移住者プロフィール
藤織ジュンさん
利用した支援制度
地域おこし協力隊
職業:合同会社プロダクション未知カンパニー代表。久慈市移住コーディネーター
目次
INDEX
舞台公演で初めて訪れた久慈市
小学生の頃、学芸会で芝居を褒められたことや、演劇好き
な担任教師の影響で、演技に興味を持つようになった藤織さん。マンガやアニメが好きで声優の仕事にも憧れていた。
「あまり得意なことがなかったので、演技を褒められたことがすごく嬉しくて」と当時を振り返る。
中学生になると学外に演劇サークルを作り、週末に仲間と集まって演劇の練習をしたり、社会人が参加するアマチュア劇団に顔を出したりもした。高校時代には、ウェブ番組のオーディションに合格し、声優としての一歩を踏み出す。
その後、舞台俳優やナレーターとしての活動を本格化させたが、第一線で活躍するのは簡単ではなかった。22歳を迎えても大きな成功は掴めず、アルバイトと掛け持ちして生計を立てる日々が続いた。
そんな中、舞台公演に出演するために訪れたのが岩手県久慈市だった。
役者として大成するのは難しいだろう――。そんな静かな諦めを抱えながら、移動中のマイクロバスの車内で見ていたのは、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」。久慈市はその舞台となったまちである。ドラマのなかで「北三陸駅」として登場する久慈駅の風景を実際に目にした時は、「ああ、そのままだ」と感動したという。
「北限の海女PR隊」に応募
本来であれば久慈市は、数日間の滞在場所として藤織さんの人生を通り過ぎていくワンシーンに過ぎなかったかもしれない。そうならなかったのは、偶然目にした一枚のポスターがきっかけだった。
次の公演先である八戸に移動するまで一日余裕があった藤織さんは、観光のために久慈市内を散策していた。その時、久慈市観光物産協会が募集する「北限の海女PR隊」のポスターを目にしたのだった。
このPR隊は、海女として3ヶ月間活動しながら久慈市の観光をPRするというもの。「応募してみたら?」と冗談半分に先輩から勧められ、その場では笑って受け流したものの、なんとなく気になりポスターの写真を撮影しておいた。そして、時間が経つにつれて「良い選択なのかもしれない」と気持ちが傾いていったという。
そんな折、東京で予定されていた舞台が中止になり、突然、予定が空いてしまう。
「これまでのように東京でアルバイトをしながらオーディションを受けるという方法もありましたが、役者としての限界を感じ始めていたし、このまま実家暮らしを続けることにも迷いがありました。誰も知り合いがいない土地で一人で生活すれば、何か新しい気づきや変化が生まれるんじゃないか。そんな思いから応募することにしたんです」
観光海女として初めての素潜りに挑戦
こうして2015年7月、「北限の海女PR隊」に就任した藤織さんは、観光海女として海に潜るようになる。それはまったく未知の経験だった。
北限の海女は、久慈市の小袖海岸で活躍する海女たちの総称だ。沖合は世界三大漁場の一つに数えられ、磯には良質な海藻が育ち、ウニやアワビなど高級食材の宝庫となっている。そんな北三陸の海に初めて潜ったときは、想像以上の冷たさに驚き、一瞬、心がくじけそうになったと話す。
「最近は、海水温がかなり上がっているのですが、当時の7月初めの水温は12~15℃くらい。足を入れた瞬間に無理かも......と思いました。でも、意地で潜ってウニを3つ獲りました。本当はもっと獲っていたはずだったんですが、潜っている最中に腰につけた網(ヤツカリ)から零れ落ちてしまったみたいです」
慣れてくると、潜水で10メートルほどの深さまで潜れるようになり、素潜りの面白さに気づいていった。
「潜っている最中は何も考えなくていいので楽しいです。海から出て息を大きく吸い込むと、空気が一気に体に流れ込んできて、脳が活性化される感覚があって、やみつきになりました。今も、夏になると海に潜りたいと思いますね」
3か月の活動期間中は、こうした観光海女としての実演に加え、さまざまな観光地に足を運びSNSでの発信も行った。そして、任期が終わったとき、「もう少しここにいたい」という気持ちになったという。
「久慈の秋や冬がどんな感じなのかにも興味がありました。定住を考えたわけではなくて、もう少し延長できないかなくらいの気持ちでしたね」
観光PRの地域おこし協力隊に就任
そんな思いを地域の人たちに伝えると、勧められたのが地域おこし協力隊だった。役所の人から観光分野の協力隊の情報を教えてもらい、協力隊へ応募、採用され、就任が決まった。
地域おこし協力隊では、観光PRの任務につき、SNSでの発信やイベントの企画運営など、久慈を広く知ってもらうためのさまざまな取り組みを行った。三陸鉄道を貸し切りにし、久慈市に人を呼び込むイベントを開催したりもした。
当初は、東京出身者として外からの目線で観光地の感想などを発信していたが、活動を続けるうちに、久慈市の“中の人”としてその魅力を語れるようになっていく。東京など都市部で開催されるイベントに足を運び、情報発信する機会も増えていった。
藤織さんには、こうした活動を通じて気づいたことがあるという。それは「役者として自分をPRするよりも、地域をPRするほうが向いている」ということ。
