移住者プロフィール
岡垣祐吾さん
出身地:石川県輪島市、前住所:東京都、現住所:輪島市、職業:「岡垣漆器店」代表
目次
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ドイツに短期留学した学生時代
東京生まれ、輪島市育ちの岡垣さん。小さい頃は、周りから可愛がられるいわゆる「いじられキャラ」で、運動は苦手だったが、そのぶん、勉強は人一倍頑張ったという。
19歳の時には、ドイツのミュンヘンに短期留学をした経験をもつ。
「特に強い志があったわけではないのですが、高校卒業後は輪島を出たいという気持ちがありました。
お恥ずかしい話ですが、ドイツは英語が通じると思って留学したんです。何とかなると思っていたらどうにもならなくて。
ホストファミリーにも呆れられてしまい、『何時に帰ってきても良いからドイツ楽しんでね』と鍵を渡されました。結局、現地の学生さんたちと毎晩のように飲んで、夜中の3時くらいに帰るような生活を送っていたら、ドイツ語の成績がすごく上がって、帰る頃にはトップクラスになっていました(笑)」
ホストファミリーへのお土産として、輪島塗も持って行ったという。
「今思い返すと当時は、輪島塗のことも日本のことも、本当に何も語れなかったですね。それに対して危機感を持っていたわけではなく、それよりも海外の人たちとコミュニケーションをとることの方が楽しかった。自分の国のことを何も知らないなと気づいたのは、学生時代の後半から社会人になってからですね」
輪島塗への愛情の芽生え
当時の岡垣さんに、家業である「岡垣漆器店」を継ごうという考えはなかった。東京の大学を卒業後、横浜のホテルに就職し、バーテンダーとして働いた。
転機が訪れたのは就職して5年目の2007年。能登半島沖を震源とした地震が発生し、輪島市や七尾市、穴水町で震度6強を観測した。この時も、輪島市では多くの住宅が倒壊などの被害を受けた。
「小さい頃から知っている、よく遊んでくれた輪島塗の職人さんたちがすっかり肩を落とし、元気を失くしていました。建物はぐちゃぐちゃで、漆も被害を受けた。『俺、もうやめるわ』という声も聞かれました」
当時、岡垣さんは27歳。そんな職人たちの言葉を耳にした時、初めて自分の中に輪島塗に対する愛情が芽生えたという。
「このまま輪島塗がなくなってしまうのは嫌だと思いました。その時、根拠のない自信のようなものが湧き上がってきて、どうせやめてしまうのだったら、僕が後悔のないようにやってみようと。それでもし店をつぶしてしまったとしても、何もやらないよりは良いじゃないかと思ったんです」
祖父の代から続く「千舟堂」を承継へ
こうして2008年に「千舟堂」ブランドを展開する「岡垣漆器店」を継ぐことを決意。当初は東京に拠点を置いたまま輪島塗の仕事を始めたという。
「父や母は不安そうでしたが、祖父はすごく喜んでくれました。
そもそも“岡垣”の千舟堂を始めたのは祖父です。祖父は鳥取の人間で、海軍として戦争にも行きました。戦後、安定した職が見つからず苦労していた時、お姉さんが嫁いだ先が輪島で古くから続く漆器屋の千舟堂でした。その縁で丁稚奉公から始めて、1948年にのれん分けというかたちで岡垣の千舟堂を始めたのです」
輪島塗の歴史はそれをはるかに遡る。起源には諸説あるが、現存する最古の輪島塗は室町時代の大永4(1524)年の作といわれているそうだ。
輪島塗には塗りや砥ぎなど124もの工程があり、木地師や塗師、蒔絵師など専門の職人による分業制ですべてが手作業で行われている。こうした緻密な職能分化により、その伝統技術は長らく守られてきた。1977年には、漆器業界でいち早く国の重要無形文化財にも指定されている。
「輪島塗の特徴は、塗りの回数の多さです。下塗りや上塗りなど、全部で10~14回ほど塗りの作業を繰り返します。木地が仕上がった状態から数えると、ひとつのお椀が仕上がるまでに5~7か月ほどかかりますね」
