移住者プロフィール
大西 里枝さん
移住時期
2016年
前住所:福岡県、熊本県、現住所:京都府京都市、職業:扇子屋「大西常商店」4代目
目次
INDEX
扇子屋の一人娘に生まれて
江戸時代から続く商家である大西家は、元々、日本髪を結うために使う「元結(もっとい)」の製造を生業としていた。大正後期、日本髪文化の衰退や洋装の流行とともに元結の需要が減少すると、同じ和紙を素材とする和小物として、初代・大西常次郎が京扇子の製造・販売へと事業を移行したのが「大西常商店」の始まりだった。
現在、その4代目若女将を務める大西里枝さん。大西家の一人娘として生まれた彼女だが、幼少期は家業を特別に意識しながら育ったわけではなく、むしろ、家が扇子屋であることに気恥ずかしさを感じていたという。
「伝統的な仕事ではありますが、古くさいというか……小さい会社だったので、そこにあまり誇りは持っていなかったです。若かったですしね」
大西常商店の店舗は、大西さんの高祖父の時代に建てられた京町家で、その築年数は約150年にも及ぶ。かつては職住共同で使われており、台所には「おくどさん」と呼ばれるかまどが今なお姿をとどめている。
しかし、子ども時代の大西さんにとって、そこはあくまで「祖父母が暮らす家」であり、たまに遊びに行く程度の場所だった。大西さん自身は町家とは別のいわゆる一般家庭で育ち、伝統的な日本文化が日々の暮らしの中に色濃く漂っていたわけではなかったという。
「今から考えると、祖父母はお盆の時期にご先祖さんのお世話をしたり、京都らしい暮らしをしていたような気がしますが、両親のそういう姿はあまり見ていないですし、私も家業のためにお花やお茶を習ったりとか、そういう日本の伝統文化に深く触れるようなことをしてきたわけではないんです」
学生時代、町家を守る「大切さ」と「難しさ」を実感
3代目である両親から「家業を継いでほしい」と言われたことは一度もなかった。継ぐ人がいなければ廃業も致し方ないとの思いだったようだ。
その一方で、祖父母が他界したあと、"ご先祖さんから預かっている京町家"を後世に残すべく力を尽くす母親の姿は、大西さんの心に強い印象を残した。
「私が高校生の頃は、ちょうど京都の地価がすごく上がった時期で、実家に『マンション建てませんか』『土地売りませんか』といった業者がたくさん訪ねてくるようになりました。両親はそのすべてを断って、町家を改修しながら維持していたんですが……それにはすごくお金がかかるし、努力が必要なことなんだということをそのとき実感したんです」
伝統的な文化や建築物を守っていくには、一市民の力だけでは限界がある。そう感じた大西さんは、行政の立場から行える施策を知りたいと立命館大学政策科学部に進学。歴史ある資源を守り、生かしていくアプローチについて学んだ。
大手通信会社に就職。営業企画として九州に赴任
大学卒業後は、NTT西日本に就職。一般企業への就職を選んだのは、「体系化された大企業での仕事を経験したい」という思いからだったという。
「地域に密着した仕事がしたいという気持ちもありました。静岡から沖縄まですべての府県に営業所を持っているNTT西日本は、地域の中小企業と密接に関わっていく仕事です。私は営業企画として、販売代理店に顧客へのアプローチ方法を提案したり、キャンペーンを考えたりする仕事をしていました」
総合職のため、全国転勤の可能性があった大西さんは、福岡や熊本など各地を転々としながら、6年間勤務を続けた。
そんな九州での一人暮らしは、地縁のない土地だけに苦労することも多かったようだ。特に熊本では20代の女性社員は大西さん一人で、心細い思いをしたという。その反面、実家が京都であることや扇子屋をしていることを話すと、興味を持ってくれる人もたくさんいた。
「京都にいるときは恥ずかしくてあまり家業のことは話していなかったんですけど、『いい仕事だね』と言ってくださる方が多くて、すごく嬉しかった記憶がありますね。
京都は本当に世間が狭いので息苦しさを感じていた部分もあったんですが、別の地域の方が見る京都の姿を知ることで、その良さに気づくことができた気がします」
