移住者プロフィール
日野 寿人さん
移住時期
2013年
前住所:東京都、現住所:福岡県福岡市、職業:「日野出株式会社」常務取締役
目次
INDEX
地方創生の一手となる「事業承継」の動き
近年、高齢化に伴う労働人口の減少によって、特に地方で深刻化しているのが、事業経営における後継者不足の問題だ。
経営者の高齢化が進む中で、いかにして若い世代に経営のバトンを渡し、事業の存続・発展へとつなげられるか。それは多くの地方企業にとって喫緊の課題と言えるだろう。
そうした中で、最近、注目を集めているのが、地方移住とともに地元企業の経営を引き継ぐ「事業承継」の動きだ。今回、取材した日野寿人さんもその選択をした一人だ。
事業承継は、経営者の親族が事業を引き継ぐ「親族内承継」や、自社の従業員や社外から新たな経営者を迎える「第三者承継」などさまざまな方法がある。日野さんの場合は、その前者にあたる。
始まりは和紙問屋。明治時代から続く「日野出株式会社」
日野さんが4代目として事業承継を予定している「日野出(ひので)株式会社」は、家庭紙などの紙製品や包装資材を中心とした卸売を行う専門商社だ。創業は明治時代。創業者である曽祖父、日野出(ひの・いづる)さんの名前が社名の由来となっている。
「曽祖父はもともと、福岡県の朝倉で農業をしていました。そこでは、農作業ができない冬場に内職として和紙づくりをする家が多かったようで、曽祖父はそんな農家から和紙を買い取って販売する問屋の役目を果たしていたようです。まさにそれが、“紙の卸売”という現在の事業の原点になっています」
その後、2代目にあたる日野さんの祖父が福岡市内に事業所を移転し法人化。昭和30年代には、製造部門や工場を新たに開設するなど事業を拡大し、紙と包装資材を2つの柱とする日野出株式会社の礎を築いた。
「当時、祖父が事業を大きくできたのは、時代の流れにうまく乗れたことがあったのだと思います。その時代はちょうど、ティッシュペーパーやトイレットペーパーが普及し始めるくらいの時期だったんですよね。食品トレイなどの包装資材も、スーパーマーケットの登場とともに使われ始めるようになって。ちょうどそういう(時宜にかなった)タイミングに売り始められたのがよかったのかなと」
今では、370名の従業員を抱え、九州や中国地方に15の拠点を持つまでに事業は成長。そんな中で、日野さんの父である3代目はすでに70代を迎え、事業の引き継ぎを考える時期に差し掛かっている。
大企業を辞め、地元にUターン。家業を継ぐことを決意
1985年、福岡県福岡市生まれの日野さんは、高校卒業後に上京。大学では精密工学を専攻し、大学院まで進んだあと、24歳で東京の大手電機メーカーに就職した。家業を継ぐことについては、まったく念頭にないわけではなかったが、「いずれは継ぎたい」という意志が明確にあったわけでもなかったという。
「大学ではプログラムを書いたりするような情報寄りの研究をしていたので、そうした専門領域を活かせる仕事に就きたいと思っていました。世の中にないものを生み出す研究職も非常に魅力的ではあったんですが、大学院まで進んでみて、アカデミックな世界は自分には合わないなということがわかったので、一般企業に就職したんです」
事業を継ぐことについて、日野さんの意識が変化したのは就職して3年ほど経った頃だった。
「就職先はいわゆる大企業だったので、3年くらい経つといろいろ見えてくる部分があるんですね。例えば、40歳になったら課長になって、50歳になったら部長になって……といったキャリアプランもそうだし、仕事内容にしても何となくこんな感じかと掴めてくる。
そんなときに、帰省して父といろいろと話をする中で、自分が恵まれた環境にあることに気づいたんです。家業なので自分の采配で意思決定をしたり、会社の方向性を決めたりしていける。それは大企業にいてできることではないなと。そんなふうに思ったときに、福岡に戻ろうかなという気持ちになったんです」
2013年に27歳で福岡にUターンした日野さん。日野出株式会社に入社し、最初は大学で学んだことを活かせるシステム系の業務からスタートした。現在は、人事、財務・経理、物流部門、営業部門まで、ほぼすべての業務に関わり、事業承継に向けた準備を進めている段階だ。
「会社」を主語にすることで、判断の軸が定まった
