移住者プロフィール
林マヤさん
出身地:長野県上田市、前住所:東京都、現住所:茨城県守谷市、職業:タレント
目次
INDEX
“服好き”のルーツはリメイク上手の母
1958年、長野県上田市生まれ。自然豊かな太郎山のふもとで3人姉弟の真ん中として育った林マヤさん。
兼業農家の両親はどちらも小学校の先生。校長まで務め上げた父のことは「世界で一番尊敬している」と語る。
「校長先生になってからも誰よりも早く学校に行って、全部の教室の窓を開けてお花を飾るようなとっても感情豊かな人でした。涙もろくて、ワイルドで」
一方で、マヤさんの“服好き”のルーツは母にある。
「母がすごくリメイク上手だったんです。小学校の上履き袋は、幼稚園の時に着ていたスカートをリメイクして作ってくれました。細かく入ったプリーツを生かして、裏地にはカーテン生地を使っていてとても素敵でした。
そんな母の影響もあって、私も子どものころから太郎山で拾ってきた枝をやすりで磨いて木のボタンを作ったり、Tシャツの袖をハサミで切ってフリンジにしてみたり、自分で洋服をカスタマイズしていました」
ご両親の話になると、まるで少女に戻ったかのような人懐っこい笑顔を見せてくれたマヤさん。
マヤさんのあたたかいお人柄の基盤は、愛情たっぷりのご両親から受け継いでいるのだろう。
マヤさんの幼少期は、とてもシャイで控えめな性格だったという。授業中、教師から出された問題の答えがわかっても恥ずかしくて答えられないほど引っ込み思案で、友達もなかなかできなかった。
しかし、そんなマヤさんの学校生活は、高校の時、教師が放ったある一言をきっかけに180度変わってしまう。
シャイな少女がスケバンの頂点にのぼりつめるまで
「校則違反だから、そのパーマ取ってこい」
もともと少しクセのある髪質でパーマはかけていなかったのだが、反論することもできず、大人しく美容室に足を運んだ。
しかし―――
「美容室の椅子に座った時、生まれて初めて、心の中で大人に対する怒りが爆発したんです。『あの先生は、ろくに確かめもせず私の地毛をパーマだと決めつけた‼︎』って。
とっさに美容師のお姉さんにお願いしました。『根本から思いっきりパーマ当てちゃってください』って。本当のパーマがどういうものか先生に見てもらおうと思ったの(笑)」
こうして怒りの感情おもむくままに、本物のパーマ姿へと変身したマヤさん。不思議なことにそれ以来、「先生のことが怖くなくなった」といい、地味な制服も髪型に合わせてカスタマイズするようになった。
「お小遣いを全部はたいて、24本の車ひだのスカートを、床にズルズル引きずるくらいの長さに仕立て直してもらいました。かばんも一晩お湯につけて柔らかくして、針金で縛ってぺちゃんこにして。全身をマンガに出てくるような超不良ルックに仕上げました!」
それは、当時のツッパリブームの中で流行っていたいわゆるスケバンスタイル。それまであまり目立たずひっそりと生きていた少女の変貌ぶりに周囲は目をみはった。
しまいには、マヤさんが電車から降りるといっせいに道の両端に並び、「押忍!」とあいさつするまでになったという。
こうしてマヤさんは、スケバンの頂点へと上り詰めたのだった。
刈り上げ・ジャージから、パンクファッションモデルに転身
不良少女の番長として君臨した学生時代を経て、その後、上京したマヤさん。憧れだったディスコに毎晩のように通い、その楽しさにすっかり夢中になった。
門限を破り続けて寮を追い出され、仕事も性に合わず続かない。アルバイトをしながら荻窪の風呂なしアパートで暮らしたという。
そんなある時、久しぶりに足を運んだ銭湯で高校時代のツッパリ仲間と再会したことをきっかけに、マヤさんの人生は大きく動き出す。
「彼女は金髪で、最初、誰だかわからないくらい綺麗になっていました。それに引き換え当時の私はお金がなくて、一番長持ちするからという理由で髪は刈り上げ、服はジャージ。
あまりの落差にショックを受けていたら、彼女に『女の子はメイクや洋服で変わるからモデルやってみたら?』と言われて。それでモデル界の門を叩いたんです」
こうしてモデル事務所に所属したものの、2年間はほとんど仕事がなかった。マヤさんが好んで着ていたパンクファッションは、当時、男性からの人気を得られなかったのだ。たまに舞い込むカメラファン向けのモデル撮影会の仕事でも、マヤさんの周りにはまったく人が集まらなかった。
