移住者プロフィール
三原萌佳さん
出身地:大阪府寝屋川市、前住所:大阪府、現住所:北海道別海町、職業:地域おこし協力隊
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カフェバイトから経営に興味を持ち、税理士事務所へ
1995年、大阪府寝屋川市で生まれた三原萌佳さん。一家揃ってホームパーティー好きという賑やかな家庭で育ち、三つ上の兄とは些細なことで激しい喧嘩を繰り広げるほど、活発な女の子だった。
自分の好きなことに筋を通してまっすぐ突き進む性格は、その頃から変わっていない。
「私が小学生の頃は、例えばランドセルの色も今のように自由ではなくて、女の子は赤かピンク、男の子は黒かネイビーを選ぶのが“普通“。そんな時代でした。でも、私はピンクよりもネイビーのほうが可愛くて好みだった。それを親に伝えて、ネイビーのランドセルを買ってもらったんです。
当時から、『こうしなければいけない』といったルールに、縛られるのが嫌だったんですね。親がそれを否定せず、理解を示してくれたのは大きかったかもしれません」
そんな彼女のキャリアの原点となったのは、大学時代に始めたコーヒーチェーン店でのアルバイト。
「カフェを選んだのは、食べることが好きだったから。経験を積むうちにバイトの子に教える立場になり、『時間帯責任者』という店長代理のような役割も務めるようになりました。
売上管理など、経営にかかわる業務をする中で、数字をチェックする楽しさに気づき、経営に興味が湧きました。もしこの先、自分が個人事業主になったときに、お金の勉強をしていたら役に立つんじゃないか。そう思って簿記の勉強も始めました」
就職先には税理士事務所を選んだ。大阪のオフィス街にある事務所で、相続関係や給与計算、確定申告などの業務をこなしつつ、税理士になるための試験勉強も並行して進めていた。仕事は楽しく、充実していた。
コロナ禍が襲来。ストリートビューを眺め、遠方に思いを馳せる
しかし、働き始めて2年目の冬に新型コロナウィルスが蔓延。生活は一変した。
「もともと外に出かける趣味が多くて、休みの日にはアウトドアキャンプや音楽フェスによく行っていました。税理士事務所は繁忙期は残業も多いですが、リフレッシュ休暇として好きな時期にお休みをとれるのがすごく良かったんです。でもコロナが流行りだしてからは、遊びに出られなくなり、ただただ仕事に追われるばかり。不自由さを感じるようになりました」
自宅から出られない日々の中で、三原さんはGoogleストリートビューを眺めたり、昔、旅行に行ったときの写真を見返したりするようになる。「ここではない別の場所に行きたい」という思いは次第に強くなっていった。
「当時は、まだ25歳だったので、何年か別の場所に住んでみるのもいいなと。場所はリゾート地をイメージしていて、北海道ならどこかなと考えた時に、何度か行ったことがあった道東方面が思い浮かびました」
仕事はリモートで税理士事務所の仕事を続けることもできそうだったものの、せっかくなら身体を動かす仕事をしてみたいと思った。
「北海道といえば、農業、漁業といった一次産業が盛んですが、その中でも『体力のある若いうちに経験したほうがいいことって何だろう?』と考えました。農業は何歳からでも趣味としてなら庭で野菜を育てたりはできるけど、漁業や酪農はまったくの未経験で高齢になってから始めるのは難しい。それで、動物が好きだったこともあり、酪農をやってみたいなと思ったんです」
別海町との出会い。地域おこし協力隊として移住へ
北海道(道東)と酪農。この2つのキーワードから、移住先を探し始めた三原さん。
できるだけ多くの人と関わりながら、酪農の仕事ができる場所はないか。そこで目に入ったのが北海道根室振興局管内にある別海町だった。
「生乳生産量全国一位という情報を見つけて、その時初めて別海町という名前を知りました。よく調べてみたら、私の実家がある寝屋川市の隣にある枚方市との友好都市でもありました。枚方市には友達がたくさんいるし、よく行く場所です。自分とのあいだに接点を見つけたことで、より親近感が湧きました」
別海町と枚方市では、毎年、酪農家の男性と都会の女性との交流を図るイベントなども開催されている。そうした交流があることからも受け入れてもらいやすいのではないかと思われた。
その別海町で募集していたのが、地域おこし協力隊だった。
「観光事業と農業(酪農)支援の2つの募集があったので、まだ応募できるかをすぐに役場に問い合わせました。どうやら役場の人は私の経歴を見て、観光希望だろうと思ったみたいで、『観光は募集が終了していて、農業しか残っていないんです』と、申し訳なさそうなお返事がきました。
私が『農業(酪農)の方がやりたいんです』と伝えたら、びっくりされたようで(笑)。実は一年前にも募集を出していて、『今年も応募こないね』と、ちょうど話をしていたところだったそうなんです」
