移住者プロフィール
村田幸男・久美子さん
出身地:東京都、前住所:東京都、現住所:群馬県みなかみ町、職業:民宿経営
目次
INDEX
ユネスコエコパークにも登録されるみなかみ町
群馬県の最北に位置するみなかみ町。谷川岳と三国山のふもと、利根川の源流域に広がるこの地域は、総面積の90%以上を森林が占める自然豊かな温泉町だ。多様で希少な植物、動物が生息し、固有の生態系が見られることから、一帯はユネスコエコパークにも登録されている。
町は水上、藤原、月夜野、新治の4つの地区に分けられ、このうち、旧街道の歴史的な風情と、のどかな農村風景が広がる南西部の新治地区。ここに、村田幸男さん・久美子さんが営む「農園民宿かかし」はある。35年間、夫婦二人で切り盛りしてきた。
民宿の裏手には年間およそ40種類もの野菜を育てる畑があり、その奥には幾重にも連なる山並みを望むことができる。
都会の喧騒から離れ、のんびりとした時間が流れる「かかし」だが、この場所ができるまでの道のりは決して簡単ではなかった。
プログラマーとして働き、抱いた違和感
先にみなかみ町への移住を決めたのは幸男さんだった。
出身は東京都昭島市。1955年、進駐軍で働いていた父と美容院を営む母のもとに生まれた。まだパソコンもない時代に、工業高校の電気科に進学し、プログラミングを学んだ。
高校卒業後、ソフトウェアの専門学校でさらに2年間勉強すると、プログラマーとして都内の会社に就職。すぐに川崎市にある大手電気メーカーの工場への出向が決まり、南武線に乗って通勤した。
幸男さん:「今のように一人一台パソコンがあるわけではなく、工場では巨大なコンピューターをみんなが時間制で使っていました。媒体は紙カードです。プログラミング言語を使ってコーディングシートを書き込み、紙カードに穴をあける。それを読み込ませてデータとして入力するというやり方をしていました」
コンピューターを扱う仕事は、時代の先端を行く当時の花形産業。しかし実際に働き始めると、次第に違和感を覚えるようになったという。
幸男さん:「これは人間のやることではないのではないか。そう思うようになりました。コンピューターは24時間稼働しているから、夜中の作業や休日出勤は当たり前。半数以上がたばこを吸いながら、もうもうとした煙の中で作業をしていました。食事は、カップ麺とコーラ。そんな環境で3年間過ごしました」
時は高度経済成長期。世の中を見れば、社会の歪みが公害問題などさまざまな形で噴出し始めていた時期だった。
心を掴まれたのは、車窓に広がる梨畑の風景
このままでいいのか。自問自答を繰り返していた時、南武線の車窓から見える景色に目が止まった。
幸男さん:「沿線には梨畑がたくさんあって、そこで農作業をしている人の姿を眺めることができました。『あの人は何をしているのかな』と思いながら見ているうちに、いつしかそれが『あんなことが出来たらいいな』という憧れに変わっていったんです」
幸男さんにはもう一つ、幼い頃の忘れられない記憶がある。近所の食肉加工場をのぞいた時に目にした光景だ。そこには、半身になった豚の体が吊るされていた。何より幼い心に強烈な印象を残したのは、その体に押された「検査済み」を示す青いハンコだったという。それ以来、肉やチーズを美味しいとは感じられなくなった。
そうした幼い日の経験も、あるいは心の奥底で関係していたのかもしれない。大人になり、梨畑の風景に心を動かされた幸男さんは、農業に関する本を読み漁るようになった。
さまざまな本を手に取る中で、自然農法家で哲学者としても知られる福岡正信さんの存在を知り、彼が農園を開いている愛媛県まで会いに行ったこともあった。その日の晩、ろうそくの灯りの中で、福岡さんから掛けられた言葉は今でもよく覚えている。
「あんた、幸せになりたいだろう」
茨城の共同農場で畑仕事を学ぶ
幸せとは何か。答えはわからなかったが、幸男さんはそれを農業に求めた。3年で会社を退職し、茨城県旧八郷町にある共同農場で生活を始めた。