「自販機の前でスタッフと一緒に缶コーヒー片手にたばこを吸って、『今日も客来ないっすねー』と言いながら暇をつぶしていました(笑)」
全財産20万円を手にパリに降り立つ
そんな型破りなマヤさんは、その後の行動もやはり人並外れていた。
いつまでたってもモデルとして売れず、かといって故郷に帰るわけにもいかない。どうしようかと悩んでいた時、あらためて思ったのは、「私が一番好きなものは、パンクファッションだ」ということだった。
パンクファッションといえばロンドンだ。ロンドンに行けば、パンク少女やパンク少年がたくさんいて、誰かが自分のことを認めてくれるかもしれない。そう考えた彼女は、全財産の20万円を手に一人ロンドンへと旅立った。
そして、乗り継ぎのために降り立ったのがパリ。待ち時間を使って観光しようという何気ない決断が、再び彼女の人生を一変させる。
「一度だけ、仕事をしたことのあったデザイナーさんがパリ在住だということを思い出して、電話番号を調べて連絡してみたんです。『一人でパリに来ちゃったから、お茶してください』って。驚いてすぐに駆けつけてくれて、親切にもカフェ・ドゥ・マゴに連れて行ってくれました」
ドゥ・マゴといえば、名だたる芸術家や文豪たちが通い、パリの華やかな文化を築き上げてきた歴史あるカフェ。当時も有名なモデルやカメラマンなど、ファッション業界の人たちが集まる社交の場だった。
「初めてカフェオレというものを飲んで感動し、石畳を見ながらやっぱりフランス人はおしゃれだなと思っていたら、ふっと体の大きなおじさまがやってきて、『君、面白い顔してるね。僕とフォトしない?』と声をかけてきたんです」
彼こそ、世界を代表するファッションカメラマン、ピーター・リンドバーグだった。
「マリ・クレール誌」に初掲載。パリコレモデルとして日本に逆輸入
こうして、そのままパリでモデルクラブに所属し、ピーター・リンドバーグとともに「マリ・クレール誌」の仕事をするという予想もつかない急展開を迎えたマヤさん。
それは紛れもない、正真正銘のシンデレラストーリーだった。
「私は小さい運だけはたくさん持っているんです。自分自身には全然力はないけれども、周りの人がヒントをくれたり、助けてくれたりして、その道に乗っかりながらふらふら歩いている。そんな人生なの」
その後、パリコレクションに出演を果たし、パリコレモデルとして華々しくデビュー。逆輸入という形で日本でも注目を集め、東京コレクションなどのモデルの仕事が次から次へと舞い込んだ。
そんな娘の姿を故郷の両親はとても喜んでくれたという。
「母は雑誌の切り抜きを大切にファイリングしてくれていました。久しぶりに田舎に帰ったときには涙が溢れましたね。母はいつも私のことを心配していたので、モデルで成功した姿を見せられたのはすごく幸せなことでした」
ーーーしかし、そんなシンデレラストーリーは長くは続かない。0時の鐘がなるように、魔法はとけてしまうのだ。
贅沢の限りを尽くした果ての借金1億円
海外に旅立つ前の日本では、まったくモデルとして認められなかったにも関わらず、パリコレから戻ってくると一転、まるで手のひらをかえしたように「かっこいい」「かわいい」ともてはやされた。そんな状況は、マヤさんの心を大きく翻弄することになる。
当時を振り返り、マヤさんは自分のことを「世界で一番嫌いな女だった」と表現する。
「すごくいい気になって、ワガママになっちゃったんです。『リハーサルなんかやりたくない』と平気で言っていたし、雑誌の撮影で、他のモデルさんは洋服一着にフィルム10本くらい撮るのに、私は1本しか撮らせなかった。『だって、パリコレモデルの林マヤだぜ』って。本当に超生意気。自分をセレブだと思い込んでいました」
毎晩のようにパーティーを催して高級なお酒をあけ、ファーストクラスに乗ることもスイートルームに泊まることもためらわず、洋服はラックにかかっているものを何も見ずにまとめ買いし、贅沢の限りを尽くしたという。
そして、ジャズシンガーとしてリリースしたCDの売れ行きが不調という結果に至ってようやく、膨れ上がった夢は終わりを迎える。
「気づいたら、1億円の借金を抱えていました。当時、銀行のカードを何枚も持っていて、貯金がいくら残っているかなんて確認せずに使っていたんです。
ある時、住んでいたマンションの電気が消えてブレーカーをあげてもつかなくなった。そのうち、ガスも水道も止まって、おかしいなと思っていたら、借金1億円でした」