2011年に輪島市にUターン移住
そんな輪島塗の製造・販売を手がける「岡垣漆器店」は塗師屋(ぬしや)と呼ばれ、輪島塗の総合プロデューサーのような立場だ。その仕事は、商品の企画から職人たちとのコミュニケーション、客先に出向いての商売、展示会への出展など多岐に渡る。
「外に出てものを売る行商がメインなので、東京に拠点を置いていた時も、東京にいることはあまりありませんでした。裏を返せば、東京に拠点があったほうが出張に行きやすい面はありましたね。東北に行くにしても日帰りができますから。
一方で、輪島塗の商品をつくるには、職人さんとのコミュニケーションが欠かせません。輪島に2か月に1回ほど通うペースだと、職人さんたちと認識のズレが生じたまま製作が進んでしまうことがあり、意思疎通の難しさを感じていました」
子育ての環境を考えても、田舎の子育てに興味があったことから、第一子が幼稚園に上がるタイミングの2011年、岡垣さんは家族とともに輪島市にUターン移住した。
斜陽化が進んでいた輪島塗。場所にしばられないものづくりを模索
しかしその当時から、すでに輪島塗は苦境に立たされていた。高度経済成長期にピークを迎えた売り上げは、その後、手頃な価格の日用品へのニーズの高まりから減少傾向が続いていた。
そんな中で、岡垣さんが考え続けてきたのは、「20年後の輪島塗の姿」だったという。
「従事者も減り続けている状況では、このまま20年後まで品質の高い輪島塗を保つことは難しい。そう考えた時に思ったのは、輪島市内だけで製造を完結させる必要はないのではないかということでした。
例えば、今、198,000円の値で販売しているハンガーの木地は、兵庫県の会社さんと一緒に作っています。輪島市内でも作れなくはありませんが、それよりもはるかに品質が良いからです。そうやって日本の中でものづくりをして、高価格であってもその価値を認められる、売れる商品ができればいい。
当初は、10年後から本格的にそうした動きができるように、日本全国の職人さんたちにアンテナをはっていましたが、今回の震災をきっかけにその計画を前倒しすることにしました」
日常を一変させた能登半島地震
2024年の元旦に発生した能登半島地震で、輪島市は甚大な被害を受けた。
地震発生当時、岡垣さんは四階建ての会社の社屋に家族と一緒にいた。幸い怪我はなく、建物も倒壊の危機をまぬがれた。
しかし、多くの輪島塗の事業者では、自宅や工房が焼失したり、全壊・半壊の被害を受けた。
「その中には、輪島を離れる選択をした職人さんもいます。......それも仕方ないことです。自宅に『危険』を示す赤紙が貼られていて大きなショックを受けていたら、結局、一部損壊にしかならず、すべて自力で直さなければならないことがわかった。そんなふうに二度心が折れて、輪島を離れた人もいました」
岡垣さんの自宅は2月中に上下水道が復旧したが、いまだに輪島市の多くの場所で断水が続いているという(2024年4月現在)。
「生活水を確保したり、洗濯物を手洗いしたり……日常生活を続けるための時間に毎日3~4時間とられてしまっているのが現状です。もし夏場までトイレが流せないような状況が続けば、衛生環境は悪化するでしょう。今後、さらに輪島から出る選択をする人も出てくるかもしれません」
輪島を離れた職人の中には、「輪島塗の仕事を続けたい」と話す人もいる。そうした人のためにも、輪島にいなくても仕事ができる環境を早急に整えていきたいと話す。
「木地は兵庫県で、下地塗りは輪島で、上塗りは他の県で、蒔絵は輪島から避難した職人さんにお願いする……仮に輪島塗を名乗れなくなったとしても、価値ある漆器を作り続けることを何より大切にしたいです」
ニューヨークの見本市に出展
そうした流れの中で決めたのが、2024年2月4日〜7日にかけてニューヨークで開催された国際的な生活雑貨の見本市「NYNOW」への出展だ。震災が起き、「見本市どころではない」と思っていたが、家族や職人たちに背中を押された。