こうして縁とタイミングに恵まれ、別海町での採用が決定。2021年3月、移住を考え始めてから、約半年後のことだった。
「牧場で住み込みで働かせてください」と直談判
三原さんの移住の決断は、ご両親をも驚かせた。すべてが決まり引っ越しをする段階で、「北海道に行きます」と打ち明けたのだという。
「最初に話したとき、父は旅行に行くものだと思ったみたいです。直接は言われないですが、兄よりも先に私が家を出たことをとても寂しがっていたようです」
こうしたエピソードからも、周りからは「思い立ったらすぐに行動に移すタイプ」と思われがちだが、実は論理的なタイプだという三原さん。「頭の中ではめちゃめちゃロジカルに考えたあとで、結論だけをパッと話すので、突拍子がないように思われちゃうんですよね」と笑う。
地域おこし協力隊での活動についても、自分なりに考えを巡らせていた。三原さんのミッションは、農業や酪農の支援。基本的に役場に出社し、SNSなどを活用したPR業務がメインとなるはずだった。しかし、三原さんが役場に伝えたのは、「まずは酪農をやらせてください」という強い希望。それも2、3日の体験ではなく、「がっつり住み込みでやらせてください」と訴えた。その申し出は役場を再度、驚かせることになった。
「私は農業も酪農もまったくの素人です。PRをするといっても、経験してみないことには、その楽しさやしんどさを伝えても上辺だけの発信になってしまう。例えば、新規就農でサラリーマンから酪農業を始める場合、初期投資で大きな借金を抱えながら始めることになるわけです。そんな人生の大きな決断にかかわるようなことを、未経験者が軽々しく伝えられないし、そこに説得力は生まれないと思いました」
そんな三原さんの申し出を、役場は柔軟に受け止めてくれた。新規就農者を育成する酪農の研修牧場に住み込みで働かせてもらえることになったのだ。
日々、勉強。早朝から始まる酪農場での一日
酪農場での一日は夜明け前から始まる。朝3時半には起床し、洗顔と歯みがきだけ済ませると、すぐに牧場へと向かうという。
一日のスケジュールはおよそ次のとおりだ。
- 4時~ 搾乳
- 6時~ 朝食
- 8時~ 清掃(水飲み場の洗浄、除糞、仔牛小屋の清掃など)、餌給与
- 12時~ 昼食
- 14時~ 搾乳
- 16時~ ミーティング、日誌記録など
- 16時半 業務終了
「牛のお乳は一日2回搾らないと、牛が病気になってしまうんです。朝と夕方に時間をあけて搾乳をする必要があるため、早朝から作業を始めることになります。早起きは苦手なので大変です(笑)」
このほかにも、発情期には人工授精師による種付け作業を行い、体調の悪い牛がいたら獣医に診察してもらう。月に1、2回は外部講師を招いた座学の時間もあり、牛の病気や牧場の経営などに関して幅広く学ぶという。
牛たちと時間を共にする中で感じたやりがい
何もかもが初めての酪農の世界へと飛び込んだ三原さんだが、仕事をキツイと感じたことはなかったのだろうか。
「牛と人とでは力が全然違うので、危険を感じる場面はあります。産まれたばかりの牛は50キロ弱で、大型犬より少し大きいくらいのサイズ感ですが、2年後、搾乳できるレベルになると500キロ、600キロの巨体になります。初めてお乳を搾られる初産の牛は搾乳に慣れていないので、怯えて足を上げるなど、人間からするとちょっと危ない行動をしてしまうことがあるのです。幸いにも、私はまだ怪我をしたことはありませんが」
その一方で、仔牛の成長を感じる瞬間は何よりも嬉しく、仕事のやりがいにも繋がっていると話す。
「牛はあまり賢い動物ではないそうですが、搾乳のときなどに私の前で大人しくしていると、『私のこと、覚えてくれているのかな』と嬉しくなりますね。牛はお世話をした分、返してくれる。基本的なことですが、美味しい草と水をあげれば美味しいミルクを出してくれるし、乳量も多くなるんです。特に私は数字でチェックするのが好きなので、そういう目に見える成果が得られると嬉しいですね」
自分の搾った牛乳が商品となって消費者のもとに届くことも、やりがいの一つ。
「研修牧場で搾った生乳はすべてべつかい乳業興社に出荷され、『べつかいの牛乳屋さん』という名前で牛乳として製品化されたり、アイスやチーズなどに加工されて販売されます。『これが自分たちの搾った牛乳を使った商品だよ』と家族や友達に伝えられるのは嬉しいですね」
海の幸のお裾分けも。地域イベントで出会いが広がる
ここまで仕事の話を中心に伺ってきたが、移住をして、生活面ではどのような変化があったのだろうか。
「食生活に関しては、初めての一人暮らしということもあって変化は大きかったですね。家の周りにはお店が何もなくて、スーパーまでは車で30分ほどかかります。なので、野菜などの食材をまとめ買いして、作り置きをすることが多いです」
