移住者プロフィール
中谷 幸葉さん
移住時期
2019年
出身地:茨城県、前住所:東京都、現住所:富山県富山市、職業:富山まちづくり会社「TOYAMATO(トヤマト)」の取締役
目次
INDEX
自然な形で抱いた「教員」への夢
祖父は教授、両親共に教員という「教育」を身近に感じられる家庭に育った中谷さん。「学校週6日制度」が採用されていた当時、父親に帯同し土曜日の学校を訪れることもしばしばあったといい、小学生の先輩に混ざり授業を見学する時間は、幼き日の密かな楽しみであったという。
真正面から生徒と向き合う父親の姿に、幼心に抱いた「かっこいい」という憧れの気持ち。その「憧れ」は、自然な形で「夢」へと姿を変えることになる。
「卒業した生徒たちが『今こういうことをしています』とか『今こうなりました』など、自身の近況報告をしに父の元にやって来るんです。その姿を見て、“こんなにも人の人生に影響を与えられる仕事があるのか”と思い、両親の背中を追う形で、教員を目指すようになりました」
「まずは自分が社会を経験しないで、何を教えられるんだ」
「教員になりたい」という夢を抱いて以降、最初に訪れた転換期は、大学進学時だった。
夢を最短で実現し得る、“中等教育教員養成課程”を専攻できる大学へ進学をするのか、はたまた受験をする過程で合格した別の大学に進学し、ビジネスを学びながら知見を広げる機会とするのか。
人生において、初めてとも言える大きな決断を迫られたという。
納得のいく選択をするため、両親や先生、当時所属していたサッカー部の監督等、自身をよく知る周囲の人たちに教示を受けたところ、その後の人生を左右することになる、“ある言葉”と出会う。
「将来社会に出る子どもたちを教えるにあたって、まず自分が社会を経験しないで何を教えられるんだ」
この言葉に心を揺り動かされた中谷さんは、まずは社会に出ることを決意し、後者の大学へと歩を進める。一見回り道のようにも感じられるが、この選択こそが「真の夢」と出会う道標となる。
金融の世界へ
スポーツ科学部に進学後、ア式蹴球部(アソシエーション・フットボールの日本での呼称。サッカーの別称)に入部。サッカー漬けの4年間を送る中でも夢の実現への想いが変わることはなく、“教員免許を取得した上で社会経験を積み、その後教員になる”という強固な意志を軸に、就職活動に励んだ。
“いち早く社会と経済を学びたい”との想いから、業種を「銀行」に絞って活動したことが奏功し、入社難易度が非常に高いとされるメガバンクの内定を勝ち取った。こうして社会への第一歩は、銀行員として歩みを進めることになった。
夢を再考する機会をもたらした衝撃的な一言
“誰よりも早く担当を持ちたい”という希望が叶い、入行後は営業部に配属された。
当時、60社ほどの中小企業を担当していたというが、相互に信頼関係を構築することができた顧客には、「将来的に銀行を辞めて教員になりたい」という自身の夢の話を、積極的に共有していたという。
そんな折、何があっても揺るがないと思っていた自身の夢を再考する機会が、突如として訪れる。
「ある尊敬する経営者の方に僕の夢を話したところ、『もっと多くの人に影響を与えられる人間になりなさい』と、アドバイスをもらったんです。この一言が、将来の夢を再考するきっかけとなりました」
教員を夢見るきっかけになったのも、「人の人生に影響を与えられる仕事がしたい」という想いからだった。その軸は変えずに、“より多くの人に影響を与えられる仕事”とは、なんなのだろうか。自身の心と対話を繰り返し、真剣に向き合ううちに、“ある想い”が輪郭を見せ始める。
“僕のやりたいことは、自分で『学校をつくる』ことだ”
まだ視界はぼやけていて完全にクリアにはなっていなかったものの、答えを弾き出したような感覚だけは、確かに残った。
模索し続ける日々
いずれにしても、金融の営業の知識だけを有する現在の状況では、何かを成し遂げるには到底不十分だと考えた中谷さん。
そんな時に出会ったのが、経営的な目線に加え、人事から労務まであらゆる分野での知識の習得を目指し得る、「M&A(Mergers(合併)and Acquishitions(買収)の略)アドバイザリー業務」だった。善は急げと、すぐに社内公募に応募し、念願叶って「M&A部署」への異動を果たす。
膨大な知識のインプットを求められるアドバイザリー業務に四苦八苦しながらもその日々は充実し、“社会に大きな影響を与えられている“という実感も、徐々に得られるようになっていく。
目の前の仕事に全力でぶつかる一方、自身の目指すべき姿を模索する作業もたゆみなく進められており、新天地で日々切磋琢磨し知見を深めた分、その思考は更なる深いところまで巡らされるようになっていく。