地震で縁が欠けてしまった輪島塗の漆器も、自分を奮い立たせるお守りとしてニューヨーク行きの荷物にしのばせたという。
「これまでの輪島塗の規則に縛られない新しい漆器の価値を、まずは海外で認めてもらいたいという思いでした」
見本市では桜や兜のほか、ぐいのみ10種、ワイングラスの持ち手を飾る漆器20種を展示した。現地では材料や技法などに関する質問が次々に投げかけられ、反応は上々だったという。
「その一方で、想定していなかった反応もありました。例えば、ミュージアムショップの方から『飾れるプレートのようなものは作れないか』と聞かれたり、学生さんから、漆の技術を彼らが研究している分野とコラボレーションさせて何かできないか、といった話も持ちかけられたり。
海外ではどちらかというと“使う”ものより“飾る”ものとしての需要が高いようで、模様も桜のような日本的なものより、うさぎや稲穂などの図柄が人気でした。
今回は、そうした想定外の反応にすぐに対応することができませんでしたが、次の課題が見えたのは良かったと思います」
「We will never give up!」に込めた思い
ニューヨーク行きを決めた背景には、新しい市場を開くことで、被災した職人たちの旗印になればとの思いもあった。
「輪島塗は職人さんに支えられている業界です。震災後、すぐに走りだせる人もいれば、立ち上がれない人もいる。そうした人を誰一人取り残すことなく、『迷ったらここまで焦らず来てくださいね』というひとつの旗を立てることが、今、僕にできることなのかなと思っています」
見本市で配るコースターには、被災した街並みの写真とともに、「We will never give up!(私たちは諦めない)」と復興への思いを英語で添えた。
伝統を守るだけでなく、持続可能なかたちに変えていく。輪島塗の技法を生かし、世界に認めてもらえる新しい漆器を作っていく。そうした思いもこの言葉には込められている。
「今、輪島塗は被災地の応援という目で見てもらえている部分があると思います。それはもちろんありがたいことなのですが、いつまでも被災地だからといって買ってもらえる輪島塗であってはいけない。道のりは長いですが、人が心から『綺麗だな』と思って手にとったらそれが輪島塗だったというのが、僕の中での復興のゴールです」
輪島市の現状について
最後に、取材(2024年4月)時点での輪島市の現状について教えていただいた。長引く断水のほか、今、市民が生活面で困っているのは、物資の配布だという。
「市による物資の無料配布が3月で打ち切られました。ドラッグストアやスーパーが少しずつ営業を再開する中で、そうした商売に影響が出ないようにしたり、市民の自立を促していくといった配慮があるのだと思います。
ただ、実際問題として、火災で仕事も住む場所もすべて失った人が仮設住宅に入った途端、三食自力で食べてくださいというのもなかなか無理な話です。
僕は個人的に知り合いや友人に連絡をとり、不足している物資などをお伝えして支援のお願いをしてきました。それを仮設住宅の友だちや職人さんたちに配ったり、そこからさらに周りの人たちにも分けてもらったりしています。
今は、お米や冬物の服などはありがたいことにいろいろといただくことができましたが、春・夏物の衣服が不足しています。ただ、こういった状況も日々変化するので、僕も発信には気を付けなければと思っているところです」
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「千舟堂」の代表として、一個人として、周囲の人たちの事情に寄り添いながら、自らが率先して先頭に立ち、再起の道を切り開こうとしている岡垣さん。
「いつまでも被災者として語ることはできない」
その毅然とした言葉の裏側には、自立への思いと共に、他者を気遣い、思いやるまなざしが滲んでいるようだった。