移住者プロフィール
田中瑞穂さん
利用した支援制度
地域おこし協力隊
出身地:、前住所:、現住所:、職業:福島県玉川村の地域おこし協力隊
「ヤングケアラー」だった少年期。朝夕の新聞配達をこなす、孤独な日々
熊本県の山間部で生まれ育った田中さんは、両親ともに体が弱く、そのケアを一身に引き受ける「ヤングケアラー」だった。
父親は大正14年の生まれで、戦争に出征した世代。戦地で受けた外傷のため満足に働けないことが悔しいと嘆くことがあった。母親も戦時下の食糧難の中で栄養失調に苦しみ、戦後も健康を取り戻すことはなかった。
「戦争さえなければ……」
どこにも向けることのできない怒りを抱えたまま、孤独な少年時代を過ごした田中さん。中学生になると、満足に働くことのできない両親に代わり、朝夕2回の新聞配達の仕事を毎日のようにこなした。
「朝4時に起きて新聞を配り、学校が終わるとまた新聞を配る。友だちと遊ぶことなんてできませんでした。
中学時代は、本当につらかったですね。だって、中学の授業は、高校受験を大前提として進んでいくんです。『高校受験に向けた勉強が大事』などと言われても困ってしまいます。自分はそもそもお金がなくて、行くことすらできないんですから」
子ども一人では到底解決できない問題を抱えているのに、周囲に相談できる大人もいなければ、手を差し伸べようとしてくれる人も現れなかった。
「全てを自分一人で判断するしかありませんでした」
同級生より一年遅れて通信制高校に入学。アルバイトをしながら勉強し、ようやく卒業する頃には20歳を迎えようとしていた。
人一倍の努力で得たパラリーガルの仕事。青梅市の市議会議員も経験
卒業後も、安定した職に就くことは難しかった。親の入院先から急に呼び出しの連絡がくることもあり、アルバイトとして働き続けるしかなかったのだ。
「同級生がいろいろな選択肢を持って進路を切り拓いている姿が羨ましかった」と話す田中さん。
しかし、羨ましがってるだけでは道は開けない。「誰よりも努力して多様な経験をしてやろう」と気持ちを切り替え、20代後半で本格的に就職活動を始める。とはいえ、それは、前向きな気持ちの変化というより、「このままではいけない」という恐怖心に突き動かされての行動だったという。
それでもなお、待ち受けていたのは過酷な現実だった。どこに応募しても、学歴や職歴で判断され、相手にしてもらえない。ようやく、東京の法律事務所で、大卒者が多くを占めるパラリーガルの職を得たのは、就活を始めて3年後の29歳の時だった。
「その法律事務所で頑張って13年間働きました。周りはほとんどが法学部卒だったり、裕福な家庭の人たちで、こういう言い方は正しいのかわかりませんが、頭が良いんです。一方、こちらは本来、大学で時間をかけて学ぶようなことを学んでいないし、法律自体も頻繁に変わるので覚えることが多い。仕事が終わってから家で勉強する13年間でした」
最終的には、「それに持ちこたえられずに辞めた」と言うが、専門的な勉強に独学で時間を割きながら13年間も働き続けるということは、並大抵の努力ではできないことだっただろう。
田中さんが次に挑戦したのは、青梅市の市議会議員だった。法律事務所で自分と似た境遇のヤングケアラーが苦しんでいる少年事件や家事事件の記録を見るにつけ、「このまま黙って見ているだけでいいのか」という気持ちが強くなり、出馬を決めたのだという。ダメで元々の挑戦だったが見事に当選。2期8年にわたって市議会議員を務め、ヤングケアラーや困難を抱える子どもたちの支援に取り組んだ。
都会に疲れ、目が向いた「田舎暮らし」。桜川市の協力隊に着任へ
実は、田中さんがパラリーガルの職で東京という場所を選んだのは、「田舎から出て、都会で一旗あげたい」という密かな野心があったからだった。しかし、東京の人の多さやそこに渦巻く理不尽な出来事に疲弊することも少なくなく、田中さんの目は、再び、地方へと向くようになる。
