移住者プロフィール
木立 恭子さん
利用した支援制度
地域おこし協力隊
出身地:京都府、前住所:青森県青森市、現住所:青森県西目屋村、職業:カヌー・ラフティングツアーの会社「A’GROVE(エイグローヴ)」の運営
目次
INDEX
カヌーの普及・振興のため西目屋村に移住
「『昔からいる自分たちが“土”なら移住者は“風”。それらがうまく混ざってその土地の“風土”となるのだから、良い風を吹かせてください』この言葉は、西目屋村に引っ越した当初、住民の方に言われて嬉しかった言葉で、今でも忘れられません」
そう語るのは、夫・彰さんが経営するカヌー・ラフティングツアーの会社「A’GROVE(エイグローヴ)」の運営を支えている木立恭子さん。
大学時代にカヌーと出会い、夫・彰さんとの結婚を機に1997年に京都府から青森市へ移住。子どもの手が離れたこともあり、2016年、カヌー・ラフティングツアーの事業を始めるために青森県西目屋村に移住した。
恭子さんの夫・木立彰さんは高校時代からカヌーを始め、大学卒業後は「カヌーでトップに立つ」ことを目標に、京都の会社に就職してカヌーの選手として活動。その後、地元青森県にUターン就職し、選手を続けながらカヌーの普及・振興に努めていた。そんな中、「県内でのカヌー競技者の減少を食い止め、カヌーの選手を育てたい!」という想いが募り始めていく。
ダムの建設により、「津軽白神湖(つがるしらかみこ)」として生まれ変わった西目屋村のダム湖は、カヌーには最適の環境だったのだそう。冬のオフシーズンには、イベント開催地に赴いて、冬用のラフティングボートを使って雪原でスノーモービルで引っ張って遊ぶアクティビティを行っている。
移住後に感じたギャップ
西目屋村は、秋田寄りの青森県の南西部に位置し、青森市から車で1時間半ほどの場所。村の総面積は246.02平方キロメートルで、そのうち、93%が林野に占められており、青森県内の市町村の中で最も人口が少ない。
青森県内での移住とはいえ、青森市と西目屋村の生活環境は異なるのだろうか。移住前とのギャップについて聞くと、「青森市から西目屋村に移住したときは、スーパーや病院が遠いことに驚きました。車や信号が少なく道が真っすぐなので、20分くらいで到着しますが、距離にすると20kmくらいあります。
慣れてしまえばあっという間です。車が運転出来れば不便はそれほど感じないと思います。自然が多く緑が豊かな西目屋村は、ゆったりとした子育てをするには最適な環境です。18歳まで医療費・保育料が無料の制度があるので、移住する子育て家庭も近年増えてきました」
今でこそ、地方移住への関心が高まっているが、恭子さんが京都府から青森市に移住したのは、1997年(平成9年)のこと。京都から青森に移住した当時は、地域性のギャップは感じたのだろうか。
「青森に移住した当初は、ただただ言葉が分からなかったです(笑)主人の実家に入ったのですが、年配の方々がお話をされているのが想像以上に分からなくて困りました。会話が聞き取れずニコニコ笑っているだけだったり(笑)2年くらいで慣れてきましたが、言葉が分からないストレスがありました。最近は、分からない言葉を使っている若い方は、全然いないですね」
地域おこし協力隊として働く大切なこと
西目屋村に移住した当初、恭子さんは、ラフティングの事業が軌道に乗るまで「地域おこし協力隊」に入り、西目屋村産業課という観光を担っている部署に所属した。地域を勉強する時間に充てていたのだという。
「地域おこし協力隊の仕事を通して、村の行事やお祭りなどのイベントに参加しました。観光協会のお手伝いや、普通では行く機会のない冬の白神山地で施設の雪降ろしをしたり、里山歩きをしているガイドさんの勉強会に参加するなどして、西目屋村の隅々まで歩かせてもらいました。そ
ういった経験から、村に対する理解を深められ、村民の人たちと出会う機会を与えてもらい、良い仕事をさせてもらったと感じております」と恭子さんは語る。
