえ我慢すればいい”くらいの、上げ膳据え膳のようなことを考えている人が少なくないことに、驚きます。自分が思い描いた絵があまりにも素敵すぎると、現実を知った時、壁にぶつかると思います。
今いるポジションに納得しているのなら、わざわざ過酷な田舎にくる必要はないと思います。田舎に来たら、自分でライフスタイルを生み出すということになると思うので、フワッとしていてもいいから、夢や目標を持って来てほしいと思います。生活や仕事も自分で創出できる人は、どこに行ってもうまく行くはずです。
田舎に来て何かを生み出したい、創り出したい。そんな想いを抱いている方たちの“力になりたい”と、心から思っています。応援しています」
武藤さんの印象と言えば、「笑顔」である。こちらまで思わず笑顔になってしまうような屈託のない笑顔を携えながら、次々に繰り出される率直な言葉たち。それらは「説得力」に満ちていた。
おそらくこの笑顔で、幾多の困難を切り抜けてきたのであろう。時には厳しくもある言葉の根底に、「神子原地区という家族のようなコミュニティを少しでも良くしたい」という熱い想いが鎮座していることを、筆者は感じた。