<h2>理系少年として歩んだ学生時代</h2>荻野さんは1984年、兵庫県伊丹市で三人兄弟の末っ子として生まれた。明るくおしゃべり好きな優等生タイプで、中学から始めた野球の練習にも熱心に取り組む一方、少し内弁慶な面もあり、知らない人や新しい場所は少し苦手だったという。好きな科目は数学と理科。数独やパズルを解くことが好きで、「問題に対して自分なりに考えて答えを導き出すことが昔から好きでした」と語るように、理系的な思考を楽しむ少年だった。そのまま理系の道を進み、高校卒業と同時に上京。大学では理学・工学系を専攻した。当初は「宇宙物理学でノーベル賞をとりたい！」と研究者を志していたが、次第にビジネスの世界にも関心を抱くようになる。大学3年で専門を選ぶ際には、ビジネスとテクノロジーをかけ合わせた資源・エネルギー経済の分野を選択した。とはいえ、勉強一辺倒の学生生活ではなかった。荻野さん自身も「自堕落な大学生でした」と笑う。東京の大学を選んだのも、一人暮らしへの憧れから。親元を離れ、自由を得た荻野さんは、アルバイトやサークル活動に明け暮れ、大学生活を思い切り楽しんだという。<h2>苦悩から学びを得たコンサルタント時代</h2>大学卒業後、荻野さんが選んだのは、東京本社のコンサルティング会社だった。「漠然と『成長できる環境に身を置きたい』と思っていました。100～200人規模で経験が積めること、そして優秀な人材が集まり、フィードバックや刺激をもらえること。その条件で会社を選びました」理想の環境に足を踏み入れたものの、順風満帆とはいかなかった。入社当初に配属されたのは営業職。しかし思うように成果を出せず、半年後にはコンサルティングチームに異動し、ゼロから再スタートを切ることに。配属先は関西拠点で、社員は20人ほどの少数精鋭だった。「でも、それがかえって良かったんです。毎日お客様と全力で向き合い、身の丈を超えるような経験を数多く積めました。直属の上司が役員クラスで、社内でも一、二を争うくらい優秀な方だったので、学ぶことも非常に多かった。その分、仕事は激務でしたが」当時の住まいは、梅田のオフィスから徒歩5分ほどの北新地近くのマンション。移動時間を減らすための選択だったが、実際は明け方まで働き詰めで、まるで「会社で暮らしているような毎日」だったという。<h2>中川政七商店との出会い</h2>兵庫、東京、大阪――人生の節目ごとに住む場所を変えてきた荻野さん。30歳で結婚すると、妻の地元である奈良県へと移り住んだ。その後、外資系コンサルティング会社へ転職したことを機に再び東京へ戻り、やがて二人の子どもにも恵まれた。そんな35歳のとき、大きな転機が訪れる。それが、中川政七商店の副社長就任だった。同社との縁は、社会人3年目にさかのぼる。組織コンサルタントとして担当したことをきっかけに中川淳氏（当時社長）と出会い、その後も交流は続いた。そして十数年の時を経て、中川氏から直接声がかかったのだ。その誘いを受け入れる決断の背景には、コンサル業界での経験を通じて芽生えた心境の変化があった。「コンサルの世界では、不確実性を徹底的に排除し、合理的な手段で成果を出すことが求められます。もちろん、企業が持続するには経済的なバランスのとれた経営が欠かせず、“経営のサイエンス”が欠かせません。ただ、合理性を突き詰めていくと、行き着く先はどの会社も同じようなかたちになってしまう。そこにジレンマを感じていました。実際の世界は、もっと複雑で多様です。合理性では説明できない“無駄”や、一見すると役に立たないものの中にこそ、個性や豊かさが宿る。むしろそうした“余白”こそが、人の心を動かし、人生を彩るのではないか――そう考えるようになったんです。そんなときに中川から声をかけてもらいました。まさに、自分が次に挑むべき道だと感じましたね」効率や成果を重んじる時代において、あえて「無駄」や「余白」に価値を見いだすその視点は、多様性や個性を再評価するための重要な示唆といえるのかもしれない。工芸という、一見効率からは距離のある領域に身を投じた背景には、荻野さん自身の人生観の変化が色濃く反映されている。<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-02ca-788e-b7b3-85079e9b14a6.webp"><figcaption>中川政七商店社屋外観</figcaption></figure><h2>工芸が持つ「余白」。数値化できない豊かさへの気づき</h2>中川政七商店は、享保元年（1716年）から300年以上続く老舗だ。初代・中屋喜兵衛が武士の裃や僧侶の法衣として使われていた高級麻織物「奈良晒（ならざらし）」の商いを始めたのがその起源だった。その後、時代に合わせて事業を拡大し、2007年には「日本の工芸を元気にする！」をビジョンに掲げ、今では麻織物に限らず、日本各地の工芸をベースとした生活雑貨の製造小売事業と、全国の工芸メーカーを支援する産地支援事業に取り組む。2018年には、創業家以外から初めて社長が就任したことでも注目を集めた。「中川の話を聞くうちに、工芸とはまさに“余白”の存在だと気づきました。