市議会議員を8年間務め、「一旗あげることができた」と思えたことも、東京での活動に一区切りつける気持ちを後押しした。
「田舎に行こう」
だが、子どもの頃の記憶や苦労が染み付いた、しがらみの多い熊本に帰ろうという気持ちにはどうしてもなれなかった。そんな時、田中さんの趣味であるアニメやドラマの聖地巡礼で訪れた茨城県で、たまたま辿り着いた先が桜川市だった。
「茨城の大洗など有名どころを周っているうちにすっかり疲れてしまって......その日の宿泊先が見つからず困っている時に声をかけてくれたのが、桜川市役所の方でした。『キャンプ場で良ければ、申し込みの時間は過ぎているけれど、泊まっていいですよ』と。そんな風に親切にしてくれたことが嬉しくて、桜川市に住みたいという気持ちになり、地域おこし協力隊に応募しました」
協力隊の着任に先立ち、田中さんは自ら狩猟免許を取得した。観光地の駐車場がイノシシに掘り返されるなど、有害鳥獣による大きな被害に苦しんでいる桜川市の実情を知ったからだ。そんな田中さんは桜川市の「救世主」として大いに歓迎されたという。
しかし、任期中にコロナ禍に見舞われ、活動は大きく制限されることになった。3年間の任期を満了し、地域の人との関わりを深めることもできたものの、「やり遂げた」という達成感を得るまでには至らなかった。
再チャレンジの舞台は福島県玉川村。協力隊を大切にする姿勢が決め手に
そこで、再度挑戦したのが、福島県玉川村の地域おこし協力隊だった。
玉川村は福島県の中通りに位置し、空の玄関口である「福島空港」や陸の玄関口である「あぶくま高原道路」を有するなど、交通の便に恵まれている。福島空港は、ドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」の舞台となった場所で、このドラマのファンである田中さんは、聖地巡礼として何度も福島空港を訪れていた。
そんな玉川村が地域おこし協力隊を募集していることを知り、「ここに行くしかない」と迷わず応募した。選考を受ける過程で、協力隊を大切にする村の姿勢を実感したことも、移住の大きな決め手になったという。
「玉川村の協力隊は、村長や教育長が面接官を務めます。これまで、色々な自治体の面接を受けましたが、首長が自ら面接をする自治体は少ないと思います。応募者に敬意をもって接しているということですよね。こんなにも自分のことを大切に思ってくれる人たちがいる。そう感じることができたのは決定的でした」
こうして、2023年2月に玉川村に移住し、「移住コーディネーター」として地域おこし協力隊の活動を開始。村の人が自分を温かく迎え入れてくれたように、玉川村を見学に訪れる人を大切に受け入れ、もてなしたいという気持ちで移住相談に応じている。
「例えば、お試し住宅『たまかわくらし体験住宅』は、1泊1,000円/組でご利用いただけます。まずは、気軽に玉川村の生活を体験していただくと同時に、地域おこし協力隊に興味がある方に向けては、現在、16人ほどいる隊員がどんな活動をしているのかといったことについて、丁寧に時間をかけてご説明しています」
すっかり地域に馴染み、玉川村の人になっている田中さん。現在は、2024年5⽉にオープンした、⽟川村の関係⼈⼝創出や移住者サポートなどを担う「たまかわくらしサポートセンター」の運営に携わっており、移住だけでなく、住まいや仕事、日常生活、コミュニティなどに関する幅広い情報提供や相談に対応している。
県民リポーターとして村の魅力を発信
メディアにも積極的に出演し、地域おこし協力隊の活動や玉川村の魅力を発信している。
さらに、自身がカメラマンとして撮影を務めることもあるという。これは、KFB福島放送が募集している「県民リポーター」としての活動で、県民リポーターが撮影した動画を投稿すると、番組で取り上げられる仕組みだ。