1970年代後半は、食の安全性という観点から産地直送の取り組みが始まり、学生運動に身を投じた人たちが共同で農場を借り、有機農業を行う動きも盛んだった。幸男さんはそうした農場の一つで種の蒔き方や米の作り方など、農業に関する基本的な手ほどきを受けた。
幸男さん:「その共同農場は、野菜を作って売る人だけでなく、買って食べる人も参加したグループで、そこには経済的な循環がありました。有機農業というのは、農薬を使わないということもそうですが、作る人と食べる人の有機的なつながりこそが大事なのだと学びました」
当番制で料理を作る中で、人に食べてもらう喜びも知った。大人と子ども総勢20人ほどの食事の献立を、畑にある野菜を使って考える。幸男さんの料理は評判がよく、褒めてもらうと自信になった。
調理の道でもやっていけるかもしれない。そう考えるようになった幸男さんは、その後、東京に戻り、高齢者施設の厨房で働きながら調理師免許を取得。「自分で育てた野菜を自分のレシピで振る舞いたい」という思いは募っていった。
そして、みなかみ町へ。たどり着いた農園民宿の構想
そんな折、共同農場時代の知り合いの縁で訪れたのが群馬県みなかみ町(旧新治村)だった。
幸男さん:「彼がみなかみ町の農家で働いていたんです。何度か足を運んでいるうちに、良い場所だなと思うようになり、とりあえず住んでみようと、空き家を一軒探してもらいました。三国街道沿いにあたるこの辺りは、江戸時代には大名が行き来していたような場所だし、温泉場でお客さんもよく来ていた。よそ者を受け入れる土壌はあったように思います」
とはいえ、身一つでの移住。借り受けた民家は隙間風が入り込み、冬場は外にいるのと変わらないほどの寒さ。布団を敷く場所だけ雑巾をかけ、一台のストーブの傍らで暖をとりながら眠った。流しに置いたタワシは朝になるとカチカチに凍りついていた。こんなところで始まるのかと涙が出たという。
それから2年ほどは、昼間は畑仕事、夕方から夜中まではホテルで働いた。ほかにやり方はないかと考えている時に、近くに鉱泉が湧く場所があるという話を耳にした。
幸男さん:「(みなかみの)川の水は手をつけていたら一分もたたないうちに凍えてしまいますが、その鉱泉水は冬場でも水温が15~16℃あって、井戸水みたいに温かかった。この鉱泉水を沸かしてお風呂にして、自分で作った野菜料理を食べてもらうような農園民宿ができないだろうか。そんなイメージが浮かびました」
これが「農園民宿かかし」の始まりだ。新たに土地を借り、一面に広がる桑畑を切り拓き、赤い屋根の一軒家を建てた。そして、当時交際していた久美子さんに「一緒に民宿をやりませんか」と声をかけたのだった。
「これも何かの縁」。保育士を辞めて東京から移住
久美子さんが幸男さんと出会ったのは24歳の時。趣味で参加していた合唱団の交流会でのことだった。
久美子さん:「夏にみんなで海に行きましょうという集まりがあって、私は女友達と参加したんだけど、幸男さんは一人で来ていました。浜辺でぽつんと人間の形をした砂の像みたいなのを作っていて(笑)。それを私が褒めたら、お礼にかき氷をご馳走してくれました。帰りの電車も一緒になって、そうしたら、いきなり座席でパンを切って、レタスやハムまではさんでパクパク食べだしたの。変なヤツと思ったけど、結局その人と一緒になっちゃった」
お喋り好きの久美子さんだが、「本当はすごく人見知りなの」と笑う。1959年、東京都国立市生まれ。事務員として大手電機メーカー(幸男さんとは別の会社)で働くかたわら、夜学に通い保母の資格をとった。
久美子さん:「会社では給料計算や雑用、周りのお世話係のような仕事をしていました。あまりやりがいを感じられなくなって、自分の腕を磨けるような資格をとりたいなといろいろ調べていたの。姉が保母をしていたし、同世代の友達も保母学院に通っていたから、私も夜学で勉強することにした。私は末っ子で甘やかされて育ったから子どもって大変なんだろうなと思っていたけど、勉強するのは楽しかったし、だんだんと興味が湧いてきました」
