移住者プロフィール
堀 新太郎さん
移住時期
2019年5月
出身地:愛知県名古屋市、前住所:東京都、現住所:愛知県名古屋市、職業:「株式会社堀商店」4代目
目次
INDEX
“おもちゃ問屋”の店先で遊んでいた子ども時代
1988年、愛知県名古屋市で"おもちゃ問屋"の長男として誕生した堀新太郎さん。小さい頃はよく、色とりどりのおもちゃが並ぶお店の店先で遊びながら、両親の仕事が終わるのを待っていた。
欲しいおもちゃがもらえるものと思っていた友達からは羨ましがられることもあったが、売り物のおもちゃがもらえるわけでも、自由に使えるわけでもない。たまにメーカーから入ってくる発売前のテレビゲームの試作品で遊べることはあったが、だからといって、特にゲームに熱中したわけでもなく、堀さん自身は当時の自分を「自制心のある子どもだった」と振り返る。
「自分の周りにおもちゃが当たり前のようにあったので、同世代の子どもたちが欲しがるようなおもちゃに対して、そんなに欲求を感じなかったんですよね。お店で働く両親の姿をいつも間近で見ていたから、あのおもちゃが欲しいと駄々をこねたり、わがままを言ったりするようなこともなかったと思います」
小学生の頃は、習い事をいくつも掛け持ちし、4年生で部活がはじまると部活に打ち込む日々。放課後に友達と遊ぶ時間がないほど忙しい毎日を送っていたという。
「習い事は、習字にピアノ、絵画教室、体操、水泳、サッカー......いろいろとさせてもらいました。両親が仕事で手が離せないので、どちらかというと託児所がわりに行かせてもらうような感じでしたね。習い事が終わったらお店に行って、親の仕事が終わるのを待って一緒に家に帰る、というような生活でした」
「自分の力で稼ぎたい」。ビジネスを学ぶため東京へ
今思えば、両親が自分を店先で遊ばせていたのは、商売の様子を見せることで、“将来、継ぎたいと思える仕事かどうか”を判断する余地を残そうとしてくれたのではないかと感じるという堀さん。
家業を継ぐ選択肢を無理に押し付けたくないという親心だったのかもしれない。直接、「跡を継いで欲しい」と言われたことは一度もなく、むしろ父は「地方の中小企業の枠におさまる必要はない」とも考えていたようだ。
当の本人である堀さん自身は、高校生になり、卒業後の進路を決める段になったとき、まず頭に浮かんだのは「自分の力で稼げるようになりたい」ということだったという。
「身近に“サラリーマン”がいなかったので、大きな組織の一部として働いて、お金を稼ぐイメージができなかったんです。自分で仕事をコントロールできないから、『要らないと言われたらそれまで』という怖さもありました。どこに放り出されても自分でお金を稼げる人材になる必要があるというのは何となく感じていたし、そもそも自分には、そういう生き方しかしっくりきませんでした」
「ビジネスを学ぼう」と決めた堀さんは、商学部や経営学部を中心に大学を受験。最終的に、OBとの繋がりが強いとされる慶應義塾大学に進学した。東京の大学を選んだのは、「名古屋から出たい」という思いが強かったからだという。
「とても狭い世界に感じていました。周りでは、地元の国立大学に進学して、地元の大手企業に勤めるのが鉄板ルートというか、“正解“みたいになっているところがあって、当時の僕はそれに違和感がありました。だから、絶対に名古屋を出る。ビジネスをやるからには、たくさんの人と情報が集まってくる東京に行こう!と決めたんです」
大手総合商社に就職し、南アフリカに赴任
大学卒業後は、大手総合商社に就職した。商社一択で就職活動をし、大手商社から中小の専門商社まで、規模は問わずに採用試験を受けたという。頭の片隅にいつか家業を継ぐという選択肢は残ってはいたものの、それを前提にキャリアを考えていたわけではなかった。
「商社であれば、何をどこから買って、誰に売るのか。どうやって付加価値をつけるのか。いろいろな人に指示を出して、モノを動かして、お金を回収するという一連の仕事ができる。それを経験すれば、基本的に、自分で商売ができるようになるはずと思ったんです」
