移住者プロフィール
波田 陽区さん
出身地:山口県下関市、居住地:福岡県福岡市、職業:芸人
目次
INDEX
- 夢は「テレビの中の人」。皆を楽しませることが大好きなクラスの人気者!
- "陰キャ""二軍"の「嫉妬人生」の到来は突然にー。
- 燻り続ける、「夢」と「モテ人生」への想いー。
- 夢を追い求め、上京。遠距離恋愛で育まれた絆。
- 「拙者、ギター侍じゃ・・・」ついに降臨!
- それでも「お笑いが好き」
- 苦境を支えてくれたのは、「家族」の存在。
- 40才の節目の年に、福岡県への移住を決意ー。
- 「僕ってね、昔から人に恵まれていて、本当にラッキーなんです」
- 『波田陽区』という一人の"芸人"、そして一人の"人間"として接してくれることの心地よさ
- 目の前の仕事一つひとつに感謝し、その感謝を積み上げていきたいー。
- 10年後の自分の姿も、ここ福岡にありたいー。
- 人生をどうにかしたいと苦しんでいるのなら、移住することもひとつー。
夢は「テレビの中の人」。皆を楽しませることが大好きなクラスの人気者!
「僕の人生って、人に恵まれ、人に助けられてきた人生なんですよ」
そう語るのは、2004年に『エンタの神様』に初登場し、エッジのきいたネタを披露するや、瞬く間に大ブレイクを果たした、"ギター侍”こと波田陽区さん。
着流し姿に構えたギターで独特のリズムを刻み、「~ですからぁ!」「残念!」と、有名人をズバズバと斬りまくるー。
「~斬りっ!」と、容赦なくぶった斬るも、最後は「切腹!」で自分自身も斬ってしまうあたりに、どこかブラックになりきれない彼の人の好さを感じ、心を掴まれた人も多かったのではないだろうか。
のちに、独特の世界観で一時代を築くことになる波田陽区さんは1975年、3人兄弟の末っ子として、山口県下関市に生を受けた。
家族の中でもムードメーカー的存在だったという波田少年は、『オレたちひょうきん族』のビートたけしさんや明石家さんまさんに憧れを抱くようになり、小学校当時から「テレビの中の人になりたい」と思っていたという。
皆を楽しませることが大好きな愛嬌たっぷりの少年は、当然クラスの人気者で、「人生で唯一、女子とまともに交流できていた時代でしたね」と、小学校当時を振り返った。
"陰キャ""二軍"の「嫉妬人生」の到来は突然にー。
突如として雲行きが怪しくなったのは中学生の頃で、ご本人いわく、"陰キャ""二軍"の嫉妬人生が幕を開けたのだという。
「中学校に入ったら、小学校時代のモテ条件だった"足が速い"とか"面白い"とかが通用しなくなって、イケメン万歳!といった具合に、女子がころっと変わったんですよ。クラスの真ん中にいたはずなのに、だんだん端っこに追いやられ、嫉妬人生がスタートしました(笑)」
先輩に誘われ成り行きで入ったバトミントン部では、全国大会ベスト16という輝かしい成績を残すも、サッカー部や野球部の"爽やか一軍"の陰に隠れ、嫉妬人生の風向きはちっとも変わらなかったという。
"バドミントンで頂点を目指すことは難しい"と考えた波田さんは、地元の普通校に進学。"モテ人生"に転じるどころか、モテない"末期"を迎えた高校時代だったというが、幼き頃より憧れた「芸人」への想いが高まりを見せたのも、この頃だったという。
本格的に芸人の道を目指すべく、高校卒業後は来阪することを決意するも、学歴社会の前に辛酸をなめてきた父からの猛反対をうけることに。
来阪を押し通すことも考えたというが、「息子3人を大学に行かせるのがお父さんの夢だから、それだけは聞いてあげて」と、ポツリと呟いた母の言葉に心を動かされ、熊本の大学へと進学した。
燻り続ける、「夢」と「モテ人生」への想いー。