その後、会社の同僚と結婚した大西さんは、里帰り出産のため京都にUターン。そのときに実家で過ごした時間が、家業に対する意識を大きく変化させることになる。
移住、そして4代目若女将に
京都で第一子を出産後、育児休業中も実家で過ごしていた大西さんは、将来について考えていくうちに、「このまま夫婦揃って今の仕事を続けていくのは難しいのではないか」と感じるようになっていく。
「お互い総合職で、当時は、夫婦が別々の場所に全国転勤になる可能性がありました。そういう状況で、安定した生活基盤を築いていくことがイメージできなかったんです。仕事を続けてどれだけキャリアが上がったとしても、家庭環境が落ち着かないという状況は避けたいと思いました」
まずは、子育て環境を整え、安心して生きていける生活基盤を築くことを優先したい。そんなふうに考えながら、実家の京町家で生活していた大西さんは、両親が扇子の商売をする様子を目にするうちに、ふと不思議な感慨を抱くようになったという。
「私は扇子を商ったお金で両親にご飯を食べさせてもらって、大学まで行かせてもらっているんですよね。そのことに思い当たったとき、恩返しも含めて、自分の子どもにも同じようにしてやりたいなというか……この扇子の家業で子どもを育てて、先祖が築いてきたものを守って次につなげる、その役目を引き受けることがしっくりと来たんです」
2016年、大西さんは4代目若女将として家業に入ることを決断する。夫と相談の上、大西さんは京都、夫は単身赴任というかたちで生計を立てていく道を選んだ。
「着物姿のわたし」の顔を覚えてもらいたいー
大企業の営業企画から伝統産業の若女将への転身。大西さんはその決意の表れとして、家業に入るにあたり、持っていた洋服をほとんどすべて処分し、毎日、着物を着るようにしたという。
「基本的にコンビニや病院に行くとき以外は、着物姿で過ごすようにしています。着物を着ている人は目立つので、まずは『大西常商店』の顔として自分を売っていきたい、覚えてもらいたいという思いでしたね。最初は着るのに1時間半くらいかかっていましたが、今は2~3分で着られるようになりました」
右も左もわからないながらも、やる気は十分にあった大西さんのことを、年配の扇子職人さんたちも優しく見守ってくれたようだ。経営のことだけでなく、扇子を作る工程や分業制の仕組みなど、女将として学ぶべきことはたくさんあったが、わからないことは周囲に一つずつ教えてもらいながら勉強していったという。
「どんな老舗の女将さんであっても、最初から女将なわけじゃなくて、少しずつ女将としての振る舞いや考え方を身につけていくものなのだと思います。そういう意味では会社員をしていた私も同じように、先輩の女将さんたちや取引先の方、商工会議所の相談員さん……そういった身の周りの方にすごく親切に助けていただきながら、"女将になっている"という気がします」
「両親を助けたい」という気持ちが出発点
大西さんが家業を継ぐことを決めたのは、両親の商売を見ているなかで、昭和の経営がそのまま引き継がれているような、旧態依然としたやり方に衝撃を受けたことも理由の一つだった。
「注文はファックスだし、在庫も全然管理されていないし、パソコンは古いし。『お前を消す方法』で有名なイルカのキャラクター(カイル君)が画面に表示されるパソコンをいまだに使っていたり、『勘定奉行2000』とかそんなソフトが現役で動いていたりして……。もうちょっと良い感じにできるんじゃないかな、両親を助けたいなという気持ちが出発点でしたね」
そうでなくとも、京扇子の需要は年々減少し、業界自体が存続を危ぶまれる状況にあった。伝統芸能や冠婚葬祭などの利用シーンの減少、中国製の安価な製品の台頭などが打撃となり、大西常商店の経営状態も決して楽観視できるものではなかった。
若女将として、やるべきことは山ほどあった。在庫管理アプリやタスク管理ツールを導入するなど、経営のIT化を推進したほか、クラウドファンディングを活用し、町家の改装費用を集めるプロジェクトにも早々に着手するなど、事業改革に奮闘する日々が始まった。
会社員時代の経験生かし、ルームフレグランス「かざ」を開発
商品の販売戦略といった「企画力」に関しては、会社員時代の経験が役に立った。