天然鉱山資源を扱う国内営業として働きはじめた堀さんは、3年目に中国の山奥の工場に半年間滞在、さらに6年目には南アフリカへの赴任を言い渡される。
研修で中国安徽省に赴任した際は、「外国人に会うのは初めてだ」という現地の人たちと共に働いた。底冷えのする工場宿舎での寝起き、訛りの強い中国語でのコミュニケーションは一方通行。苦労は多かったが、食事は美味しく、帰るころには体重が増えていたのだそう。
めまぐるしく変化する状況のなかで、将来に悩むようなタイミングはほとんどなかったが、南アフリカ行きは別の意味で大きな決断を伴った。赴任の辞令が出たのは、お付き合いをしていたパートナーと結婚を決め、結婚式や新婚旅行の予定を立てた直後のことだったのだ。
「妻は別の商社で働いていて、幸いにも海外赴任に同行する休暇がとれる会社でした。当然、葛藤はあったと思いますが、一緒にアフリカに行ってくれました。僕としては、妻のキャリアをとても尊重しているので、それが数年間でも途切れてしまうのは申し訳ないなという思いでしたが、現地に行かなければできないような経験ができたと前向きに受け取ってくれているので、それはよかったなと思っています」
堀さんが赴任したのは、南アフリカ共和国の最大都市、ヨハネスブルグ。長い間、オランダやイギリスの植民地となってきた歴史があり、街並みや生活スタイルはヨーロッパとほとんど変わらない。その一方、世界で一、ニを争うほど、治安の悪い街として知られる場所でもある。滞在中は、常に最高レベルの警戒度だったという。
「何が起こるかわからないので、基本的に昼夜を問わず、外を歩いちゃいけないんですよ。危険度を知らない旅行者が背後から突然襲われて、身ぐるみはがされるようなことも珍しくないんです。買い物に行くときは、建物から建物まで車移動。ショッピングモールに入ってしまえば比較的安全ですが、ATMの周りは危険地帯で、下手したら発砲事件が起きるかもしれないので近寄れませんでした」
小さなトラブルはいろいろとあった(メイドさんにフライパンを盗まれるなど)が、幸いなことに、命に関わるような危険な目には遭わなかったそうだ。
「でも、日本に戻って来てからも緊張感が抜けなくて、夜道を歩いているときに何度も後ろを振りかえっていました。......人生観が変わったとまでは言えないけど、こういう世界もあるんだなとか、こういう考え方の人たちもいるんだなとか、それまでの価値観は変わったかもしれないですね」
初めて聞いた父の弱音。家業への合流を決意
父からSOSの連絡がきたのは、アフリカに赴任して2年目のことだった。祖父母が二人とも介護が必要な状態で、そちらのサポートに時間をとられることが多くなったため、「帰ってきて、会社に手を貸してくれないか」という相談だった。
父が弱気な面を見せるのは初めてのことで、とても大変な状況なのだということが感じ取れた。その時、堀さんはあらためて、“商社”と“家業”、どちらを選択するべきなのかを真剣に考えたという。
「商社での仕事は、まさに世界をまたにかけるような、規模の大きなエキサイティングな仕事です。でも、取り扱うのは天然鉱山資源で、相手が求める品質基準を満たした原料を納めるのが当たり前。モノを売って、お客さんの喜びに触れられるような機会はあまりありませんでした。
一方で、小さい頃から見てきた堀商店の仕事は、どうしたらお客さんに喜んでもらえるのか、お客さんの笑顔を思い浮かべながら商品を仕入れて、それを買ってくれたお客さんからは『子どもたち喜んでいたよ』と声をかけてもらえる。商売をする喜びを身近に感じられるような仕事だなと気づきました」
一生の仕事にするなら、家業のほうが面白そうかもしれない。そう心が決まった堀さんは、8年間勤めた商社を退職。アフリカから帰国後、2019年5月に名古屋市にUターン移住した。妻は職場復帰のため東京に留まり、現在は、週末に堀さんが会いに行く“週末婚”というかたちをとっているそうだ。
堀商店4代目として何ができるか?