同じ大学に進学したかねてからの友人と『テンポイント』というコンビを結成し、文化祭でコントを披露するなど、燻り続ける夢への想いを必死で消化しようとしていたという波田さん。
同じく燻り続けるは、"モテ人生への憧れ"もであったといい、「とにかくモテるためにはなんでもやろう」と、弾いたこともないアコースティックギターを片手に、当時の人気歌手の見よう見まねで路上ライブも行っていたという。
このアコースティックギターこそ、共に上京し、のちの"ギター侍"の相棒となるギターである。
時を同じくして、波田さんにとって「人生最良の出会いの日」が訪れる。
大学の文化祭でアメリカンドッグを売っていた時のこと。
グループで来ていた、短大を卒業したての女性に目が止まり、友人と共に後日食事会の約束を取り付けることに成功。その女性がどうやら、"グループの端っこ的なポジションを好きになりがちらしい"という情報に背中を押され、勇気を出してアタックしたところ、見事に成就。その後も、彼女との縁を順調に育んでいくことになるー。
夢を追い求め、上京。遠距離恋愛で育まれた絆。
気が付けば、卒業後の進路を決めるべき時期に差し掛かっていたが、「芸人になりたい」という、彼の夢が変わることはなかった。
大学卒業後すぐに上京し、年2.3回しか会えない遠距離恋愛がスタート。
金欠で熊本に帰れない波田さんに代わり、交通費がたまる都度、彼女が東京まで会いに来てくれる形で、交際は続いたという。
6畳一間の極貧生活を送りながらも腐ることがなかったのは、彼女の存在が大きかったことだろう。
「熊本の中でも田舎の出身であることも関係しているのか、当時からものすごく辛抱強い人ですね」
と語るその女性こそ、現在の奥様であるー。
「奥さんも、ギターも、大学時代に全て出会ったので、今となっては、大学に行かせてくれた親父と母ちゃんには感謝しかないですね」
と、ご両親への感謝の言葉も忘れなかった。
「拙者、ギター侍じゃ・・・」ついに降臨!
上京したはいいものの、鳴かず飛ばずの数年があっという間に過ぎようとしていた。
"ガングロ"や"ギャル"がブームだった当時、じゃらじゃらした携帯ストラップをこぞってつけ、路上にたむろする若者たちの姿を見て、20代の彼は、世間に対する"モヤモヤ"を抱くようになったという。
その感情にどこか"懐かしさ"を感じたという彼は、その"正体"が、中学校時代から培ってきた"嫉妬心"であることに気が付く。
自身を形成してきた「嫉妬心」にも、そろそろ日の目を見せてやろうではないかと、大学時代から愛用してきたギターを"刀"代わりに、歌に合わせて世間を斬る!というネタを作ることに。
こうして降臨したのが、ご存じ、"ギター侍"である。
その後、2004年の『エンタの神様』への出演を機に大ブレイクし、"ギター侍"ブームが到来することは、皆の知るところである。
それでも「お笑いが好き」
"ギター侍"人気に陰りが見えて以降、舞い込む仕事と言えば"一発屋"としての仕事という苦しい日々が続くも、「お笑いが好き」という気持ちは少しも陰ることはなく、芸人以外の道を歩む考えは浮かばなかったという。
「"一発屋"なんていうのは単なる言い訳なんです。単に自分に実力がなくて、次のネタを生み出せなかっただけだったことは、自分が一番わかっていましたから。
それでも、『お笑いが好き』なんですよ。
滑ることの方が多いですけど、たまにウケたら気持ちいい。その"高揚感"が忘れられなかったんでしょうね。
とか言いながら、寝ている子どもの耳元で『できれば公務員になってくれ』なんて、ささやいてますけどね(笑)」
と、ユーモラスに語った。
苦境を支えてくれたのは、「家族」の存在。
再起の道を模索するも、なかなか仕事に繋がらない日々はその後も続いた。