「自分の良さって見つけにくいけど、地域の良いところは気づきやすいんだなというのは発見でした。それは、役者をしていたとき、その世界であまり必要とされている感じがしなかったこととも関係しているのかもしれません。オーディションを受けても何回も落ちるし、私じゃなくても良いんだなって。でも、久慈に来てからは、私を指名して『この仕事をお願いしたい』と頼まれることが増えました。必要とされていることが何よりも嬉しかったです」
見えてきた課題。海女の文化を次世代につなぐために
地域に深く入り込んで活動し始めたことで見えてきた課題もある。そのひとつが「北限の海女」の存続の問題だ。
小袖地区では、女性の漁が解禁される「女のウニの口開け」が年に2回ほどしかなく、海女だけで生計をたてることは難しい。また、漁業権を持つ「家」の中で一人しか海女になれないというしきたりが、子どもや孫への継承を困難にしている現状もある。現在、「北限の海女」の数は10人を切るともいわれている。
「これはあくまで個人的な考えですが」と前置きしながら、藤織さんは次のように話す。
「昔ながらの漁法を今に伝える海女さんには文化的価値があり、久慈ならではの伝統を次世代につなげることには大きな意義があります。一方で、経済的な視点で見ると、利益を生みにくい伝統を維持するのは現実的ではないという意見もある。ふたつを両立させる解決策が見つからず、ゆっくりと衰退していくのを見守っているのが現状ではないかと感じます。
例えば、各家庭に海女一人というルールを変えたり、私のような漁業権のない人も女のウニの口開けに参加できるような仕組みをつくることが、問題解決の糸口になるのではと考えています」
「アマ社長」として会社を立ち上げ
地域おこし協力隊として3年の任期を終えたあと、藤織さんは「合同会社プロダクション未知カンパニー」を立ち上げ、久慈に残る決断をした。
「東京に帰ることも考えましたが、自分の思い描くビジョンとは何だか違うような気がして。協力隊を卒業後に自治体から交付される起業の助成金を利用して、自力で頑張ってみることにしました。東京に戻るよりも、その方が現実的な選択であるような気がしたんです」
起業した藤織さんが自らにつけたキャッチフレーズは、「なんのプロでもない。だから何にでも挑戦できる”アマ社長”」。現在は観光PRだけでなく、移住コーディネーターとしての仕事にも力を入れている。
「久慈市の人口は減り続けています。市内に専門学校や大学がないので、高校卒業後に市外に出て、そのまま戻ってこないケースが多いんです」
久慈市に興味を持ち、藤織さんのもとに話を聞きに来る若者は少しずつ増えてきているという。彼らが久慈に興味を持つ理由はさまざまだ。
「例えば、久慈では短角牛と呼ばれる希少な和牛の飼育をしていて、畜産の方法を学びたいと相談に来られた方もいました」
「べっぴんの湯」という温泉で知られる山根地区にも注目が集まっているという。
「高齢化が進んだ小さな集落なのですが、自然が豊かで昔ながらの郷土料理が残っている、田舎の良いところが詰まった場所です。実際、酪農業をしながら、キャンプなどのイベントを開催している移住者の方もいて、新たなムーブメントの兆しも現れ始めています」
また、デザイナーなどの人材が少ない久慈では、そうした知見を持った存在はとても重宝され、さまざまな依頼が舞い込むこともあるという。都会で競合がひしめくなかで仕事するよりも挑戦しやすい環境があるといえるかもしれない。
これからも周りから必要とされる仕事がしたい
会社を立ち上げて約6年が過ぎた。藤織さんは今後も移住者の相談窓口となり、久慈での多様な働き方を支援していきたいと考えている。
先輩移住者として、地方移住を含め、今後の生き方に迷っている人たちには、「やりたいことを一つに絞る必要はない」とアドバイスを送る。
「私は演技を褒められて役者の道を歩み始めましたが、その頃、私の人生に『観光』とか『海女』なんてキーワードは全く想像できませんでした。世の中には自分が知らない仕事が無数にある。だからこそ、やりたいことを一つに決めて他の可能性を排除するのはもったいないと思います」
続けて、「何年後かには私も、今は思いもしないような仕事をしているかもしれません(笑)」と笑う。それでも、ひとつ確かに言えることは、「これからも周りの人から必要とされる仕事がしたい」ということ。
「私は承認欲求が強いので、人に喜んでもらったり、認めてもらえたりすることが一番のモチベーションになるんです。そういう意味で、地方での生活は向いていたのかもしれません。地方には人手不足の場所が多いし、後継者がいなくて困っている飲食店や伝統産業もあり、必要とされる仕事がたくさんありますから」
自分の良さをアピールし、それを社会から認めてもらうことは、時にとても難しいものだ。役者時代の藤織さんのように、そのことでモヤモヤとした気持ちを抱える人も少なくないだろう。そんな時には、視点を変え、自分自身から一歩離れて、周囲の人や環境が求めるものに自分を寄せるのも一つの方法なのだろう。
そうすることでいつの間にか、少し息がしやすくなっていることに気づくこともあるかもしれない。