堀さんが4代目として承継を決断した「株式会社堀商店」は、スーパーボールやお面、ヨーヨー風船など、お祭りの屋台に並ぶようなおもちゃから、企業や幼稚園・保育園が主催するイベントの景品、さらには文房具やお菓子まで、子どもやファミリー向けの商材を幅広く扱う卸問屋だ。
創業は1950年。終戦後、焼け野原となった名古屋の地で曾祖父母が始めた商売だった。当初は、名古屋で仕入れたお菓子や飴を東京の子どもたちに売り、その収入をもとに東京で仕入れたおもちゃを名古屋に持ち帰り販売していたという。
2002年からはいち早く通信販売も開始し、全国各地の露天商やイベント事業者を中心に商品を卸すなど、時代を先読みしながら事業を展開してきた堀商店。
順調に業績を伸ばしてきていたが、堀さんが戻ってきた2019年は、それがやや頭打ちになっていたタイミングだった。
何かブレイクスルーを起こさないといけない、変わらないといけないという危機感が社内に漂っているなかで、外で多くの経験を積んできた堀さんの合流を、スタッフたちはポジティブに待ち望んでくれていたようだ。
「でも、実際に家業に合流してみると、なにか致命的に改善するべきところは見つからないというのが最初の印象でした。スタッフの接客や電話対応もしっかりしているし、商品知識も十分。在庫管理や受注管理もシステム化されているし、デジタル化は前の職場よりも進んでいるくらいでした」
半年ほどは通常業務を覚えることに専念するなかで、「既存のスタッフと違うこと」で自分に何ができるのかを模索していった。
「最初は営業を強化する必要があると考えました。というのも、うちには外回りをする営業マンが一人もいないんですね。基本的にお店に来てくれた方や問い合わせを頂いた方を大切にしてリピーターになっていただくとか、口コミで広げてもらうとか、いわゆる“待つ営業”スタイル。ここに“攻めの営業”を取り入れれば、すごく伸び代があるんじゃないかと思ったんです」
しかし、父と意見を交わし合ったり、堀さん自身、徐々に事業の性質を理解したりしていくなかで、最終的に腑に落ちることがあった。
「うちで扱う商材は、基本的にお客さんが欲しいと思ったときにしか売れない。押しの営業より、待つ営業のほうが向いているビジネスなんだなと理解しました。それなら打てる戦略は、幅広い人にまずは知ってもらうこと。マスコミに取り上げていただけるような広報活動に力を入れるべきだと思いました」
そこで、新しい商品をつくり、それをニュースとして発信することにした堀さん。最初に作ったのが、株式会社一旗と共同で企画した「セルフ縁日」セットだ。
コロナ禍で夏祭りや花火大会が相次いで中止されるなかで、誰もが自宅で手軽にお祭りを楽しめるようにと企画した。地方の卸問屋が開発したことをプレスリリースすると、早速、メディアに取り上げてもらい反響があったという。
この"ものづくり"と"ニュースの発信"をセットで繰り返す戦略で、堀さんは、堀商店の認知度を徐々に高めていった。
雑談から生まれた新商品「ポイポイバトラー」
商品づくりをするときに、堀さんが大切にしているのがスタッフとの雑談だ。社内にはおもちゃが大好きで、「こんなものがあったらいいな」と、日々、楽しく"妄想"をしているアイデアマンがたくさんいるという。
「特に僕のバディとも言える社内きってのアイデアマンが一人いて、彼はうちのTwitterを数万人のフォロワーを抱えるまでに成長させた人でもあるんですが、すごく面白い人です。
彼らと雑談していると、こういうのやりたかったんだよね、こういうのあったら面白いよねという話がたくさんでてくるので、それを僕が形にするような流れで商品化しています」
まさにそんな雑談のなかから生まれた商品で、堀さんがとくに手応えを感じたというのが、「ポイポイバトラー」。頭につけたポイ(金魚すくいで金魚をすくう道具)をめがけて、水鉄砲を撃ちあうというゲームだ。
「『水鉄砲って結構メジャーな商品なのに、実はその遊び方ってあんまりないよね』と社内で話していて…。『昔、ポイをハチマキで頭につけて対戦するようなテレビ番組もあったし、商品化したら面白いんじゃないか』というところから、形にしていった商品です。パッケージもデザイナーさんと一緒に考えて、カッコいいデザインに仕上げました」
量販店を中心に営業にも力を入れ、2022年夏に全国のドン・キホーテや東急ハンズなどの一部店頭で販売。さらには、スポーツとして広めていくべく、堀商店主催で「水鉄砲対戦ポイポイバトラー選手権」も開催した。
「ただの"面白い商品"で終わらせず、スポーツとしてみんなに愛されるものにしていきたかったんです。来年も仲間を増やしながら、大会は続けていく予定です。参加した方にはすごく喜んでいただいたし、テレビでもたくさん取り上げていただいて、反響は大きかったですね」
大会は名古屋での開催だったが、大阪からの参加者もおり、一つのスポーツツーリズムも成り立ったという。
ビジネスの綺麗事ではない、地域のためにできること
ポイポイバトラーの大会を開いたことで、堀さん自身の考え方にも大きな変化があった。
「実際に大会を開くまでは、『スポーツとして普及させれば、商品も自動的に売れるようになるだろう』とか、ビジネス目線でしか考えていなかったところがあって。いくら社会のため、地域のためと言っても、結局はビジネスでしょうと......