北海道は何といっても食材の宝庫。肉や乳製品はもちろんのこと、別海町の海の幸は格別だという。
「大阪の食も魅力的ですが、別海町は素材がいいからそのまま食べられるんですよね。特におすすめは、北海シマエビです。野付湾という砂でできた半島で昔ながらの漁法で収獲されていて、臭みがなくて小ぶりなのでパクパク食べられちゃうんです。漁期が夏と秋の2週間ずつくらいしかなくて、生で食べられるのはその時期だけ。夏の風物詩ですね」
ホタテやエビ、ホッケなどの魚介類を町の人からお裾分けしてもらうことも多い。
「移住する前はやっぱり、町の人に受け入れてもらえるのか心配でした。最初は、大阪から突然若い女性がやって来たということで、ザワザワしていたみたいですが(笑)、実際にコミュニケーションを取り始めるとフレンドリーな雰囲気で、『頑張っているね』と優しく声をかけてくれる人も多いです」
休みの日には、地元の人からバーベキューに招かれることもあるという。
「協力隊をしていると、仕事と休日にはっきりと境目を引くのが難しいところがあります。私は基本的に町のイベントもプライベートのバーベキューも誘われたらどこにでも顔を出すし、それが苦にはなりません。新しい出会いがあるし、コミュニティを広げていくこともできます。研修牧場の研修生たちとも仲が良くて、花火をしたり、スイカ割りをしたりして楽しんでいますね」
ファームステイ、牧場の6次化…今後やりたいこと
地域おこし協力隊として赴任して3年目。当初は週5日間を通して牧場で働いていたが、現在は役場の仕事と兼務している。出張に行ったり、町のイベントに関わることが増え、仕事の幅が広がる一方で、牧場に出る日が少なくなったことが「寂しい」とも話す。
「毎日、様子を見ていないと牛の体調の変化に気付きづらいということもあるし、酪農の最新の情報から置いていかれてしまうんじゃないかという焦りもあります。
牧場のオーナーさんなどは、新しい情報を次々に吸収して、試行錯誤を繰り返して日々レベルアップしているような、向上心の塊のような方が多いんです。役場の仕事で酪農をPRをするために必要な基礎の部分はわかったとはいえ、まだまだ勉強不足。今の情勢を絡めて最近はどうなってるのかといった話は現場にいないとしにくかったりするので、その辺の仕事のバランスが難しいですね」
三原さんの協力隊の任期は、2024年3月で終了する。大阪の友人には「3年で戻る」と話して移住してきたが、今のところ、別海町からの完全撤収という選択肢はなさそうだという。
「実は、ハンターの資格も取ったんですよ。牛の飼料となる草を鹿が食べてしまうという被害が出ていて、そういう問題もあるのかと興味を持ちました。この秋からハンターデビューできる予定です」
ほかにも、挑戦したいことがたくさんある。
「別海町は酪農大国でありながら、観光業がそれに追いついていない状況があります。以前、イベントを一緒に運営した仲間から、放牧された牛たちを眺めながらファームステイができるような宿泊施設をつくれないかとお声がけいただいています。一般の人が酪農に気軽に触れられるような場所をつくることで、地域振興につなげていきたいです。
あとは、牧場の6次化にも関心があります。せっかく生産した品質のよい牛乳が余ってしまっているという問題もあるので、それを加工してオリジナルのチーズやアイスクリームなどをつくりたい。大阪をはじめ全国でフェアやイベント、物産展などに出展して、別海町の魅力を発信していきたいです」
ほかにも役場や農協、牧場関係者からも声がかかり、各方面から引っ張りだこの三原さん。すでに別海町の一員として、なくてはならない存在となっているようだ。
楽しくて難しい道を選ぶ
最後に、三原さんから地方移住を検討している人に向けてメッセージをいただいた。
「何か不安要素やわからないことがあったら、役場の人に聞いてみることは大事かなと思います。
私は移住するにあたって、引っ越し先や車の手配など、調べてみてもよくわからないことは、とにかく役場の方に『どうしたらいいですか?』と聞きました。結局、使っていない車を譲っていただいたり、引っ越し当日も空港から迎えにきていただいたり……頼りきりでした。私の唯一の取り柄は、人に恵まれていること。自分ひとりで生きていくのは絶対に無理なので、頼れるところは頼る。もちろんそれに対しては、一生懸命、自分の行動でお返しします。
新しい場所で、新しい人に出会うことはとても素敵なことなので、みなさんもぜひやってみてほしいです」
三原さんは選択に迷ったとき、「楽しいこと」を大前提に、「より難しいほう」を選ぶようにしているそうだ。妥協することなく挑戦し、人生を楽しむまっすぐな姿勢こそ、彼女が信頼され、人に恵まれる所以なのかもしれない。