「家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。何かしら仕事に繋がれば」との想いから、無理矢理家庭菜園を始めるも、当然興味など持てるはずもない。
ただただ時間だけが過ぎていく日々に焦りと虚しさを感じ、やがて家にひきこもることが増えていったという。
そんな中でも、心の支えになっていたのは、やはり"家族"の存在だった。
毎日家にいる彼を少しも咎めることなく、何も言わずに見守ってくれた奥様と、我が子の成長だけが、波田さんの心にあかりを灯してくれていたという。
「僕が一発屋になって何も仕事がなくなった時、おそらく親戚や友達からも、色々と言われたとは思うんです。でも、そういうことを僕には一切言ってこないですから。それは結婚前からずっと変わらないですね。
出会った頃は、だいぶゆったりとした口調だったのが、今は機関銃のようにすごいスピードで話すので、口調はだいぶ変わりましたけど(笑)」
と、照れ隠しをしながら、奥様への感謝の気持ちを吐露した。
40才の節目の年に、福岡県への移住を決意ー。
自身が40才という節目の年を迎えたタイミングと、息子さんが小学校にあがるタイミングが重なった2016年。
「このタイミングを逃したら後がない。人生のラストチャンスと思い、もう一度一から頑張ろう」
と、彼の故郷・山口県と、奥様の故郷・熊本県のちょうど"中間地点"にあたる、「福岡県」への移住を決意。奥様に相談したところ、2つ返事であっさりOK。
家族ぐるみで懇意にしていただいているという、師匠・間寛平さんの後押しもあり、2016年4月、ご家族で福岡県福岡市に移住をした。
「僕ってね、昔から人に恵まれていて、本当にラッキーなんです」
心機一転、福岡市へと移住したものの、当初は当然仕事などなかった。
マネージャーの山下さんと、事務所の後輩芸人であるイモトアヤコさんのご尽力により、海外用ポケットサイズWiFiルーターのレンタルサービスを展開している『イモトのWiFi』の宣伝部長として、週5回、福岡空港でアルバイトする日々を送っていたという。
福岡県で活躍の場を広げるべくアクションを起こそうとしているさなか、思いもよらぬ形で、チャンスが訪れるー。
波田さんが移住した2016年といえば、リオオリンピックが開催され、オリンピアンの活躍に日本中が沸いた年だ。
日本男子卓球界の個人種目で初となる銅メダル、団体でも銀メダルを獲得し、一躍"時の人"となった卓球の水谷隼選手の活躍が、連日ニュースで報じられると、「波田陽区に似ている!」と、途端に話題になり、モノマネの仕事のオファーで、事務所の電話が鳴りやまない事態に。
彼いわく「人の"ふんどし"ならぬ、人の"ラケット"を借りる」形で到来した再ブームを皮切りに、持ち前のトーク力を活かし、その後、活躍の場をどんどんと展開していくことになる。
「僕ってね、本当にラッキーなんです。昔から人に恵まれていて、人に助けられてここまで来ていますから」
と、波田さん。
"運も実力のうち"というが、背伸びしない等身大の波田さんの人柄に、思わず手を差し伸べたくなる魅力があるのだろう。
『波田陽区』という一人の"芸人"、そして一人の"人間"として接してくれることの心地よさ
現在は、外に出る機会も増え、ジョギングや、息子さんの友人家族とキャンプを楽しむなど、福岡での暮らしを満喫しているのだとか。
移住前後で、彼の心に"変化"をもたらした理由とは、なんだったのだろうか。
「福岡は、本当にあたたかい人が多いんです。元々商人の町だったことが関係しているのか、人を迎え入れる"おもてなし"の気質がある方がとても多いですね。
今、ラジオで福岡の60市町村を回っているんですけど、農家の方を取材させていただいた時には、『奥さんと子どもに食べさせてあげり!』って、山盛りの野菜を持たせてくれたんですよ。飲みに行っても、『頑張れよ!』って、つまみを一品出してくれたり。