その後、府中市の保育園で働きはじめた久美子さん。いきなり任された年長クラスは、ピアノや体操、リズム、卒業課題まで、やらなければいけないことが多く、四苦八苦だった。その保育園は障害児保育にも力を入れており、さまざまな知識も求められた。しかし、保母として多様な子どもたちと向き合っている時間は楽しくとても充実していた。
幸男さんから「一緒に民宿をやりませんか」と声をかけられたのはそんな時だった。
久美子さん:「言われた時はすごく迷いました。群馬はそれまで一度も行ったことがなかったし、東京からは遠く感じた。友達とさよならをして、知り合いが誰もいない土地に行くのはすごく不安でした。親にも『そんなところ行ってどうするの』と反対されましたね。でも、やるのは私。これも縁だし、冒険だなと思って行くことに決めました」
心の支えは季節の草花と動物たち
こうして、幸男さんに遅れること2年、みなかみ町に移住した久美子さん。当初は苦労の連続だった。みなかみは、今でこそ若い移住者も増えているが、当時は高齢者がほとんどで、同年代は少なかった。生活は味気なく、土地勘がないため一人で買い物に行くこともできない。新しい環境に放り込まれ、とにかく生活に慣れることで精一杯だった。
そんな中で久美子さんの心を慰めてくれたのは、みなかみ町の豊かな自然だった。おいしい水や澄み切った空気、そして何より季節ごとに色とりどりに咲く花々の存在が支えとなった。民宿の玄関先や畑の周りは、久美子さんがコツコツと植え続けた花々やハーブであふれている。
久美子さん:「東京にいた頃からお花は好きだったけど、お庭がないし借家だから自分の好きなようにできなかった。こっちに来てからは、四季を通して花が絶えることのないように自分で植えて、手入れをする楽しみができました。動物も大好き。昔は犬もいたし、うさぎもいました。今は猫のジジくんが一緒です」
農園民宿かかしを開業。口コミで評判広がる
こうして1988年、念願の「農園民宿かかし」を開業。強い風雨に晒されながらも畑を守っていく決意を「かかし」という名前に込めた。
肌に優しいアルカリ性の鉱泉と畑で育てた無農薬野菜を取り入れた食事。物珍しさもあり、1~2年目はとても繁盛したという。
久美子さん:「新聞や雑誌で紹介されたりもしましたが、半数以上が口コミやリピーターのお客さまでした。特にアトピーの子どもがいる家族連れが多くて、実際、鉱泉のお風呂でアトピーの症状が改善されたという声も聞きました」
開業当初は、宿泊以外にもランチや宴会などの利用も受けており、遠方からの客だけでなく、地元の人や団体での利用も多かった。当初は幸男さんの母を加えた三人体制で切り盛りしていたが、それではまわしきれず、夏場はさらにアルバイトを雇うほどだったという。「増築して別館を作らなきゃいけないね」と話したこともあったが、好調は長くは続かなかった。
幸男さん:「最初は物珍しさから来てくれていたお客さんも、2~3回来ると離れていきました。当時は、野菜だけでなく、刺身や海老の天ぷら、茶わん蒸しなど旅館のようなメニューも出していて、中途半端になっていたのがよくなかったのだと思います。
自分は何のために民宿を開いたのか。畑で育てた季節の野菜を食べてもらいたい。その思いが原点のはずだった。そう気づいてからは、野菜中心の食事にメニューを固定化しました。首都圏から来る人たちは、やはりそうした食事を求めていたし、喜んでくれましたね」
農業体験プログラムで海外の学生と交流
しかし、その後も苦労は絶えなかった。最大の危機は2011年の東日本大震災。震災当日以降、ぱったりと予約が入らなくなった。世の中が停止し、スケジュールは真っ白。先が見えず、「もうこれで終わりだね」と覚悟を決めたという。
そんな時、一つの転機が訪れる。みなかみ町でさまざまな地域体験プログラムを企画している事業者からある提案が舞い込んだのだ。それは、東京や埼玉など首都圏に住む学生を対象とした農業体験プログラムで、農作業を体験し、自ら収穫した野菜を味わってもらうというもの。地域の暮らしや課題を知ってもらう狙いもある。願ってもみない話だった。
