移住者プロフィール
堅田 知里さん
出身地:高知県高知市、前住所:香川県高松市、現住所:香川県さぬき市津田町、職業:ダンサー、演出家、ワークショップファシリテーター
目次
INDEX
- 表現の世界に「カタタチサト色」を加える、唯一無二の存在感
- 本当の意味での「多様性」を幼少期から肌で理解してきたー
- 「魔法使いみたい・・・」5歳の彼女の心を鷲掴みにしたダンスとの出会い
- 本格的にダンサーの道に進むべく、上京
- 死生観を変えた父の死。そして命の誕生ー。
- そして、移住ー。
- ライフプランの変化に合わせ、香川県高松市への移住を選択ー。
- 日常の世界から零れ落ちているような感覚がインスピレーションの源泉
- 家族が笑顔でいられる場所を求め、飽くなき探求は続くー。
- 起こってもいないことで不安になるよりも、住みながら考えていけばいいー
- 地域に存在する“暗黙のルール”は、移住者側から心を開いて知りに行く努力も大切ー。
- 子どものためだけでも仕事のためだけでもなく、自分にとっても豊かに年をとっていける場所ー。
表現の世界に「カタタチサト色」を加える、唯一無二の存在感
「小さい時から感受性がすごく豊かで、“人とは何かが違う”ということを当時からすでに感じていました。でも、人と違うことで“生きづらい”とか“大変だ”と思ったことは、不思議とありませんでしたね」
そう語るのは、舞踏とモダンダンスをベースに、ダンサーとして30年以上のキャリアを持つ、堅田知里さん。ダイナミックかつ繊細な表現で「何でもない空間をたちまち異世界に変える存在感」と、世界をも認める、唯一無二の存在だ。
圧倒的な表現力を武器に、演出家、ワークショップファシリテーターとしても幅広い活躍を見せ、表現の世界に「カタタチサト色」を加えている。
彼女が“人と同じであること”にさほど意味を見出さないのは、とても自然なことなのかもしれない。その秘密は、彼女の原体験にあったー。
本当の意味での「多様性」を幼少期から肌で理解してきたー
祖父母、叔母、両親がそれぞれ一つずつお店を営む商売人の家系に育ち、商店街にある小学校に通っていたという堅田さん。
かつては活気に溢れし商店街には、両親が営むセレクトショップや飲食店のほか、お漬物屋さんに果物屋さん、小鳥屋さんや洋服屋さんなど、当時はまだ多かった小売りのお店が軒を連ねていたという。
お店のオープンクローズの時間も違えば、それぞれが持つお店の匂いも違うー。
各々のルールがそこには存在し、互いを尊重しあってこそ成り立つ独特の世界観の中で、彼女は中学卒業まで時を重ねた。
「皆が違って当たり前」という本物の“多様性”への理解を、彼女は当事者として自然と身に着けていったのだろう。
また、“人と違う”ことに何ら違和感を覚えなかったのは、生育環境だけが要因ではなかったようだ。そこには、父親の「当たり前のことを当たり前と思うな」という教えが存在するのだという。
「『なんでお日様の光が筋で見えるの』とか『なんで大人は嘘つくの』とか、 気になったことは何でも質問しちゃう子だったんですけど、父だけは嫌な顔ひとつせずに答えてくれました。仕事が忙しかったのでほとんど家にはいなかったけれど、お店に行けばいつでも父に会うことができた。
“自分が人と違う”ということで居づらさを感じずに済んだのは、人と違う自分を認めてくれる父が、いつでもそこにいてくれる“安心感”からだったのかもしれません。
昭和という時代背景もあったのか、みんないい意味で適当なのもよかったのかな(笑)。親になったからとかの縛りもなく、大人たちもそれぞれが自分の時間を楽しんでいて、その背中を見て育った私たちも陽気に過ごしていました」
「魔法使いみたい・・・」5歳の彼女の心を鷲掴みにしたダンスとの出会い
言語化できずにくすぶる“名もなき感情”に命を吹き込み、身体全体で表現する今の彼女からは想像もつかないことだが、幼少期は決して感情表現が得意な方ではなかったのだという。
幼き頃より感受性が豊かだったという彼女の溢れる想いは、発信される場所を見出せず、燻っていたに違いない。エレクトーンや絵画、英語など、親の勧めで色々な習い事にもチャレンジしたが、心を揺さぶるものにはなかなか出会えなかったという。
そんな5歳のある日、彼女の心を一瞬で鷲掴みにする「ダンス」との出会いが訪れる。
「幼稚園に来ていた先生が、デモンストレーション風にダンスを披露してくれたことがあったんです。その先生が手をシューっと(実際に手を動かしながら)やった時に、本当の煙がふわっと浮いたように見えて、『この人すごい!魔法使いだ!』と思って、子どもながらに鳥肌が立ちました」