福岡に来て4月で8年目を迎えましたが、いまだに心配してくれてるんですよね。僕の貧相な顔がそうさせるのかもしれませんけど(笑)。
福岡では、"一発屋"でもなく、『波田陽区』という一人の芸人、そして一人の人間として接してもらえるんです。
それがとてもありがたくて、心地よいですね」
目の前の仕事一つひとつに感謝し、その感謝を積み上げていきたいー。
多岐に渡る活躍をみせる波田さんに、"これから挑戦したいこと"を尋ねたところ、「全然活躍はしてませんからね」と明るく笑った後、こう続けた。
「今47才で、子どもが中学校1年生ですから、最低でも子どもが大学に行くまではなんとか頑張っていきたいですね。
事務所にもう僕の人生を預けるしかないんですけど(笑)。
卑下している訳ではなく、自分の実力は自分が一番わかっているつもりです。だからこそ、僕ができる仕事一つひとつに感謝し、その気持ちをずっと忘れずにやっていきたいです。
その積み重ねを、10年続けることができたらありがたいですね」
10年後の自分の姿も、ここ福岡にありたいー。
「ギター侍で一世を風靡していた頃と現在では、どちらが幸せですか」と、ストレートな質問を投げかけたところ、気持ちの変遷を辿るように空(くう)を見つめた後、「僕の心のありようとしては『今』ですね」と、丁寧に言葉を紡ぎ始めた。
「ギター侍で世に知られた頃に感じた"高揚感"にも、もちろん幸せを感じていました。でも、夢物語は一瞬で終わり、その"高揚感"は、徐々に周りが離れて行く"恐怖感"にあっという間に取って代わられました。
その時代を知っているからこそ、住み心地のいい福岡で、優しい人に囲まれ、細々ながらも家族皆で暮らせている『今』に、とても"幸せ"を感じています」
10年後の自身の姿を思い浮かべた時、その姿は福岡にあると思いますか"と尋ねると
「ありたい。あってほしいと願っています」と、力を込めた。
「福岡でレギュラー番組を持つなんて高望みはしません(笑)。10年後も現状維持で十分でございますので、福岡で頑張っていたいですね。
今この瞬間も、お仕事をいただけている自分は、本当に幸せです」
と、福岡への想いをまっすぐに届けてくれた。
人生をどうにかしたいと苦しんでいるのなら、移住することもひとつー。
移住を検討している方にメッセージをお願いすると、
「僕の場合はたまたま福岡の水が合っていたというだけなので、移住が100%正解とは言えませんが」
と、"移住者の数だけ移住のケースが存在する"ことに配慮した上で、自身の考えを語ってくれた。
「もし今、人生に思い悩んで苦しんでいるとか、人生をどうにかしたいと思っているのなら、"まず移住をしてみるのも、ひとつの手"だと思います。
もし合っていたら住めばいいし、嫌だったらまた戻ればいい。
"人生のきっかけの1つになるかもしれない"という気持ちで考えるのなら、移住は"アリ"だと思いますね」
「カッコつけてる訳ではなく、今となっては"一発屋でよかった"とさえ思ってます。仕事をいただけるありがたみに気がつくことができましたから」
と語り、人への"感謝"の言葉を繰り返し紡ぐ姿が印象的だった、波田陽区さん。
「人に恵まれている」としきりに彼は言うが、"人こそ人の鏡"という言葉通り、素敵な人を引き寄せるのは、彼自身もまた素敵な人だからなのだろう。
"感情の振れ幅をどれだけ感じられるか"に人生の歓びがあるとするならば、通常では感じえない"高揚感"と、その後に訪れた"どん底"の両者の「振れ幅」を知っている彼は、かけがえのない財産を手にしたと言えるのかもしれない。
波田陽区さんの益々のご活躍を、応援しています!