しかし、入社した当初はやはり葛藤があった。家業であるとはいえ、27歳でいきなり入社してきた若者がいずれ事業を継ぐということを、ほかの従業員たちはどのように見ているのだろうか。そんなふうに考えると、不安は増していったという。
「でも今はもう正直、吹っ切れたというか……考え方を変えたんです。主語を“自分”から“会社”に置き換えるようにしたんですね。つまり、“自分がどう思われるか?”ではなくて、“会社がどうあるべきか?”を考えようと。その上で、自分はどんな役割を果たすべきなのかを考えるようにしたら、自ずと判断する際の軸ができて、それで多少なりとも気が楽になったんです」
現在、経営の舵取りをしているのは60代・70代が中心で、会社としても世代交代の時期を迎えている。父である社長も、日野さん個人というよりは、30代・40代の若手世代にどのように事業を引き継いでいくかを強く意識しているようだ。
「私自身は、業界のことや商品のことに関して、まだまだ勉強が及んでいないので、今も継続して勉強中です。これまで営業経験がなかったので、現場の様子や考え方が完全にはわからない部分があって……そこは今悩んでいるところなので、お客さんのところに足を運んでいろいろな話を聞くということには力を入れています」
入社して10年目を迎えようとしている今も、学び続ける姿勢を崩さない日野さん。自身の立場におごることなく、会社の将来を考えて自分にできることをやる。そうした事業との向き合い方が周囲との信頼関係を生むからこそ、事業承継の準備はスムーズに進んでいるのではないだろうか。
変えること、変えないこと。その見極めが大事
入社以来、さまざまな業務を経験し、会社を内側から観察し続けてきた日野さん。次第に、いわゆる「昭和のやり方」のような、今の時代にそぐわない業務の進め方が多いことに問題意識を持つようになったという。それを頭ごなしに否定するのではなく、長く続けてきた方針に敬意を払いながらも、変えていくべきところは変えていきたいと話す。
「オーナー企業なので、どうしても“社長が神様”みたいなところがあって、反対意見が上がりにくい構造になっています。上司にものが言いづらいような雰囲気は個人的に嫌なので、そこは今後、変えていきたいなと。ミッション・ビジョン・バリューを見直そうかという話もしていて、『我々の会社はこうあるべき』という考え方の軸を定めて、それに沿って会話がなされるようにしていきたいんです。
新入社員であっても社長に対して、おかしいことはおかしいと声をあげられる。あるいは、『もっとこうした方が面白いんじゃないですか』と意見が言える。そういう関係性をつくっていきたいなと思っています」
社員が社長にものが言いづらいのは、必ずしも、社長がワンマン経営者だからというわけではない。むしろ真面目で誠実な人柄だからこそ、社員も誠実に業務に取り組む人が多く、それが上司に対して忠実な社風につながっている部分もあるようだ。必要な変革は進めながらも、一方で、こうした会社の根幹部分は大切にしていきたいと、日野さんは話す。
「『誠実であること』はこれからも絶対に変えたくない部分です。それから、今やっている紙の卸売も基本的には続けていきたいんです。紙って安いわりにかさばるし、本当に儲からないんですけど……もともと我々は紙から始まっているので、そこはこの先も大事にしていきたいですね」
「第三の柱」となる事業展開も視野に
最近は、紙製品だけでなく、もう一つの主軸事業である包装資材への風当たりも強い。気候変動の問題から脱プラスチックの流れが加速しており、食品トレイなどプラスチックに頼らざるを得ない業界には厳しい状況だ。第三の柱とも言うべき、新たな事業展開も視野に入れているという。
「代替素材の検討などは進めていかなければと思っています。単純に商品を供給するだけでなく、ITを使うことで包装資材のロスを減らしたり、あるいは自治体と協力しながら、資源を有効活用するアイデアも探っていきたいと考えています」
例えば、今考えているのが、自治体指定のゴミ袋をレジ袋と兼用させるアイデアだという。
「ゴミ袋をそのままだと、食糧品などを入れて持ち帰るには抵抗がある人が多いと思うので、むしろ持っているとカッコいいくらいにデザインを工夫してみるだとか、それが結果的に事業として成り立って、プラスチックの排出量を抑えられたり、自治体のイメージ向上にもつながったりするのであれば、面白いんじゃないかとは思っています」
時流をとらえたアイデアは、変化に敏感な若い世代こそが起点となることで、発案につながりやすい。その意味でも、日野さんが目指す若手が自由に意見を言える環境づくりは、今後ますます重要になっていくのだろう。