その人物こそ、生前高知県から創作バレエを発信し続けた舞踊家、内山時江さんである。
魔法をかけられたかのように、彼女はすぐに内山さんが率いるモダンバレエ研究所に入所。
5歳から高校卒業までの13年間という長い年月をこの研究所で過ごし、モダンダンス、バレエの基礎の習得に励む日々を送ったという。スキルの習得のみならず、“踊ること”は自身の個性への理解を深めるまたとない機会にもなったのだ。
「例えば、先生が『お腹に力を入れるとこうなるのよ』と教えてくれても、私の場合はなぜか同じようにならないんです。だからいつも自己流で、“こうすれば皆と同じに見えるんじゃない?”なんて鏡とにらめっこしてたこともありました(笑)。
色々な考えの人がいるのが自然ですから、中には『みんなと一緒にできない=ダメなこと』と捉える人もいます。
特にダンサーを生業にするようになってからは、同じテンポで、同じ雰囲気で、足並みを揃えて踊ることを求められる仕事に直面することもままありました。
お仕事ですから、“自分がどう感じているか”とか“同じように踊っているつもり”などということは、当然通用しないので、“人と同じに見えるためにはどうすればいいんだろう”と、必死で考えたりもしましたね」
時には「個」を封じ込めて踊ることが求められても、彼女の根底にある“想い”が変わることはなかったという。
人と違っても気にしない。これが私なのだからー。
「もちろん“人と違うこと”で苦労がなかったわけではありません。でも、何より私が大切にしているのは、自己肯定感を育むこと。自分自身が自分自身のことを好きでいられるかどうかなんです」と、いたずらっ子の少女のように微笑んだ。
本格的にダンサーの道に進むべく、上京
高校生の時には、クラシックバレエのソロ作品を何度も任されるまでになっていたが、技術の向上とは裏腹に、踊りに対してのジレンマを抱えるようになったのもこの頃だったという。
「練習を重ねていけば、振り付け通りに上手に踊ることはできるようになります。
でも、そこに中身がまったく伴っていないというか、世界観をちっとも創り上げられていないというジレンマを感じるようになって。
みんなが違和感を持たずにレッスンに打ち込んでいる中、ジレンマを抱えた自分だけが置いてけぼりになっていると感じたことを、今でも覚えています」
このジレンマこそが、まさに彼女がダンサーの道に進むきっかけになったとも言えよう。
ジレンマに気が付かないふりをして、皆と同じようにレッスンに打ち込む“振り”もできたのだろうが、彼女が選んだ道は「探求」であった。
「踊りってなんだろう。どうしたら中身を創り上げられるのだろうっていう探求心が生まれて。それを確かめたくて、外の世界を見に行くことにしました」
こうして、家業を継いでほしかったご両親には内緒で受験し、合格した体育大学の舞踊科への進学を機に、上京を決意。当初は難色を示したご両親だったが、最終的には「25歳までは目をつぶるから、自分が生きていけるくらい稼げないなら戻ってきなさい」と、送り出してくれたという。
死生観を変えた父の死。そして命の誕生ー。
上京後、「舞踏」の創始者として国際的に知名度の高い土方巽(ひじかた・たつみ)さんの直系の舞踏家・和栗由紀夫さんに師事。
「和栗由紀夫+好善社」に6年間所属し、ほぼ全作品に主要ダンサーとして出演すると共に、1998年からは「Dance Bon Bon」名義で舞台制作やイベントオーガナイズも手がけるなど、精力的に活動を展開していった。
ご両親と約束した25歳は少し超えたものの、2000年には、和栗由紀夫+好善社出身の女性ダンサーと共に「東雲(しののめ)舞踏」を発足。第3世代舞踏グループとして注目を集め、海外フェスティバルや国内公演ほか、ヨーロッパ公演も成功させるなど、国内外問わず力強い存在感を発揮した。
ダンサーとしてひた走り、自身が培いたかったオリジナル性も掴むことできたと手ごたえを感じていた彼女は、次のステージへと進むべく、ソロ作品「orサイクロン(オァサイクロン)」を発表。
様々な活動を経て、より研ぎ澄まされ凝縮された彼女の表現の世界にどっぷりと浸かれる本作品は、「渾身の一撃で作った」という彼女の言葉通り、“カタタチサト”の代表作のひとつとなった。
しかしその翌日、「ダンサー・カタタチサト第1章」の幕引きを見届けたかのように、最愛の父が突然この世を去ってしまう。
辛くない別れなど存在しないが、理解者であった父との突然の別れは、彼女の死生観に変化をもたらすほどの衝撃を与えたという。