人生のどん底から這い上がるまでの16年間
そこからの日々はまさに天国から地獄だった。
食べるものは底をつき、ついには昔飼っていた猫用の缶詰をむさぼり食べるようになっていたという。外に出ると誰もが自分のことを嘲笑っているような気がして恐ろしく、働く勇気も出なかった。
身も心もボロボロになり、苦楽を共にしてきた夫とともに富士の樹海に車で飛び込もうとしたことさえあった。
「ダーリンは、もともとファッションブランドのマーチャンダイザーをしていた人でした。出会った当時、パリコレ帰りで鼻高々な私はそんな彼にひどい態度をとっていたのに、大人な彼はパーティーで席が隣りになったときに普通に話かけてくれました。話してみたらすごく面白い人で。それからずっと一緒にいます」
そんな夫と富士の樹海を前にした車内での出来事を、マヤさんは次のように語ってくれた。
「二人で黙ってその瞬間を待っていました。その時、ふっと風が流れたんです。その流れの方向に目を向けたらね、“高原のソフトクリーム“というのぼりがハタハタとはためいていたんですよ。
ソフトクリームなんてしばらく食べてないな、どんな味だっけな。そんなことを考えていたら、神様っているんだね、ちょうどひとつ買えるぶんの小銭が出てきたの。ひとつだけ買って、ふたりで代わりばんこになめていたら.....ダーリンが一言『うまいな』ってつぶやいたんです」
その言葉は、マヤさんの心を大きく動かした。
「ああ、私はこの人の人生を奪っちゃいけない。心配してお金を援助してくれた両親や応援してくれる人たちにも、恩返しをしなければいけない」と。
そうして生きる意味を取り戻してからは、夫とともに懸命に働き、借金の返済に明け暮れる日々を送った。
タレントの仕事をしながら、昼間はお弁当屋さんや喫茶店、夜はスナックのアルバイトを掛け持ちし、それが終わると夫と共にチラシを詰めたリュックサックを背負い、家々をまわってポスティングをした。寝る間も惜しみ、働きづめの毎日だった。
そして、16年という年月をかけて1億円の借金を完済した。
移住のきっかけはダーリンが持ち帰ってくれたオーガニック野菜
しかし、そんな過酷な日々で体は限界を迎えていた。
食欲のないマヤさんが「少しでも元気になるように」と、ある時から夫が茨城の農家に通い、オーガニック野菜を持ち帰ってくれるようになった。
「どの野菜もすごく可愛い形をしていました。例えば、フィオレンティーノというトマトはかぼちゃみたいなくぼみがあって、スライスすると花びらのように見えたりする。アクセサリーにしたくなるような珍しい野菜たちに興味を持ち、少しずつ食べられるようになりました」
しかし、たくさん持ち帰るようになるうちに、夫も茨城まで通うのが大変になってきてしまう。
「それなら、16年かけて借金を完済したし、これから第二の人生をふたりでスタートするために思い切って移住しよう、と。茨城で畑ができるお家を探すことにしたんです」
そんな中で二人の目にとまったのが守谷市。つくばエクスプレスが通っており、東京までアクセスしやすいことは、タレントの仕事をしているマヤさんにとって必須の条件だった。
「特に下調べもせずに、とりあえず守谷市に行ってみました。駅の周辺をぶらぶら歩いていたら、空き家を3軒ほど見つけて。そのうちの1軒が、家はオンボロだけど庭付きで、広さも100平米くらい。ここなら畑ができるかもしれないと思いました。近くの不動産屋さんで聞いてみたら『うちの物件です』と言われ、その日のうちに内見させてもらって『ここに住もう!』と決めました」
「庭で畑をやってくれる人に貸したかった」という大家さんの意向ともうまくマッチし、4LDKの住まいを家賃7万円ほどで借りられることになった。
2,400平米の畑で育てる「レアベジ」100種類
こうして2008年に夫とともに守谷市に移住したマヤさん。
耕運機を買う余裕もなかったため、二本の鍬で土を耕すことから始めた。土はセメントのようにかたく、畑として使い始めるための整備に2週間ほどを費やしたという。
「好きな野菜やハーブを少しずつ植えて、芽が出たときは感動しましたね。形は悪くても、初めて実った野菜はすごく美味しかった。野菜というのは、愛でる楽しみといただく楽しみの両方がありますよね。一生懸命に花を咲かせて、実った野菜をありがたくいただく。そりゃ元気になるわ!と思いますね」
