移住者プロフィール
奥山 武宰士さん
出身地:東京都八丈町、現住所:東京都八丈町、職業:元Jリーガー、焼酎蔵「八丈島酒造」の4代目
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八丈島で初のプロサッカー選手に
東京から南方へ約290km。伊豆諸島の南端に位置する八丈島は、八丈富士と三原山という2つの山に抱かれたひょうたん型の火山島だ。年間の平均気温はおよそ18℃。
「常春」と言える温暖多湿な気候で、「東洋のハワイ」との異名も持つこの島には、黒い溶岩でできた海岸や亜熱帯の樹木、色鮮やかな花々など、島独自の景観が広がっている。
ハイキングやマリンスポーツなど、山と海のアクティビティを楽しめるほか、火山島ならではの温泉も点在。古くから「流人の地」としても知られており、彼らが望郷の想いを込めて打ち鳴らしたとされる「八丈太鼓」や、日々の糧を得るために海岸から運んで積み上げたと伝えられる「玉石垣」などが、島の歴史を今に伝えている。
この美しい海と山に恵まれた南の島で、1991年に生まれた奥山武宰士さん。実家は、島に4つある焼酎蔵の一つ、大正4年(1915年)創業の「八丈島酒造」だ。
島で最も古い歴史を持つこの酒蔵で、奥山さんは小さい頃から、焼酎造りを手伝ってきた。しかし、任されることといえば単純な力仕事がほとんどで、当時は、「キツい仕事」くらいにしか感じていなかったという。その代わりに、奥山さんが幼少期から興味を持って打ち込んだのがサッカーだった。
「小学校1年生くらいの時に、サッカーを始めました。八丈島に仕事の関係で赴任してきた方にコーチをしていただいていて、『東京のチームのセレクションを受けてみれば?』と勧められたのがきっかけです。柏レイソルのセレクションに応募して、それに受かってからは、すぐにプロを意識するようになりましたね」
「島を出てプロになる」という道は、当時、八丈島で生まれ育った子どもたちにとっては、思いもつかないような選択肢だった。コーチと一緒にランニングをし、それが終わったらひたすらビデオを見て研究する。セレクションに受かるまで毎日それを繰り返し、地道に努力を重ねたという。
八丈島を離れたのは、小学6年生の時。柏レイソルの本拠地、千葉県柏市へと場所を移し、サッカーに明け暮れる日々を送った。ヨーロッパ遠征にも参加し、スペイン、ドイツ、オランダ、フランスなど、サッカーの強豪とされる国々を訪れては、試合に出場したという。
「その中でも、特に衝撃を受けたのがドイツでした。海外のサッカーには結構雑なイメージがあって、体格差でゴリゴリにやられるんだろうなと思っていたら、むしろ技術面でやられました。その時から、『俺はドイツに行きたい!』とコーチに言うようになりましたね」
ドイツのサッカーチームへの入団を目指したものの、環境に恵まれなかったこともあり叶わなかった。しかし、高校時代にアルビレックス新潟ユースに入団すると、2010年にトップチームへと昇格。「八丈島を出てプロになる」という夢を実現させ、八丈島出身者として初めてのJリーガーとなった。
シンガポール、ミャンマー……海外での暮らしも経験
その後は、アルビレックス新潟シンガポールにレンタル移籍。20歳からの2年間をシンガポールで暮らした。再び、新潟に戻ったが出場機会を得られず、2014年からはミャンマーリーグへと移籍し、ヤンゴンで1年間生活した。
八丈島を出て以降、千葉、新潟、シンガポール、ミャンマーと、さまざまな土地での暮らしを経験したが、その中でも特に印象に残っているのは、ミャンマーだという。
「シンガポールは綺麗に整った街でしたけど、ミャンマーはかなり刺激的でしたね。ヤンゴンの端のほうにいたんですけど、練習が終わったあとに家の周りをランニングしていると、上半身裸の子どもたちが鞠(まり)のようなものを蹴っているんです。ボールじゃないんですよ。日本の昔の蹴鞠(けまり)のような......そんな日常風景が印象的でした。
治安があまり良くなくて、お酒を飲んでタクシーで帰った時、後ろの席で寝ようとしたら、運転席から手が伸びてきて財布を盗られそうになったこともありました。急いで手を押さえたら、何事もなかったように家まで送ってくれましたけど......。そういうことは結構ありましたね。
そんなスリリングな体験をしつつも、「ミャンマーが一番楽しかった気がする」と奥山さん。しかしこの時、サッカー選手としては、大きな岐路に立たされていた。
「ミャンマーが終わって、1年くらいは香港やマレーシアのチームの練習に参加していたんですけど、結局どこも決まらず、"辞め時"だなと思いました。正直言うと、プロになってからは『もうやりたくない』と思うくらい、サッカーが嫌いになっていたんです」
強者ばかりが揃う厳しい世界で、「自分にはプロとしてやっていくメンタルがなかった」と振り返る奥山さん。同世代には、日本代表としてW杯にも出場した原口元気選手もいるそうだ。