例えば、お椀一つとっても、汁物を入れるという機能だけを求めるなら、100円ショップやプラスチック製品でも手に入ります。しかし、漆のお椀であれば手にした時の柔らかな感触や、口当たりのやさしさ、使い続けるほどに深まる艶までもが魅力になります。工芸にはかたちの美しさや素材がもつ独特の質感といった、数値化できない豊かさがあります。それは、複雑なものをそのまま楽しむということでもあります。一方で、こうした価値観を事業として成立させるためには、コンサルティングで培った論理的思考も不可欠です。感性とロジックのバランスを丁寧に取りながら、地に足をつけてビジョンの実現に取り組む中川政七商店の姿勢に、自分もぜひ関わりたいと強く感じました」<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45b-ff3b-788e-b7b3-6ca58f330a1d.webp"><figcaption>漆椀の製造</figcaption></figure><h2>工芸の世界に持続可能な循環を生み出す</h2>現在、荻野さんが取り組んでいることの一つが、工芸メーカーの経営者や職人たちと日々対話を重ねながら、全国の産地で長くものづくりが続いていくための仕組みづくりだ。自社の製造小売業で培った経験・ノウハウを生かし、工芸メーカーの経営を改善することをゴールにおいたコンサルティングや、メーカーとデザイナーを対象にした教育講座など、深刻化する後継者不足の課題と向き合い、工芸の世界に持続可能な循環を生み出すことを目指している。<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-0169-788e-b7b3-78f22fe311cd.webp"><figcaption>メーカー向け教育講座「経営とブランディング講座」</figcaption></figure>「工芸の世界では、数十年前までは百貨店に商品を出せば売り上げが伸び、メーカーは産地問屋からFAXで届く注文に応えるだけで成り立つ――そんな時代が確かにありました。しかし、今は産地問屋という仕組みがなくなり、ただ“つくるだけ”では生き残れません。商品開発や販路開拓、価格設定など、経営そのものが求められる時代です。そうした変化に対応できずに苦しむメーカーも多く、次の世代が「跡を継ぎたい」と思える環境をつくることが難しくなっています」こうした変化のなかで、新しいビジネスモデルを模索するメーカーも増えてるが、依然として対応に苦慮するメーカーも少なくない。次の世代が「この仕事を続けたい」「跡を継ぎたい」と思える環境を整えることが、いままさに求められている。そんな中、荻野さんの心に強く残っている出来事がある。岐阜県の窯元を訪ねた際、中学生の娘さんが「お父さんの背中がカッコいいから、将来は跡を継ぎたい」と話してくれたことだ。「お父さんが自分の仕事に誇りを持って働く姿を、ずっとそばで見てきたからこそ言える言葉だと思いました。ほかにも、外から飛び込んできて技術を継承しようと奮闘する人の姿も何度も目にしました。決して簡単な道ではありませんが、人生をかけて挑む姿は本当にカッコいい。業界全体が、自分の仕事により誇りを持てるような環境をつくりたいと、改めて感じました」<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-00da-788e-b7b3-7425cfbd00b7.webp"><figcaption>コンサルティングで生まれたブランド一例</figcaption></figure><h2>“都市”と“自然”が共存する木津川市での暮らし</h2>荻野さんは、中川政七商店への入社を機に、東京から本社のある奈良県へ移住。現在は、京都の南端、奈良県との県境に位置する木津川市で家族とともに暮らしている。移住先としてこの場所を選んだ大きな理由は、子どもたちの教育環境だった。「僕自身、小学校から市外の私立に通っていたため、地元・伊丹とのつながりや思い出を深く持たないまま育ってしまった感覚がありました。だからこそ、子どもたちには、“自分の帰る場所”と呼べる地元をつくってあげたいと思ったんです。公立の学校に通わせることも最初から決めていました。限られたコミュニティだけでなく、多様な価値観やバックグラウンドを持つ人たちと関わりながら成長してほしかったのです」奈良や京都で条件に合う地域を探すなか、出会ったのが木津川市だった。荻野さんいわく、木津川市は「適度な田舎」と表現できる場所。最先端の研究機関が立地し、京都・奈良・大阪のベッドタウンとしての都市的な利便性を備えつつ、豊かな自然が広がる里山的な環境も共存している。さらに、平城京から遷都され、一時は日本の首都となった恭仁京跡など、歴史を身近に感じられる土地でもある。現在は車で奈良の本社まで通勤している荻野さん。働き方が変わったことで、家族と過ごす時間は確実に増えたという。「これまでは明け方の3時、4時まで働くのが当たり前でしたが、今は子どもが寝る前には帰れるし、一緒にご飯も食べられるようになりました。