「玉川村の人は奥ゆかしい人が多いので、『自分で撮影したりテレビ局の人と交渉したりはできないから、私たちががんばっているイベントの様子を撮影してほしい!』といった依頼を受けることがよくあります。放送を見た人から『田中さんの村の紹介に愛を感じた』と言われた時は、嬉しかったですね」
本記事に向けても、玉川村の魅力を紹介していただいた。
まず、夏場におすすめなのが「東野の清流」。標高500m以上の高地に位置する清涼スポットで、田中さんはここに行き、好きな漫画を読みながら過ごす時間が幸せなのだという。
また、秋口には玉川村が生産量日本一を誇る「さるなし」の摘み取り体験も楽しめる。「さるなし」はキウイフルーツの原種で「コクワ」とも呼ばれる。収穫期には、県外からも多くの人が訪れ、特に子どもたちに大人気だという。
「このさるなしの摘み取り体験ができるということは、山から下りてくるイノシシなどの有害鳥獣による被害が少ないということでもあります。これも、玉川村の地域的な特徴のひとつです」
狩猟免許を持つハンターとして、有害鳥獣の問題は、「田舎暮らし」を考える上で避けて通れない問題だと田中さんは続けて強調する。
「命に関わることですから。特に家庭菜園をやりたい人は、移住候補地の獣害の実態を詳しく調べてから決断してください。被害の大きい地域では、金属製の囲いを立てるなどしても荒らされてしまうことがあります。実際、こんなはずじゃなかったと心が折れて都会に戻っていく人もいます。田舎で暮らす上で、知っておくべき実情といえるでしょう」
着ぐるみを着て、子どもたちと触れ合う。あの頃とは違う「朝から晩まで楽しくて仕方ない」毎日
青梅市で市議会議員をしていたときは、小学校などに「ご来賓」として呼ばれ、子どもたちとの距離は遠かった。地域おこし協力隊になってからは、その距離がぐっと縮まった。
それには、田中さんが考えたオリジナルの着ぐるみ「ミッケ」の存在も大きい。桜川市で協力隊をしていた頃につくったものだが、それ以前から、着ぐるみに対しては特別な想いを持っていたという。
「僕は、絶望の中にいた10代の頃、着ぐるみを着るアルバイトをしていたことがあるんです。着ぐるみを見つけると、子どもたちは一目散に駆け寄ってきますが、中には途中で転んでしまう子どももいます。そんな子も、膝から血を流しながらそれでも涙をこらえて、着ぐるみのもとまでやってくるんです。『この可愛い動物と一緒に遊びたい』『泣いたりしたらカッコ悪い』と思うのかもしれません。そんな姿が非常にいじらしく、着ぐるみというのは子どもたちに大きな勇気を与えているのだと思うようになりました」
玉川村のイベントの際も、田中さんはなるべくミッケの着ぐるみを着て登場し、子どもたちとの触れ合いを大切にしている。
「真夏の暑さの中でも、ほんのわずかな時間でも、着るようにしています。ミッケが登場すると、すぐに子どもたちや親御さんまで集まってきて、写真撮影が始まります。そうなると、もう動けないです(笑)。30分くらい同じポーズで立っていたこともあります」
玉川村で地域おこし協力隊として働き始めて2年目。「朝から晩まで楽しくて仕方がない」と田中さんは頬を緩める。
「こんな仕事、他にないんじゃないでしょうか。みんな好意的に見てくれるし、励ましの言葉をかけてくれます。だから、辛いことがあっても、いや、あまりないですけど、すぐに元気になれるんです」
辛いことはあまりない―――。
そんな言葉の遠景に、朝夕の新聞配達に走り回るまだあどけない少年の姿を想像してみる。あるいは、着ぐるみに身を包んでアルバイトをしていた孤独な青年の姿を。彼らが今の田中さんを見たら、どんなふうに感じるのだろう。
「自分には選択肢がありませんでした。あの頃、何より必要だったのは相談できる大人の存在です。ヤングケアラーや貧困、虐待などで、同じように苦しんでいる子どもたちはたくさんいます。自分はそんな子どもたちが安心して相談できる存在でありたい。そして、悲観しないでほしいと伝えたいです。
選択肢がなくても、こんなにいろいろなことを体験できたよ、と」