地域おこし協力隊の任期を終えた後の暮らしについて伺ったところ、「任期の3年が過ぎ、ただそのまま西目屋村に住み続けているだけで、これといって高尚な志のもとに活動しているわけではないです。カヌーの普及に関しては、まだまだ成し遂げた感がなく、もう6年も経っちゃってどうしよう!という気持ちで日々活動しています」等身大の暮らしをありのままに語ってくれた恭子さん。
「カヌー競技の普及振興」という夫婦で共通の目標を持ち、それまで縁もなかった西目屋村に移住することは、生半可な気持ちでは決断できないことだろう。
環境の変化に順応できる“適応力”を培った原体験
幼い頃に、父親の転勤でイギリスやアメリカに住んでいた経験があるという恭子さん。どちらも日本人のいない地域だったため、現地の学校に通い、兄弟と英語で会話するほどバイリンガルだったのだそう。
「今は全く英語は話せませんけどね(笑)。40年以上も昔の帰国当時は、まだ帰国子女が珍しかった。小学校では何気ない仕草や言葉の発音を「外人」とからかわれることもあったため、外国感を完全封印するように努めていました。今思うと勿体無いことをしました」と恭子さん。
環境の変化に順応できる能力は、この原体験から得たものなのだろう。
移住後の目的を明確に持つ
ご近所同士の関わり合いについて聞いたところ、毎日のように一緒に温泉に行くコミュニティがあるという。村の中にある3つの温泉には、フリーパス券を購入すると「入り放題」というサービスがあるのだとか。
「温泉で出会った人とは、まさに裸の付き合いで仲良くなりますね。銭湯に行く感覚で温泉に行けてしまう環境は、最高です」近所付き合いが希薄な都会から移住をすると、濃密な地方の人間関係に戸惑う移住者は少なくない。人口の少ない地方では、人との関わりを濃厚にすることで仲間意識を醸成し、互いに助け合う。
見慣れない人間がいれば警戒することもあるだろう。ネガティブに考えれば「閉鎖的」ではあるが、一方でセキュリティ装置になるとも言えよう。いったん人間関係を構築すれば、これほど心強いことはない。
地方における人間関係の濃さは、必要だからこそ、今も根強く残っているのだろう。とはいえ、見知らぬ土地で人脈もない中で、一体どのように人間関係を構築していけば良いのだろうか。「村に住んで地域に根づいた仕事を通して、人間関係を築いていくことが重要だと考えます。
漠然と移住をすることを考えるだけでなく、“その土地で何をしたいか”を明確に考えること”が大切です。『この地で商売・仕事をして生活していかなくてはいけない』という状態が、周囲とのコミュニケーションを密にさせていると思います。移住することだけを目的にすると孤独になってしまう可能性もあるので、自分からどうやって周りに関わっていくかが大切です。
大事なのは村の中で生きていく覚悟!これが必要だと思います。現実的なことに目を向けると、難しいことも多々あると思いますが、目的がはっきりしていれば、どこに移住してもなんとかやっていけるものなのかな、と思っています。力強い言葉で語る恭子さんの眼差しには、幾度にわたる移住を通して、多くのことを乗り越えてきた気概に満ち溢れていた。
昔からいる住民が“土”なら移住者は“風”
恭子さんのお話を伺いながら『置かれた場所で咲きなさい 著・渡辺和子』という小説が胸をよぎった。置かれたところこそが「今」の自分の居場所で、その時間の使い方はいのちの使い方。
“今”を生き、自らが咲く努力を惜しまない。運命に導かれた場所でありのままを受け入れ、身を委ね、「今」を生きること。「置かれた場所で咲く」彼女の生き方、移住への心構えは、今後移住を検討する方に示唆を与えるのではないだろうか。
「私は西目屋村が好きです。人もとても温かいです。何だかんだで50歳を過ぎ、その時々必死で乗り越えてきたけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れる単純な人間なので、呑気に暮らしています。昔からいる地元の住民が“土”なら移住者は“風”。それらがうまく混ざってその土地の“風土”となるのだから、良い風を吹かせて行こうと思います」最後に、恭子さんは微笑んでこう告げた。