大切な存在を失った時、その死をどのように受け入れていくかは当事者に委ねられるものだ。
同じ人間の決断であっても、その死がどのタイミングで訪れたかにより、受け入れる方法や要する時間は変わってくるように思う。
今までの彼女は、辛い経験をした時こそ、その時に感じた自身の感情を深掘りし、作品創りに投影する方法で、問題と対峙することが多かったのだという。
しかし、この時の堅田さんの傷はあまりにも深く、「作品を創ること」や「身体表現をすること」で父親の死と向き合うことは、修正できないほどに傷を抉(えぐ)るあまりにも辛い作業になることは明白だった。
その時の彼女を奮い立たせたのは、愛する伴侶を突然失った母親へのグリーフケアと、両親がずっと守ってきたお店の行く末を家族と決める責任感だったという。
打ちひしがれる暇もなく問題の解決に奔走する彼女の中に、やがて“ある想い”が宿る。
新たな命を授かりたいーー。
「父が亡くなったことで、変な言い方ですけど“この世の中から人間が1人減ったから増やさなきゃ“と思ったんです。動物としての本能が働いたとでもいうのか」
当時パートナーだった現在のご主人にその想いを吐露し、話し合った末、子どもを授かるための準備を整えることに。ほどなくして命のバトンは繋がり、父親との悲しい別れがあった翌年、第一子となる長男が誕生した。
そして、移住ー。
息子の誕生後、舞台復帰することで再び表現の世界に舞い戻った堅田さん。
しかし、例にもれず、都会での育児の洗礼ともいえる“待機児童問題”に直面してしまう。
0才児を連れてぎゅうぎゅうの満員電車に乗りながらやっとの思いで現場まで通い、リハーサルの間はベビーシッターを頼る日々に、どんどんと心がすり減っていったという。
徒労感の蓄積の末、やがて彼女は限界を迎え、「このまま東京にいても、自分の能力を発揮することができない。“らしくいられる場所”に身を置き、家族とともにありたい」という結論に至る。
夫婦ともに「豊かな自然の中で子育てしたい」という子育て観が一致していたことも追い風となった。
何より、ダンサー・カタタチサトの踊りに惚れ込んでいるというご主人は、家具職人への転身という人生における大きな決断をしてまでも、彼女がのびのびと踊れる場所に身を置くことを熱望してくれたのだそう。
そのエールを受け取った彼女は2011年3月、故郷と同じ四国地方にある、徳島県徳島市に家族で移住した。
ライフプランの変化に合わせ、香川県高松市への移住を選択ー。
徳島市に移住後、かねてより興味を持っていた「自然保育」と「食育」に力を入れている保育所を選択。裸足保育を推奨し、思いっきり体を動かすことの楽しさを教えてくれる園で、のびのびとした3年間を過ごすことができたという。
2012年には、第2子となる長女が誕生し、4人家族にー。
一人ひとりの個性を尊重し伸ばしてくれる園生活は、彼女に似て繊細な部分を持ち合わせているという息子さんに特に合っていたといい、このまま徳島での穏やかな生活が続いていくのかと思われたが、再び決断の時はやってきた。
「息子が進学した小学校は、とにかく学力を伸ばすことを目的としているようなところでした。点数だけでジャッジされてしまう方針が、うちの子には合わないなと感じたんです」
子どもたちに合った環境を用意することは、親としての責務に違いないが、腰を据えていた場所から離れ、またゼロスタートを切る決断をすることは容易ではない。
置かれた場所で咲くもひとつ、咲く場所を探し求めるもひとつー。
彼女がくだした決断は後者だった。
日常の世界から零れ落ちているような感覚がインスピレーションの源泉
「“新しく輝く世界を作れるかもしれない”という想いが溢れてきたんです。自分自身のダンス人生の転換期になったといってもおかしくないくらい」
母になって以降、子を通じてたくさんの人々との出会いがあり、これまで知らなかった新たな世界に触れる機会を得たという堅田さん。
彼女の圧倒的な表現力のインスピレーションの源泉となっているものはなんなのだろうか。
「日常の世界からこぼれ落ちているような感覚を拾い集めて、その欠片たちが社会的な世相と絡まっていると感じた時に、作品という“カタチ”にして世に送り出しています。
感覚を研ぎ澄ませていないと零れ落ちていることにも気づかない、日常の“内面的な潜在劇”を自分で組み合わせている、という表現が近いのかな。
自分でもいまだにぴったりな言葉が見つからない感情を作品を通して伝えているので、『カタタチサトのソロ作品は、すごく暗くてホラー映画みたい』なんて言われることもあるぐらい(笑)」