現在は、守谷市内の別の住まいに転居し、休耕地を利用した2,400平米もの広大な畑で、希少な品種「レアベジ」を中心に年間100種類もの野菜を育てている。
「トマトを10種類、ナスを5種類、大根を5種類、ニンジンが4種類……と、少量多品目で作っています。私たちは農業に関しては素人だし、私は飽き性だから、いろいろな種類を楽しめるこの方法が合っているんです。多品目を作っていれば、自然災害や嵐に襲われても、生き残る品種が必ずあるから、食いっぱぐれることもありません」
野菜作りをきっかけに広がる仲間の輪
まったくのゼロから再スタートをきった守谷市での生活。「何もないところから、少しずつプラスに変えていく日々が楽しかった」とマヤさんは笑う。
「古いお家に住んでいると、いろいろなものがすぐ壊れてしまったりするけれど、自分でDIYしたり、工夫して違うもので置き換えてみたり、そういう暮らしがすごく面白かったですね。
田舎に引っ越してスローライフとかって言うけれど、全然スローじゃなかった。めまぐるしく1日が終わってしまって、マヤマヤ2号、3号...4号くらいまでほしいくらいです(笑)」
畑仕事を通して、地域の農家の方と交流が生まれたことも、移住してよかったことのひとつだという。
「私たちは農業系の恰好をしていないから、ご高齢の方たちが珍しがって『何作ってんだっぺー?』と話しかけてくれたりして。
移住する時はやっぱり人間関係に関してはすごく不安になるものですが、何かひとつ目的を持っていくと、自然とつながりができてくるものだなと思いましたね。私たちの目的は野菜づくりだったので、農家さんの知り合いがだんだんと増えて、そのうち若い農家さんも集まるようになり、仲間の輪が広がっていきました」
畑仕事も板につき、ようやく好きな野菜を自由に育てられるようになってきたというマヤさん。今後は、野菜を起点にしたコミュニティを広げていきたいという思いもある。
「私はハンドパンという打楽器の演奏もしているので、畑でそのライブをやりたいですね。料理上手なダーリンの野菜料理でお酒を飲みながら、みんなが輪になって集う。そんな楽しい会を催せたらと思いますね。
それから、サステナブルな取り組みにも力を入れていきたいです。私が主宰している『MAYAMAYA』というファッションブランドでも、オーガニック素材の服づくりを進めたいし、野菜の色素で布を染めたりもしてみたい。やりたいことは尽きません」
一人十色。毎日、違う色の自分を探しながら生きてゆく
ここまで、マヤさんが移住に至るまでの足取りを急ぎ足でたどってきた。ここには描ききれなかったストーリーがまだまだたくさんある。
山のふもとで育った「不良少女」が、パリコレモデルという煌びやかな世界で花を咲かせながらも、バランスを崩した心で急転直下の極貧生活も味わった。
一人の人生にこれほどまでに山あり谷ありさまざまな出来事が起こるものかとただただ圧倒されるばかりだが、それもすべてはマヤさんの直感的な行動力ゆえ。豪快でありながら、しかし誰よりも繊細に人生を生き抜いてきた人なのだと感じた。
「守谷に移住した時は、ダーリンは都落ちだと肩を落としていました。都会っ子の自分が、畑で泥まみれ土まみれになって、野菜作りするなんて思わなかった、と。
でも思えば、都会にいた時は、常にあふれんばかりの情報があって、それに押しつぶされて性格もトゲトゲしていたんですよね。私も移住してからは気持ちの余裕ができたので、夫婦仲はすごくよくなりました。今では朝起きると、『おはよう』ってハグするんですよ。毎日の暮らしに温もりがあります。
十人十色という言葉があるけれど、私は一人十色だと思っています。昔は自分の色というものを決められなくて四苦八苦してきましたが、畑をやるようになってからは、毎日違う色の自分で良いんだと思えた。
雨が降るからこそ土は潤うし、空には虹が出るんです。 いろいろな色が組み合わさって虹の橋が架かるように、私も毎日、違う色の自分を探しながら生きてゆく。時には迷子になりながらね」
守谷での畑仕事を通じて、ようやく大地に大きく根を張ったマヤさん。その姿はどこか、故郷の太郎山のふもとで大自然と戯れていた少女時代の彼女とも重なるように思える。
平らかな時間が流れる守谷という土地は、自分の人生を取り戻し、再び歩き出すのにふさわしい場所だったのだろう。
イベント情報
2024年5月12日に、マヤさんが司会とハンドパン演奏を務めるコンサートが開催されます。ぜひご来場ください!