商品が通信サービスから扇子に変わっても、たくさんある商品の中からどうやって選んでもらうのか、その訴求力が勝負になる根本の部分は変わらない。「企画が得意というわけではないが、前職で学んだ営業企画のやり方や考え方を生かすことができたと思う」と大西さんは話す。
実際にそれが形となったのが、大西さんが主導して開発を進めた、扇子の骨を使ったルームフレグランス「かざ」だ。
季節商品である扇子は、売り上げが夏に偏ることで、安定した収益につながりにくいことが長年の課題だった。例えば、冷夏など何らかの理由で5月の売り上げが伸びない年は、次の夏まで減益分を取り戻せないこともあるという。
それに対して、何の手立ても講じられずにいることに歯痒さを感じたという大西さん。通年で売り上げを確保する方法はないかと考えるなかで辿り着いたのが、かつて、先代が元結から扇子へと事業を転換したように、扇子と同じ素材を使って別のジャンルへと展開していくやり方だった。
「扇子をつくる工程を見ていくなかで、扇骨の保香性に着目しました。扇子の骨である竹は水や油をよく吸って溜め込むので、香液に一瞬浸す工程によって一年近く香りを持続させる効果があるんですね。それなら、フレグランスは最適じゃないかと思ったんです」
かつて日本家屋で愛用されていた「飾り扇子」もヒントになった。
「床の間を美しく飾る金銀の飾り扇子は、ろうそくの光を室内の明かりにしていた時代、光を乱反射させることで光量を増幅させる効果があったそうです。昔はお正月によく売れていて、冬の売上につながっていたんですが、最近は和室が減ったことで廃れる一方で、それも夏に売り上げが偏る原因でした。
そんな飾り扇子を現代に置き換えたら?という発想から、部屋を美しく飾りつつ、香りという実用性も兼ねたフレグランスというアイデアにつながっていきました」
コロナ禍でも売り上げは好調
とはいえ、商品開発の経験があるわけではない大西さんが、一人きりで新商品を作るのは難しい。
そこで頼ったのが京都の商工会議所だ。「あたらしきもの京都」というプロジェクトに参加し、そこで紹介してもらったデザイナーやネットワークの力を借り、試行錯誤を繰り返すなかで、ようやく商品化まで辿り着いた。
京都の街並みをイメージして調香された香りは、白檀、八重桜、檜の3種類。清水焼の器と、繊細な透かし彫りが施された扇骨のスティックが室内を美しく彩りながら、ほのかな香りを広げていく。発売後の売れ行きは好調で、今では小売部門の大きな柱となっている。
「コロナ禍で外出の機会が減り、お祭りも軒並み中止になって、大きな注文がどんどん減っていくなかで、フレグランスは家の中の需要なので売り上げが安定していたことも思わぬ幸運でした。開発できて本当によかったです」
若い世代をターゲットにした「うつし香」も発売
ほかにも、若い世代に扇子の魅力を伝えたいという思いから、従来の扇子よりさらに香りの効果を高めた「うつし香」も新たに発売した。扇骨だけでなく、和紙にも香りを染み込ませているのが特徴だ。
「京扇子は、蝶や桜、龍、トンボといった日本画的なモチーフが多くて、顧客も50代以降の方が中心でした。若い人はもっとモダンで現代的なものを求めていらっしゃると思うので、うつし香では絵柄ではなく色合いの変化で遊んでいます」
うつし香の色合いが、あるアニメのキャラクターに似ているとSNS上で話題になり、意図せず新たな顧客層の開拓につながったこともあったそうだ。最近では実際に、人気アニメとコラボレーションしたうつし香を販売するなど、伝統産業の枠を超えた取り組みにも積極的に挑戦している。
セレクトショップや若手の職人支援も計画中
小売業以外にも、町家を伝統芸能の稽古場や撮影スペースとして貸し出すレンタル業を行うなど、幅広い事業展開を進めている大西さん。現在、品揃えを新たにしたセレクトショップも計画中で、オープンに向けて店の改装を進めているそうだ。
「扇子というのは、特に生活必需品ではないけれど、持っていると自分を少し上品に見せてくれるものだと思うんです。なので、扇子だけでなく、懐紙やポチ袋など、それを使う人を少し粋に見せてくれるような、美しいデザインの商品を取り揃えたお店を作りたいなと思っています」