言語化できない想い、あるいは言語化する必要のない想いを身体全体で表現する彼女のパフォーマンスに、人々は息を呑み、心を鷲掴みにされるのだろう。
家族が笑顔でいられる場所を求め、飽くなき探求は続くー。
「私にはこれは絶対外せないという、移住先のウィッシュリストみたいなのがあるんです(笑)。まず第一に海があること。そして、山があって、神社があって、お祭りもあって、風がしっかり吹き抜けていたら最高だな。結構当てはまってるよね?と決めたのが、香川県さぬき市の津田という場所だったんです」
2020年に堅田さんご一家が移住したさぬき市では、県外からの移住・定住促進の一環として、当市で新たに住宅を取得(新築・購入)した人に対して奨励金を交付している。
堅田さんも当支援制度を利用し、中古住宅を購入したのだとか。
https://www.city.sanuki.kagawa.jp/life/living/teijyusyorei(対象となる要件や申請時期など、支援制度情報は定期的に更新されます。詳しい要件は「さぬき市の公式ページ」をご確認ください)
海が見える場所を希望した彼女の自宅は、5分も歩けば遠浅の海が広がっている場所だという。
「サンダルでふらっと行って、ジャバーンと海に入って、帰ってきてシャワーを浴びて。自分の中で思い描いていたザ・普通の田舎感とこの環境が、とにかく最高なんです!」と、堅田さん。
ご家族での移住となると、子どもの環境を変えてしまうことに不安を感じ、二の足を踏む方も多いのではないだろうか。子どもたちはどのように環境の変化を受け入れたのだろうか。
「さぬき市に移住するとき、『生まれてからもう何回目の引っ越しなんだ!』と、最初は怒ってましたよ。特に上のお兄ちゃんが(笑)。
子どもたちを見て、やっぱり人は唐突に環境が変わると動揺して怒るんだなって改めて思いましたね。まぁ、私のせいなんですけど(苦笑)。
でもね、“自分たちの故郷は一体どこなんだろう”という定まらないことへの不安感は最初だけで、今では、色々な場所を経験していることが結構アイデンティティになってるみたい」
戸惑いから始まりつつも、新しい環境を自分のものにしてしまう子どもの適応能力の高さを改めて感じさせる。お子さんを連れて移住を考えている方の背中を、そっと押してくれるエピソードではないだろうか。
起こってもいないことで不安になるよりも、住みながら考えていけばいいー
「私自身がそうであったように、『何かのためにそこにいなければならない』と思ってしまうと、身動きが取れなくなる気がするんです。
だから、自分がいいなと思った場所に住んでみるのは、すごくいいことだと私は思います。
単身で移住するときは自分のものさしで決められるけど、家族で移住するときは、例え自分が良くても、家族にとって最適でないというケースもありますよね。
それも実際に住んでみないとわからないことだと思うので、“最初に決めたこの場所にずっといなければいけない”などとは考えずに、『住みながら考えていけばいい』と思います。
“やっぱり違ったな”なんてことも当然あるでしょうから、その時はしっかり立ち止まってみる。
自分たちが案じていることを大切に議論を深めていくと、おのずと住みたい場所が見えてくると思うので、必要であれば思いきって住む場所を変えてみればいい。全然ありでしょ。
“なぜこの場所を選んだのか”を、地元の人に照れずにしっかりと伝えることが大切です。ずっと住んできた人にとってみたら、慣れ親しんでしまって普通のことだとしても、外から来る人(移住者)にとっては、とんでもなく魅力的なポイントなんだということを言葉にして伝える。
自分の故郷を褒められるのは、誰でも嬉しいですから」
地域に存在する“暗黙のルール”は、移住者側から心を開いて知りに行く努力も大切ー。
田舎暮らしを楽園にするかどうかは、移住者側の歩み寄りによるところも大きいと言えよう。
「元々その地に住んでいる人たちが持っている暗黙のルールが存在する」と彼女も話すように、その地にのみ息づく温度感が存在することもまた確かなようだ。
彼女が生まれ育ってきた商店街の世界観と、地方の町内会や自治会の世界観は、“それぞれのルールを知り尊重し合う”という意味では、共通するところが多いのかもしれない。
そんな彼女でも、ゼロから人間関係を構築する過程において、戸惑いを感じた時期もあったというが、どのように地域の方と絆を築いていったのだろうか。
「どれだけその地に魅力を感じて移住しても、やはりずっとそこに住んでいた人にしか入れない世界というのは存在します。