でも、ポイポイバトラーの大会を開いたとき、会場がすごく幸福感で溢れていたんです。子どもたちはめちゃくちゃ楽しそうだし、親御さんたちもみんな笑顔で、その空間がものすごくピースフルというか、僕にとっては心動かされる経験だったんですね。
それを見たときに、『これをやること自体に価値があるな』と初めて素直に思えました。地域のため、子どもたちの未来のためということを、ビジネスの綺麗事じゃなくて本気で思えた……僕にとってはエポックメイキングな商品なんです」
ポイポイバトラーはさらに、地域との関わり方を考える一つのきっかけにもなったという。大会を開いたのは、名古屋中心部にある「Hisaya odori Park シバフヒロバ」。名古屋市からの委託を受けた大手不動産や広告会社が、商業施設と組み合わせて新たに開発を進めているエリアだ。
「開発に関わっているのは、これから17年くらいかけて、本気で街づくりをしていこうとしている人たちです。ポイポイバトラー大会を開いたご縁で、そういう方たちともコミュニケーションをとれるようになって、堀商店も今後、中小企業ながらプロジェクトに関わる機会を得ることができたのは、本当によかったなと思っています」
地域おこしという点ではほかにも、2020年から堀商店はハロウィンラリーイベントも開催している。仮装した子どもたちが円頓寺商店街やHisaya odori Parkのお店を周ってポイントを集めながら、店頭で「トリックオアトリート」と言うとお菓子がもらえたり、サービスが受けられる企画だ。
年々、規模を広げながら現在3回開催しており、地域おこしに一役買っているものの、堀さんの実感としては道半ば。中小企業同士の繋がりがまだまだ薄いと感じるという。
「名古屋は、地元の大企業がスポーツチームのスポンサーになるとか、そうした大きな動きは目立ちますが、ローカルなエリアでの中小企業同士の連携や地域との関わりは不十分だと感じています。中小企業こそが、地域の未来をよくしていこうという気持ちで集まっていかないと、きっと良い街おこしにはならないと思うんです。
今後は、もっと多くの企業を巻き込みながら、名古屋を子どもたちの笑顔であふれる街にしていきたい。それをどこの誰がやるよりも、おもちゃを商材とする僕ら、堀商店がやるのが一番筋が通っている気がしています」
地元に戻ってきて感じた「意義」
堀商店の先頭に立ち、新しいことにも臆せず挑戦し続けている堀さん。名古屋にUターンして4年目とは思えないほど、その活動内容は多岐に渡り、会社や地域に変化の兆しをもたらしている。
そんな堀さんに、あらためて名古屋に戻ってきて感じる意義や自身の変化について尋ねてみた。
「一度、外に出て経験を積んだからこそ、地元に戻ってきて地域の活性化に関われているということが、Uターンしてきた意義じゃないでしょうか。東京にいたら絶対にできないし、やろうとも思わなかったと思いますから。
自分にとっての幸せは、妻を始めとした家族との関係を良好に保つことなので、何よりもそれを最優先にしていますが、それでも、名前も知らない誰かやこの社会の未来のために何かをするというのは、尊いことだなと感じています」
小さい頃から抱いていた名古屋に対する「狭い街」という印象は変わらないが、今は、その狭さを前向きに捉えられるようになったとも話す。
「たとえば、『この商店街と一緒に何かしたい』『テレビ局にアプローチしたい』といったときに、一人だけ間に挟めばだいたい繋がれるというか……東京であれば、特殊なコネでもないとできないところを、名古屋では、アイデアさえしっかりしていれば、比較的短期間でつながりを築いて共同でプロジェクトを立ち上げられたりします。それでいて、都市の規模が大きい分、その影響力も大きい。すごくビジネスのやりがいのある街だなと感じています」
大事なのは、自分の意思で戻ってくること
最後に、堀さんのように地元にUターンし、家業を継ぐかどうかを迷っている人に向けてメッセージをお願いすると、
「自分で決めて戻ってきてください」
という一言。
「自分の人生なので、『戻らないといけない』なんてことは絶対にないはずです。『言われたから戻ってきた』というのは苦しいし、自分で決めないといつまでも人のせいにできてしまいます。家業持ちだと周りからいろいろと言われることもあるかもしれませんが、戻るか戻らないかに正解はないので、自分で決めて戻ってきましょう、というのが僕からのアドバイスです」
「自分で決める」ということは、自分を信頼し、尊重することでもあるのだろう。そこからしかきっと、社会のため、未来のための一歩も踏み出せない。
堀商店の4代目として、確かなビジョンを持ち、子どもたちの笑顔があふれる街づくりを目指している堀さん。そうした一人ひとりの力と思いが集まって、名古屋はこれからどんな街へと変わっていくのだろう。ほかの大都市とは一味違う、名古屋ならではの発展を遂げていくのかもしれない。