首都圏の中高校生の受け入れから始まり、次第に海外からも学生が来るようになった。海外から最初に受け入れたのは台湾の高校生。当然言葉はわからず、「ニーハオ」という挨拶しかできなかった。
幸男さん:「紙に漢字で書いて、何とか意思疎通をしていました。特に車での送迎時は書くことも身振り手振りもできないので、もどかしい思いをしましたね。そのうちにポケトークを使って翻訳するようになりましたが、そんなことをするよりも直接喋れたほうが楽しいと思って、(二人で)中国語の勉強を始めました」
ラジオやテレビの語学番組を見ながら、今も独学で勉強しているのだという。「勉強を始めて10年経つけど、いまだに喋れない」と話す幸男さんだが、基本的な日常フレーズはすらすらと話してみせてくれた。
台湾のほかにも、カンボジアやシンガポール、インドなど、東南アジアを中心にさまざまな国の学生との交流を続けている。
自分の食べるものは自分で作る。生き延びることが何より大事
筆者も先日、農業体験プログラムの一つを利用し、村田さんご夫婦に5日間ほどお世話になった。
緑と紫色の葉が美しい金時草、木の根もとに落ちた無数の毬栗、青々と生い茂るハーブ、ピンク色の花を咲かせた食用菊。10月の畑に実る色とりどりの農作物を収穫させてもらった。
拾った栗は栗ご飯に、金時草はおひたしになった。蒟蒻芋の収穫とこんにゃくづくりも体験させてもらった。かかしのこんにゃくは凝固剤を使わず、ホタテの貝殻をくだいた粉で固めるのだそうだ。市販のものより味がよく染みて、美味しくなるという。どの食材も料理もこだわりをもって作られていることが伝わってきた。
幸男さん:「人間は地球の裏側から食べたいものを持ってくる。飛行機や船を使って、本来、自分の手の届かないところから持ってくる。それはおかしい。自分の食べるものは自分で作る。これが基本です。だからといって無理はしません。動物由来の肥料をやらず草もとらない徹底した自然農法もありますが、うちはあくまで農薬や化学肥料を使わない有機農法。潔癖になり過ぎると続かない。生き延びることが何より重要です」
そう話す幸男さんの好きな農作業は草むしり。野菜が育つ手助けをするのが楽しいのだという。
幸男さん:「草むしりや剪定をすると、風通しや日当たりがよくなって野菜が生き生きと育ちます。うまく育たなかったら、原因を探って今度はこうしてみようかなといろいろ考える。つるの植物がへなへなと倒れていると堪らなく支えたくなります。そうやって不調の野菜を立ち直らせることに喜びを感じますね」
久美子さん:「私は種を蒔いて芽が出たときがやっぱり嬉しい。生命力を感じるから。農作業に疲れた時は、裏庭のハンモックに寝転んでボーっとします。体全部が自然に包み込まれるような感じがして、一日の疲れがすっと抜けていくの。お金はないけど、自然の豊かさが心の豊かさです」
後継者を募集中。「農園民宿かかし」を次の世代へ
さまざま形を変えながら、ここまで生き延びてきた「かかし」だが、今、気がかりなのが後継者問題。現在、跡を継いでくれる方を募集中だ。
「二人の娘は独立して離れて暮らしている。元気なうちは夫婦ふたりで続けられますが、歳をとればどうなるかわかりません」と久美子さん。
桑畑を切り拓き、鉱泉のお風呂を引き込み、土を耕し、野菜が育つ豊かな土壌を作り上げてきた。人生の多くの時間を注いできたこの場所を、これからも残していきたいという思いがある。
幸男さん:「群馬は災害が少ないし、とても暮らしやすい場所です。もし地方移住を考えている方は、ぜひ一度、遊びにいらしてください」
東京から新幹線で約1時間。都会の生活に疲れたら、ぜひ「かかし」に足を運んでみてほしい。何をするでもなく、目の前に広がる畑と山並みを眺め、鳥の声や虫の声、耕運機の心地よい振動音に身を預けてみてほしい。心のこわばりがすっとほどけていくはずだ。
自分が自分のままで安心していられる場所がここにはある。
- 農園民宿かかし
- 住所:群馬県利根郡みなかみ町西峰須川129
- 電話番号:0278-64-1204
- ご予約・お問い合わせは、電話または「じゃらんnet」から