「僕は、八丈島からプロサッカー選手になれたらいいなと思っていましたが、周りにとってはプロになるのは当たり前、通過点でしかないんですよね。そういう選手を見ていると、技術面ではそこまで負けてないなと思っていたんですけど、気持ちの部分で自分には難しかったなと思います」
こうして、自身の気持ちにきっぱりと区切りをつけ、現役を引退。その後は、純粋にサッカーを楽しめるようになり、プロを夢見て練習に打ち込んだ少年時代のように、「サッカーが好き」という気持ちを取り戻すことができたという。
営業マン時代を経て、八丈島にUターン移住
引退後は、3年ほど、東京で不動産会社の営業マンとして働いた。
「かなりキツかったですね。朝、早く家を出て、夜、家に帰るのは11時、12時。数字を追い続けないといけないというプレッシャーが常にありました。人生でそういう経験をしたことがなかったので、勉強にはなったし、良い経験になったかなとは思います」
そんな中で、奥山さんが故郷である八丈島に戻る決断をしたのは、2020年のこと。パートナーとの結婚、そして子どもの誕生が一つのきっかけだった。
「いずれは帰ろうと思っていました。親からも『跡を継いでほしい』というようなことは言われていたので。結婚する前から、奥さんにはそのことを伝えていたので、(移住という決断は)すんなりと受け入れてくれましたね」
こうして、2020年9月に妻と長男と共に八丈島にUターン移住。八丈島酒造の4代目として、焼酎造りに挑戦する"第二の人生"が始まった。
老舗焼酎蔵4代目に。基本を学び、自身の手法を模索する日々
八丈島における焼酎文化の歴史は、1853年まで遡る。八丈島へと島流しの憂き目にあった薩摩出身の船問屋、丹宗庄右衛門(たんそう・しょうえもん)が、島民にさつま芋を使った焼酎造りを伝えたのが始まりとされる。
現在、島で最古の焼酎蔵である「八丈島酒造」は、奥山さんの曽祖父、奥山清五郎(おくやま・せいごろう)氏が酒造免許を手に入れ、「清五郎酒造」として大正4年に創業した。昭和2年に「八丈島酒造」と屋号を変え、現在に至るまで、その伝統が受け継がれている。
奥山さんにとって、子供心に「力仕事」くらいにしか思っていなかった焼酎造りだが、4代目として家業に入り、本格的に一つひとつの工程に携わるようになると、その見方はガラリと変わったという。
「発酵の温度が少しでも高いと味が変わるので、自分がどういう味にしたいかで温度を調整していく必要があります。正解はないんですけど、繊細な作業だなと思うようになりました。父に教わったり、広島にある酒類研究所に通って、発酵の温度や蒸留の仕方、アルコール度数の切り方などを学んでいきました」
今は3代目である父・清満さんのやり方に倣い、その味を忠実に作る中で技術を磨いているが、「ゆくゆくは自分の味を作っていきたい」と話す。これまでのやり方を守っていきたい父と、新しいことに挑戦したい奥山さんとで、意見が対立することも少なくないようだ。
「原材料から自分たちで作る『ドメーヌ』というワイン造りの方法があって、僕はそれを焼酎でもやっていきたいと思っているんです。今、さつま芋は100坪くらいの畑で自家栽培しているんですが、焼酎の製造過程で出る廃液を肥やしにすることで、土壌の改良を試しています。芋の廃液と麦の廃液をそれぞれ撒いてどうなるか、あるいは撒かないほうが良いのか、まだやり方を確立できていないので、今後も研究していきたいと思っています」
新商品を発売。「形を変えながらも、島焼酎の伝統を伝えていきたい」
2022年7月、酒蔵で修行を始めて2年目の夏、奥山さんのアイデアが一つの商品として形になった。
スパークリング焼酎「Sparkling MARUSE」だ。
「コロナ禍で売り上げがすごく落ち込んで、酒自体が盛り上がっていなかった時期に、ちょっと変わった焼酎を作りたくて考えました。
八丈島では乾杯はビールで、その後はずっと焼酎を飲み続ける人が多い。その乾杯も焼酎でいけるくらいのものを作りたいと思ったんです。開発段階では、炭酸を入れる量に苦労しました。コーラだとこれくらい、ビールだとこれくらい......という目安がある中で、焼酎はどこに設定すればいいのかが難しくて、試行錯誤しました」
発売後の評判は上々で、品薄状態になったほど。曽祖父・清五郎氏の頭文字「せ」から取ったという「MARUSE」という名前には、「創業以来の技術や伝統を大切にし、形を変えながらも次の世代に継承していきたい」という、自身の想いを込めたという。
「もともと島に6つあった酒蔵も、後継者不足で残っているのは4つだけ。島の人口も減っていて、今は7000人くらいです。島焼酎の販路としては、島内が6割くらいなので、人口減少は売り上げにも直結していきます。将来、息子に跡を継いでほしいと思ったとしても、売り上げがほぼないような状態だと、いくら仕事に面白みがあっても辛い。継ぎたいと思ってもらえるような蔵を、僕が作っていかないといけないなと思っています」
島での生活や買い物、インフラ事情は?