私が経験した例でいえば、“祭り”。
香川には民族芸能に『獅子舞』があるんですが、子どもが小さいうちに経験させたくて、なんとか入れてもらえるよう相談したけれど、叶わなかった。
その後、讃岐獅子舞保存会の方と一緒に作品を作る機会に恵まれたので、その作品を通じて、子どもたちに獅子舞の魅力を伝えました。
その地でずっと生きてきた人たちの世界観が存在することはとても自然なことだし、変えるべきことではない。どうにもできないこと全部に対応していたら、自分がすり減ってしまいます。
“地域に馴染むように努力しなきゃ”とか、“ちゃんとルールに従わなきゃ”などと、自分で自分を縛らずに、自分ができる関わり方で『地域を知る』ことが大切なのではないかな。
地域のルールなんて“教えてくれないからわからない”と、困ったままのスタンスでいるのではなく、『教えてください!』と、自分から知りに行ったら、お互い気持ちいいと思うんです。
こちらから心を開けば、みな親切に教えてくれると思いますから」と、移住を経験したからこそ伝えられる、力強いエールを送ってくれた。
子どものためだけでも仕事のためだけでもなく、自分にとっても豊かに年をとっていける場所ー。
「ずっと同じところに住んでいたら、家族で話すことなんてなかったでしょうから。すごくいい機会だったなと思いますね」
と話すように、移住をきっかけに、「住む」ことひいては「生活そのもの」に対して、家族それぞれが意見を共有するようになったという。
また、東京にいたときにはできなかった仕事の作り方ができるようにもなったのだという。
「東京の時は、前提がないお仕事を提案すると一蹴されちゃうことがよくありましたが、地方で提案してみると、最初は『無理だよ』なんて言う人がいても、『なんか面白いこと言ってるからやってみたらいいんじゃない』なんて、誰かしらが反応してくれることがあって。
後から来た私たちがワクワクしてるということは、中(地域)の人たちもワクワクするんじゃないかと思うし、よそ者だからできることもあるんですよね。
東京にいたときよりも可能性がずっと広がってきてるなって感じています」
彼女のみならず、家族を魅了してやまない津田の魅力を尋ねると、
「『景色』と『人』。 うーん、しっくりこないな(笑)」
とまたしても愛らしさを見せたあと、すぐに真剣な面持ちに変わり、こう続けた。
「地元の人に津田の良さを聞いた時にね、『みんなが知ってる日常と違う日常があるような気がする』と、口々に言ったんですよ。無理していっぱいイベントしなくても、この津田の感じを楽しもうっていう人がたくさんいるのも、ここの魅力じゃないかな。
言葉にするのは難しいけど、津田の魅力は、やっぱり『景色』と『町の営み』みたいなところかな」
「移住は、自分が人間らしく生きていく選択をさせてくれた」
という彼女に、移住を検討されてる方に向けてメッセージをお願いしたところ、
「ひと言で言うならば、『思い立ったが吉日』ですね」と、弾けるような笑顔と共にエールを送ってくれた。
「色々考え出すと、多分どんどん動けなくなると思うんです。
実際に私も、タイミングばっちりだと思って引っ越したけど、引っ越してすぐコロナのパンデミックが起きたわけだし、先のことを考えても仕方ないと思う。
行かないとわからないことってたくさんあると思うので、実際に起こった時にどうするか考えて、軌道修正すればいいのでは」
彼女にとっての生きるうえでの“豊かさ”を尋ねると、
「どれから言おうかな。何個かあるんですよ」
と、いたずらを考える子どものような笑みを浮かべながら前置きした後、こう続けた。
「私にとっての豊かさは、『自分の才能を生かすこと』、『創造性を発揮していけること』そして、『自由であること!』かな。
豊かさって、正解があるものでもないし、自分の中にしか答えがないものですよね。だからこそ、豊かさを感じるためには、まずは『自分自身を大切にしてあげること、そして自分を認めてあげること』が必要になってくると思いますね」
人生における「豊かさ」という壮大な質問にも関わらず、淀みなく答えてくれた堅田さん。
こうも迷いなく自分の言葉で語れるのは、彼女が自分自身と向き合い、理解する努力をし続けてきたからではないだろうか。
自分自身を大切にするためには、自己肯定感が不可欠であり、その自己肯定感を育むことは、人生のテーマに据え置いてもいいほどに、難しいことだろう。
彼女のように、解のない問題を解き続けるその過程そのものを楽しむことができれば、認められたい矛先が“他者”から“自分自身”に向き、人生に“自分色”を加えてくれるのかもしれない。