また、今後は、若い職人のサポートにも力を入れていきたいと話す。
「昔は、師匠の家に住み込みで、その背中を見ながら商売を覚えていくというスタイルが一般的でしたが、今は、工芸学校を卒業してすぐに独立してしまう職人さんが多いんですね。そうすると、技術は学校で学んでいるにしても、商売の仕方を全く知らずに世間に出されてしまって、続けられずに30歳手前にして諦めてしまうような人も結構おられるんです」
女将業を始めてからそうした若い職人の姿を何度も見てきたという大西さんは、商売のあり方を体系的に学んでもらう必要があるという実感から、企業とも協力しながら、作り手支援プログラムなどの企画・開催にも取り組んでいる。
生活面も変化。柔軟な働き方で子育てとの両立が可能に
京都に戻ってきてからの生活面での変化についてもお聞きした。「働き方が変わったことで、仕事と子育てとの両立はうまくいっている」と大西さんは話す。
「会社員のときは、始業時間の9時から夕方までのコアタイム+夜の残業という感じで働く時間が固定されていましたが、今は、例えば早朝に仕事の時間を組み込んで、昼間に子どもの体育祭を見に行ったりするなど、融通を効かせられるようになりましたね。夫がリモートワークになって家にいるので、家事の分担もしやすいです」
近所の人や地域コミュニティとの関わりに助けられる場面も増えた。
「今、子どもを小学校に通わせているんですけど、ご近所の方が毎朝家の前に立って通学を見守ってくれるんです。子どもを通学路で見かけなかったときは『ほんまに行ったか?』って連絡くださったりして。昔から知っている人がたくさんいて、子どもを一緒に育ててくださる環境はすごくありがたいです」
京都ならではの季節の楽しみ方も
都市と自然が一体になっている京都では、陽が昇り、夜が更ける自然のサイクルや季節の移ろいを身近に感じながら、人間らしい暮らしができるのも魅力の一つだ。
大西さんは春になると、お店の近くにあるお寺でピクニックをするのが恒例になっているという。
「佛光寺という本山のお寺が近所にあるので、その境内で桜を見ながら家族でお弁当を食べるのが好きですね。
あるいは、大晦日には振る舞いうどんを食べながら、除夜の鐘を聞くこともできるし、近くのお寺で気軽に季節の行事が楽しめるのは京都ならではかもしれないですね。佛光寺では毎朝7時半からはお坊さんが法話をされているので、それを聞きに行くこともあります」
「事業承継」迷っているなら、先代が元気なうちにチャレンジを
こうした京都ならではの文化や風物が人々の暮らしを豊かにする一方で、京都の町は今、大きな岐路に立たされているとも言えるのかもしれない。
大西さんが高校生の頃と同じように、高層マンションやホテルが続々と建設され、市民の住める場所が減り、町は大きく変わろうとしている。そんな時代の必然か、長く商売をしてきた人が高齢になり、事業承継者がいないというなかで、土地を売って借金を返済し「ハッピーリタイアメント」を迎える様子を大西さんはよく目にするという。
だからこそ、「もし事業承継に迷っている人がいれば、親が元気なうちにチャレンジしてみてほしい」と大西さんは話す。
「親の体調が悪くなってから帰ってくるという話もよく聞きますが、そうなってからでは大変なので、もし気持ちがあるなら早めに一度チャレンジしてみるのはすごく良いことだと思います。親御さんがどんな商売をなさっていても、そこに帰ってきて得られるものは必ずあるはずです」
大西常商店も、もし大西さんが戻ってこなければ、江戸時代から続いた家業がここで途絶えてしまったかもしれないのだ。そう考えると、扇子の魅力を現代的な視点から再発見し、未来へとつなぐ努力を続ける大西さんの姿が、ますます眩しく見えてくる。
子供心に家業を「古くさくて恥ずかしい」と感じていた大西さん。そこからいったん離れ、別の場所で過ごした年月があったからこそ、再び家業と出会い直したときに、その魅力や自分なりの使命を発見することができたのかもしれない。
多くの人にとって、Uターン移住が、そんな前向きな変化を生む一つの契機になると良いと感じた。