小学生の頃に八丈島を離れて以来、十数年ぶりに島での生活を送っている奥山さん。
羽田空港から飛行機で50分ほどでアクセスできるという立地の良さから、毎年一回は帰省しており、島の様子はある程度わかっているつもりだったが、いざ実際に暮らしてみると、島ならではのルールやコミュニティなど、初めて気づかされることも多かったようだ。
「まず、消防団に入らないといけないんですね。強制ではないですけど、『親がやってるんだからお前も』みたいな感じで。僕は、焼酎造りを頑張りたいし、遅くまで研究もしたいのに、消防団の活動に時間をとられるのは、正直、嫌でした。
でも最近は、一人でずっと焼酎を作っているよりは、たまにそういうところに顔を出して、みんなと世間話をするのも悪くないというか、むしろ健全なのかなとようやく思えるようになりました。島の人たちは焼酎を飲んでくれる大事なお客さんでもあるので、商品に対するリアルな声を聞く機会にもなる。そういった意味でも、大事なことだなと思っています」
島での買い物に関しては、小さな個人商店のほか、大きなスーパーが2つあるため、食品や日用品などはそこで購入し、足りないものがあればネットで注文する。洋服を買えるような店はほとんどないので、東京に行った時に買ったり、やはりネットで注文する。
「島の人でファッションに気を遣っている人はいないですね(笑)。お洒落な人を見かけたら、観光客だとわかるくらいです」
島の医療についても伺うと、以前は専門外来が少なかったが、現在は、産婦人科や小児科も常設され、専門医による医療が受けられるようになったという。インフラ面では、安心して暮らせる環境が整ってきているようだ。
観光策強化に向け、新たなプロジェクトを進行中
奥山さんは消防団のほかにも、八丈島の観光協会の理事も務めている。
メンバーは50代以上が中心で、人口減少が進む中で島の未来を考えた時、「いかに観光客を楽しませることができるか」は避けては通れない課題。それこそが「酒造業に携わる自分の使命でもある」と奥山さんは考えている。
現在、八丈島酒造の新たなプロジェクトとして、酒蔵の横に焼酎の試飲所と、民宿を兼ね備えた施設が2023年12月頃の完成予定とされている。
「八丈島は、ダイビングショップなどは充実していますが、雨の日はほとんどやることがないんですよ。そういう日に、観光客の方から蔵を見学したいという問い合わせをたくさんいただきます。今も個別に対応はしているんですが、一般の人が蔵だけ見てもあんまり面白くないんじゃないかと思うんですね。なので、試飲所でいろいろな種類の焼酎を飲んでもらったり、焼酎好きな方に泊まっていただけるような宿泊施設を作っているところです」
コロナ禍以降、リモートワークができるようになったこともあり、島に移住してくる人が徐々に増えてきた一方で、「移住したいけど仕事がない」という声も耳にするという。試飲所や民宿を作ることで、観光業を促進するだけでなく、島に住む人の雇用も生み出せる。そうした長期的な仕組み作りも視野に入れつつ、計画を進めているそうだ。
小さな幸せに気づけるように。辛い作業を経た一杯は格別
八丈島に移住して3年目。今、奥山さんが感じる島の魅力について尋ねてみると、「東京にすぐ行けることですかね(笑)」という率直な答え。
「朝行って、夕方に帰ってくることもできます。出張で東京に行った時は、2、3日もすると疲れて、島に帰りたくなりますね」
島に戻ってきてからは、「日常の小さな幸せに気づけるようになった」とも話す。
「父と喧嘩して、めちゃくちゃ仲が悪い時もあるんですけど、この先、一緒に働ける時間は限られているし、二人で焼酎を作って、梱包して、配達して、それだけで幸せなんじゃないかと思えます。
東京で不動産の営業をしていた時は、毎日数字を追いかけまくって、周りと比べて誰が一番かを決めていく、ある意味、サッカーと近い世界でした。でも、焼酎造りは自分がどうしたいのかを決めて、そこに向かって黙々とやり続ける作業。それが、自分には向いている気がします。
毎日、芋を掘って、綺麗に洗って、両端を切って、蒸して、砕いて、仕込む。全部の工程がしんどい作業ですが、東京の居酒屋さんで『ああこれキツかったな』と思い出しながら、自分が作った焼酎を片手に食べるご飯は一段と美味しい。最高です」
プロサッカー選手を夢見て島を離れ、弱肉強食とも言える厳しい世界で成功と挫折を味わった奥山さん。島へと戻り、今までとはまったく違う焼酎の世界で新たな目標に挑んでいる。
八丈島には、海外のようなスリルも、東京のような華やかさもないかもしれない。そこには、幼い頃から見慣れた日常の風景が広がっているだけーー。
しかし、だからこそ、奥山さんにとって八丈島は、自分自身と向き合い、自分のペースを取り戻せる場所。帰るべき場所であり、新たな出発地点なのだろう。