ブレイクスルーの瞬間
M&Aアドバイザリー業務を通じ、“いかに経営が大変であるか”を痛感したという中谷さんは、会社にも学校の運営にも共通するのは、財務的な評価ではなく、いかに明確な「ビジョン」を持ち、そこに「ロマン」を投影できるかであることに気が付いたという。
そんな矢先、実現したい「教育」のビジョンを模索し続けていた彼に、とうとうブレイクスルーの瞬間は訪れたのだ。
「『学びはいつ始まってもいい。一生学び続けることができる環境を』といったビジョンを掲げている、『シブヤ大学』と『自由大学』を見つけた時に、『これだ!』と思いました。僕の思い描く教育というのは、まさに『コミュニティ作り』なんだ、と。
“箱”なんて存在せず、どこがキャンパスになってもいい。教えたい人が自由に教えられて、学びを求める人たちの元に届ける、そこを『繋ぐ』役割を担っていくことこそが僕のやりたいことなんだ、と、気がつきました。
高いスキルを持っているにも関わらず、次に受け継ぐことができないが故に途絶えてしまう“事業承継“の問題を、M&Aの世界で目の当たりにしたことが、答えを見つけるヒントになったのかもしれません」教員になる夢を抱き、その夢の実現のために選択した金融の道。
そのどちらが欠けても辿り着かなかったであろう真の「夢」が、露わになった瞬間であった。
人生を変える出会い
明確な夢を描くことができたさなか時を同じくして、人生を大きく変える人物との出会いが訪れる。
上司と共に進めていた案件のオファー当日、上司2人が同日に体調を崩すという異例の状況が起こり、提案書の作成を担当していた中谷さんが、急遽オファーすることに。
通常であれば、窓口となる経理担当を介するところ、彼の提案内容に興味を示した社長自らにオファーできるという、またとない機会に恵まれたのだ。チャンス到来だ。
眩いほどのオーラをまとう社長を前に、緊張感に勝る高揚感に包まれながら、力一杯プレゼンテーションを行った。“力を尽くした”という手応えを感じていた彼に、社長から掛けられた言葉は、「中谷くん、まだまだ若いね」という予想外のものだったという。
「本当にショックだったし、悔しかったですね。しばらくしてから、『もう一度提案させてください』と、社長に直訴しました。自分なりに色々と調べ直して再提案したところ、『“若いね”というのは、むしろ褒め言葉だったんだよ。熱量も伝わってくるし、売りたい想いも伝わってくる。
ただ、“売りたい”という気持ちが全面に出てしまうと、駆け引きされて、結果的に低コストで売ることに繋がってしまうよ。“押し引き”を覚えなさい』と、心のこもったアドバイスをもらいました」
その人物こそ、富山への移住を決断させるきっかけとなった、「A-TOM(以下、アトム)」の代表取締役社長・青井茂氏であった。
当時青井氏は、「地方創生から地方覚醒」というコンセプトのもと、100年先に残る富山を目指して「まちづくり」を行う事業の構想中であった。
それはまさに、中谷さん自身が目指す「学校の在り方」と重なるものがあったのだ。
「学校を作るには、“地域と一緒に作り上げるコミュニティ”が欠かせない。そのコミュニティを形成する人々が、個々に愛着を持って暮らすことができる“まち”を作ることこそが、僕が求めていた思想であると確信しました」
全ては“まちづくり”に繋がっているーー。
青井氏が行う、富山まちづくり事業の思想に強く共感した彼は、富山に人生を賭ける決心をしたのだ。
縁もゆかりもない富山へ
茨城県に生まれ育ち、東京都内の大学に進学して以降、生活の拠点を東京に据えてきたという中谷さん。
これまで縁のなかった富山県に対しては、「『富』の『山』と書くぐらいだから、自然豊かな場所なんだろうな』と、漠然としたイメージしかなかったという。見知らぬ地でゼロスタートを切ることに不安はなかったのだろうか。
「もちろん不安だらけでした。でも僕には、人生で大事にしている『3つの軸』があるんです。1つ目に、“どれだけ自分の夢に近づけるのか”、2つ目に、“チャレンジングなことか”、3つ目に、“誰と働くことができるのか”。この3つ全てが揃うのならば、『働く場所は関係ない』と常々思っていました。だからこそ、富山への移住の可否を問われた時に、その場で即答できたのかもしれません」
あまりに唐突な決断に、家族や友人、上司は、異口同音に反対したという。
特にご両親からの反対は強く、「縁もゆかりもないところに若者が一人で行って、まちづくりができると思うか。そんなに甘くないぞ」と、一蹴されたというが、それでも諦める選択肢は毛頭なかったという。