福岡の魅力を再発見。卸売で「九州を盛り上げたい」
20代の大半を東京で過ごした日野さんは、一度、福岡を離れたからこそ、戻ってきたときに今まで気づかなかった地元の良さが見えてきたと話す。
「福岡は比較的、外から来る人を『いらっしゃい』と受け入れてくれる雰囲気があるような気がします。初めて会った人でも、割とすぐに仲良くなれたりだとか、地域としての一体感というか、関係の築きやすさ、人情味みたいなものを感じるようになりましたね」
利便性の面で言えば、東京との最大の違いは通勤時間。東京では満員電車で往復2~3時間かけて通勤していたが、福岡では職場まで車で10分。朝の時間に余裕ができ、会社に行く前にジムに通うなど、時間を有効活用しつつ健康的な生活を送れているそうだ。
そうした生活面での実感もあってか、福岡に戻って来てからは特に、事業を通して九州の面白さを発信し、地域を盛り上げる取り組みにも力を入れていきたいと考えるようになったという。
「地場のお客様との関係性を深めて、九州で新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。今の事業は先代が築き上げてきた基盤がしっかりとしていて、業界内の立ち位置も安定している。幸いにも、新しいことを始めやすい環境にあります。
例えば、我々が扱う包装資材の提供というかたちで九州の特産品を応援したり、ローカルな取り組みを地元企業と協同で行ったり……そうした活動は地方を元気にしていくためにすごく意義のあることだと思うので、前向きにやっていきたいです」
「物質的な豊かさ」から「精神的な豊かさ」の時代へ
日野出株式会社の企業理念は、「明日に豊かさを誠意で拓く」。
これは2代目の祖父が掲げた理念だというが、日野さん自身は今、この“豊かさ”という言葉をどのように捉えているのだろうか。
「祖父の時代の豊かさは、まさに物質的な豊かさだったと思うんです。戦後のものがない時代を経て、店に足を運べば必要な商品が揃っていることが生活の豊かさになった。だからこそ、『お客様が求めているものを我々は提供し、それに応えるんだ』という意味で、この企業理念は作られたと思うんです。
今でも、それは変わらず大事なことです。数年前のコロナショックで、トイレットペーパーが売り場から消えたことがありましたが、やっぱり、ああいったときに実感しますよね。当たり前にものがあるのは、実は当たり前じゃないんだと。
でも、これからの時代は、どちらかというと精神的な豊かさのほうにシフトしていくんだと思います。卸売というのは、機能性や効率性が求められるし、それこそが事業の強みでもあるんですが、それだけではなく、面白さ、おしゃれさ、そういった情緒的な部分を取り入れて、新たな豊かさを生み出していきたいと思っています」
Uターンしたからこそ見えてきた次なる目標
日野さんご自身にとっての“人生の豊かさ”についても伺うと、「福岡に戻って来てから、幸福度が上がっている」と話してくれた。
「東京にいた頃は、仕事がお金を稼ぐための手段になっていて、その先に何か実現したいことがあったかというと、特になかったような気がするんです。でも今は、会社の変革に加えて、外部に働きかけて福岡、さらには九州を多少なりとも良い方向へと変えていきたいという目的が明確になってきました。それによって、満たされる感覚が強くなっています」
それは結婚し、子どもが生まれたことも関係しているようだ。
「地球環境も含めて、我々の世代でこの世を終わらせるわけにはいかない」と、危機意識を滲ませて話す日野さん。
先代が築き上げてきた家業を受け継ぐように、今度は自分が、あとに続く子どもたちの世代に豊かな社会を手渡したいー。
そうした思いは、福岡に戻り、事業を継ぐ決断をしたからこそ生まれたものかもしれない。目まぐるしく変化する時代の流れに対応しきれず、長く続いた家業を畳んでしまうケースが少なくない中で、日野さんのような若い世代の事業承継の動きは一つの希望と言えるだろう。
「一度、地元を出て、別の場所を経験したからこそ、わかることもあると思います」と話す日野さん。
県外に出ることで培われた知見や経験を地元に持ち帰り、事業を引き継ぐ中でさらに磨きをかけ、育てていく。
それが事業の成長へとつながる好循環が生まれれば、企業が地方を盛り上げる活力にもなっていくはずだ。