休日は、近くの公園で息子の同級生やその家族とドッジボールやサッカーを楽しみ、夕方には子どもたちと散歩をすることもあります。また、神社やお寺に足を運ぶ機会も増えました。東大寺や春日大社がすぐ近くにあって、ふらっと立ち寄れる。そんな時間こそ、まさに暮らしの“余白”だと感じています」<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-046a-788e-b7b3-94ade01fcd0d.webp"><figcaption>小学校でのとんど焼</figcaption></figure><figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-0553-788e-b7b3-981c75419d89.webp"><figcaption>岩船寺（木津川市の寺）</figcaption></figure><h2>「移住してきた人は面白い」。合理性だけでは説明できない人間らしさ</h2>中川政七商店に入社し、京都に移住して6年。荻野さんが描くこれからの展望には、「地方の中小企業として、世の中のモデルケースとなるような会社をつくりたい」という思いがある。「前職でさまざまな企業に関わる中で、働いている人があまり楽しそうに見えないことが多くありました。そして、それは僕自身にも当てはまることでした。結局のところ、問題は会社という組織のあり方そのものにあるのではないか。だからこそ中川政七商店では、会社と個人が健全な関係性を築ける環境をつくりたいと思っています。個人の働き方や個性の発揮の仕方、会社の存在意義を改めて問い直し、人が人間らしく個性を発揮しながら成果を追求できる場をつくっていきたいと思っています」中川政七商店の本社で働く社員の約7割以上は移住者だという。全国から集まる人たちと日々接するなかで、荻野さんは「移住してきた人は面白い」と感じることが多いという。「都市部ではない場所にあえてやって来る人は、理由がとても個性的なんですよ。例えば、“どうしようもなく鹿が好きだから奈良に来た”という人がいて（笑）。その人は毎朝、奈良公園でベンチに座って鹿を眺めてから出社しているそうです。あまりに長く見続けてきたから、個体識別までできるようになっていて。そういう話を聞くと本当に面白いし、ワクワクします。やっぱり人間らしさというのは、そういう合理性だけでは説明できないところにあるのだと改めて気づかされます。一見すると無駄に思えることでも、生産性が低いように見えることでも、自分がやりたいことなら胸を張ってやってみればいい。そういう時間こそが、人生を豊かなものにしてくれるんだと思います」<figure class="image"><img src="https://storage.googleapis.com/uploads.warp.city/posts/2025/11/21/IurpajjORaaiP5rDRE0hG/019aa45c-0420-788e-b7b3-8c0c5d4366db.webp"><figcaption>近所の公園の桜</figcaption></figure>最後に、荻野さんから地方移住を検討している方に向けてメッセージをいただいた。「移住そのものが目的の場合もあれば、結果として移住する場合もあります。僕の場合は後者でした。大事なのは“地方移住するかどうか”ではなくて、“自分はどう生きたいのか”をフラットに考えることだと思います。その着地点として、働く場所や暮らす場所はあとからついてくるものなのではないでしょうか」どこで、どう生きるか――その問いに、必ずしも合理的な答えは必要ない。むしろ、説明のつかない“余白”を残すことで、人生は自由に広がり、思いもよらない可能性と出会えるのかもしれない。その“余白”を体現する荻野さんは、自らの好奇心と信念に従い、工芸という領域で挑戦を続けている。その姿勢は、工芸の世界に新たな価値をもたらすだけでなく、人が自分らしく働き、人生を豊かに生きるための新しい風をも吹き込んでいくのだろう。

ワープシティ公式

“ワープシティ地方移住体験談”では、地方移住を検討している方に向けて、先輩移住者から移住に至った経緯や体験談、移住先の仕事内容や生活などの生の声をお届けしています。

第101回目に登場いただくのは、工芸をベースとした生活雑貨の製造小売を展開する中川政七商店 副社長の荻野祐（おぎの・たすく）さん。長年従事したコンサルティング業界から工芸の世界へと転身し、その過程で東京から奈良、そして京都へと移住されました。

30歳を迎える頃から、「仕事や暮らしの中にある余白」を大切にするようになったという荻野さん。これまでの歩みを振り返りつつ、工芸の世界に飛び込んだ経緯や、現在の暮らしについてじっくりとお話を伺いました。

木津川市

京都府

出身地：兵庫県伊丹市、前住所：奈良、現住所：京都府木津川市、職業：中川政七商店 副社長

木津川市

木津川市の移住体験談一覧：1件

工芸が教えてくれる“余白”――中川政七商店の理念に導かれて