「学校を作りたい」という自身の夢を実現するために、“まちづくりを経験することがいかに重要であるか”をご両親に向けてプレゼンテーションし、“どのような思いで富山行きを決断したか”を、言葉の限り伝え続けた。強い想いはご両親の心を解き、ついには、富山行きを後押ししてくれたという。
2019年10月、アトムへの入社を果たしたことを機に、富山県にIターン。
移住後、『富山を世界一ワクワクするまちへ』をキーワードに、「アトム」、「北日本新聞社」、富山県魚津市出身のプロ野球選手「石川歩氏」の異業種3者が連携し同年12月に、新会社『(株)TOYAMATO』を設立。スタートアップメンバーであった中谷さんは、同社取締役に就任を果たした。
こうして舞台を富山県に移し、中谷さんの挑戦が幕を開けた。
友達はゼロ。人脈もゼロ。スタートは“ゼロ尽くし”だったイベントをやり遂げ、思わず感涙
記念すべき富山での初仕事は、2020年のクリスマスのことだった。
TOYAMATOの元へ、“まちの中心部に新たな賑わいを作って欲しい”と、富山市から依頼が入ったのだ。
初めて経験するイベントの開催は、想像以上に大変なものだったという。各社との調整に始まり、スポンサー集め、消防署や警察署への届出までも全て一人でこなさなければならず、自身の無力さと未熟さを痛感したという。
友達はゼロ。繋がりもゼロ。何もわからない状態からスタートした中谷さんを救ったのは、富山の人々の「温かさ」と「面倒見の良さ」だった。
「思い切って頼ってみたら、『あの人に聞いてみたらいいよ』、『あの人のところに行った方がいいよ』と、富山県人らしい“いい意味でお節介”な人たちがたくさん出てきてくれたんです(笑)。気がつけば、30人近くのチームになっていましたね」
これまで仕事において、悔し涙の経験はあれど嬉し涙を流した経験はなかったという彼だが、このイベントをやり遂げた時には、自然と涙が頬を伝い、感動で胸が打ち震えたという。
「これほどたくさんの人に助けてもらい、イベントをやり遂げることができたのは、本当に感慨深かったですね。『一人では何もできない』。この経験から、“頼る”ことの大切さを痛感しました。“これだけ人生をかけてできる仕事があるのか”と、やり甲斐と達成感で胸がいっぱいになったことをはっきりと覚えています」
コミュニティを築く秘訣は「まず自らが心を開くこと」
地方移住の懸念として、「金銭面の不安」と共に必ず挙げられるのが、「人間関係や地域コミュニティの構築」であるが、良好なコミュニティを築くにあたり、中谷さんが意識的に心掛けたことはあったのだろうか。
「会社を辞めた後、当時結婚を考えていた彼女ともお別れをし、“もう何も失うものはない”という気持ちで、新天地に飛び込みました。移住後、街づくりに奮闘する姿をただただ見てもらいたいという気持ちから、『NAKAYAの毎日』というテーマで、365日1日も欠かさず“ツイート”し続けたんです。
ありがたいことに7,000人位までフォロワーが増えて、皆様からの温かいお言葉に随分と助けてもらいました。『自分から心を開かないと相手も心を開いてくれない』ということは常に念頭におき、自分から積極的に発信することを心掛けていました」
コンパクトシティ政策の先駆者
北陸地方の中核都市として人口約40万人を誇る、富山県富山市ー。
北には“天然のいけす”と称される富山湾、東には3,000m級の山々が連なる北アルプス・立山連峰を有し、「立山あおぐ特等席。富山市」というキャッチフレーズの通り、市内各所からその圧巻の美しさを仰ぎ見ることができる。
「美食のまち」としても知られる富山県は、白エビ、ホタルイカ、冬には、“富山湾の王者”と称される、氷見(ひみ)の寒ぶりが最旬を迎えるなど、四季を通じて美味しいグルメを楽しむことができるのも魅力の一つだ。
また、“東京一極集中”による地方都市の人口減少と高齢化社会に歯止めをかけるため、公共交通を軸とした「コンパクトシティ政策」に先駆けて取り組んだ市としても知られており、データを重視した街づくりを可能にした“産学官”連携の取り組みは、「富山モデル」として注目を集めている。
県の調査によると、移住者は年々増加傾向にあるといい、その70%を20代、30代の若い世代が占めているという。
その人気の理由の一つに挙げられるのが、「待機児童ゼロ」「全国トップクラスの教育レベル」など、恵まれた子育て環境だ。また、地震や火災、犯罪の発生確率が低く、「安全・安心な暮らし」を実現できる場所として、都市部からの脱出を計る人々も増えているという。
2015年には北陸新幹線が開業し、東京駅-富山駅のアクセスが最短2時間8分で可能になったことも追い風になり、駅周辺の再開発が急速に進められている。2022年3月には、新たな話題スポット「MAROOT(マルート)」が誕生するなど、新しいまちへと日々進化を遂げている富山市に今後も注目したい。
5つの柱を軸に、富山県の魅力を発信
現在、TOYAMATOは、様々な魅力を秘めた富山県を「覚醒」すべく、5つの事業を柱に、精力的に事業を展開している。
TOYAMATOが計画する5つの事業
- 【ホテル事業】まちを丸ごとホテルに
- 【レストラン事業】語りたくなる食体験を
- 【カルチャー事業】文化はカオスから
- 【観光・UJIターン事業】めぐる富山、住む富山
- 【事業承継事業】経済は出会いから
その取組みの一つとして注目されるのが、富山県内の6つのスポーツチームが立ち上がり結成された、「TOYAMA WHITE SHRIMPS(富山ホワイトシュリンプス)」だ。チーム名は、富山の名産・白エビに由来しているという。
コロナ禍を乗り越えるべく、「スポーツの力で富山を元気に」をコンセプトに結成された本プロジェクトでは、新型コロナ対策で国民に呼びかけられた「Stay home」を「Think at home」に変換し、家で過ごす時間が増えた今だからこそ考えうる「未来」のことを、各界の第一人者と共有することができるという。
2021年3月には、新会社「(株)富山とイート」を設立し、富山県美術館内に、レストラン『BiBiBi&JURULi(ビビビとジュルリ)』をオープン。
ユニークなネーミングは、「アートで、感情を“ビビビ”と刺激する。イートで、食欲を“ジュルリ”と刺激する」というコンセプトから生まれたものだとか。
美術館レストランの醍醐味が味わえる趣向をこらしたメニューも提供されており、中でも、プレートを自由に並べ替えて自分だけのアートを楽しむことができる「コンポジションプレート」は人気を集めている。
立山連峰の勇姿と“世界一美しいスタバ”を有する環水(かんすい)公園を眼前に認めながら、美味しさのみならず遊び心も満たしてくれる、そんな楽しいひと時を過ごすことができそうだ。
TOYAMATOの勢いはとどまるところを知らず、2022年3月18日に富山駅前に誕生した新商業施設・「MAROOT(マルート)」にて、富山初の“日本酒リキュール醸造所”を併設した、日本酒バル『バール・デ・美富味(みとみ)』をオープン。
富山県の日本酒の魅力を発信すべく、富山県内19の蔵元から届く季節に合わせた生酒や、富山の美食とのペアリングを楽しむことができるなど、“食べて富み、呑んで富み、語らって富む。”をコンセプトに、今までにない「感動の日本酒体験」してみてはいかがだろう。
“生きるための力”を養い、“感謝の心”を育む場所を創りたい
現在は、射水市にある空き家になった古民家を若者の交流の拠点として改修しており、その活動のプロセスを自身のInstagramで発信している。
古民家を購入した当初は住むだけの予定だったが、住民らと関わるうちに、高齢化によるさまざまな悩みや問題を抱えていることを知る。そこで中谷さんは、古民家を若者と高齢者の交流の場として、集う人がそれぞれの得意分野を生かして地域課題の解決につながる仕組みをつくれないかと考え、村づくりの第一歩を踏み出したのだ。たった1人で始まったプロジェクトは、今では30人にもなっているのだとか。
歩みを止めない中谷さんに5年後、10年後の目標について伺った。
「僕には、『村を作りたい』という一つの目標があります。そこで育まれたコミュニティを、最終的には『教育に繋げたい』ですね。そこに来た子どもたちの夢を広げて、その夢をみんなが応援し、実現の手助けをできるような環境づくりを目指しています。
農業体験や漁業体験を通じて“食育”の世界に触れるなど、普段学ぶことができない“生きるための力”を養い、“感謝の心”を育む場所にできたら嬉しいですね。それは僕一人で作るのでは意味がなくて、『その場所にいる全員と作り上げていく』、その過程こそ大事にしたいと思っています」
「そのためには、自分が一番ワクワクすることが大事ですね」
力強く語ってくれた中谷さんの笑顔の向こう側に、無限に拡がる可能性と輝かしい未来が見えたような気がした。
街づくりは、人づくりー。
その根幹にある「心」を大切にする中谷さんの想いは、世界をも魅了するポテンシャルを秘めた富山県から発信され、いつの日か国境を越えることだろう。
彼の目指すべき“コミュニティ”が世界中に創造される未来の到来に、今から想いを馳せてしまいそうだ。