移住者プロフィール
佐藤 文子さん
利用した支援制度
移住支援制度
出身地:秋田県、前住所:千葉県、東京都、現住所:岡山県倉敷市
目次
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東京に憧れ、都会で働くことを夢見た子ども時代
1992年に秋田県で生まれ、千葉県で育った佐藤文子さん。住んでいたのは、千葉県西部のベッドタウンで、少し足を伸ばせば東京に出られる立地。幼い頃から東京の楽しさを間近に感じながら育ち、東京に対してはひとかたならぬ憧れを抱いていたという。
「テレビっ子でドラマが大好きでした。当時のフジテレビのドラマって、やたらレインボーブリッジが出てくるんですよ(笑)そういう港区の景色を見て、『早く大人になって東京で働きたい』という欲がすごくありました」
小学生の頃からフジテレビの組織図を見ては、「報道部で働きたい!」と、テレビ局で働く夢を膨らませていたという。
「ドラマや少女マンガといったコンテンツをつくる側、情報を届ける側になって、その一番早いところにリーチしたい、時代の最先端に行きたいみたいなことを考えるマセた子どもだったと思います(笑)」
と、当時を懐かしんで微笑んだ。
東京のPR会社に就職。つらくも充実した日々
海外にも興味を持っていた佐藤さんは、高校を卒業後、東京の大学に進学し、国際関係論について学んだ。大学時代は千葉から電車通学をしていたため、東京で暮らし始めたのは社会人になってから。大学卒業後、港区にあるPR会社に就職し、憧れだったレインボーブリッジが目の前に広がるオフィスで働き始める。
小さい頃から夢見た景色だった。
「就活では最初、報道記者希望でテレビ局を受けていたんですが、なかなか良い結果が出ず、就活を進めるうちにだんだんと違和感も感じ始めました。
当時、私は『ニュース番組を見た人の行動が変わる番組をつくりたい』と思っていたんですけど、記者として毎日新しい事件を追ってはまた別の事件を追いかけて……という仕事が実は自分には向いていないんじゃないか、と。当時は今以上にひとつの出来事に対して重く受け止めてしまう性格だったので、きっと心が持たないだろうなと感覚的に察しました」
そんな時に、たまたま足を運んだのが、PR会社の会社説明会だった。マスコミとも広告とも違うPRという領域に可能性を感じ、「この会社で働きたい」と思ったという。
営業職として配属された佐藤さんは、企画の全体ディレクションを担うようになる。入社一年目は毎日のように上司に叱られかなりきつかったが、その分そのときの教えが自分の血肉になっているという。
清澄白河、浅草……下町での東京生活
こうして憧れだった東京での生活をスタートさせた佐藤さん。最初の4年ほどは、清澄白河で暮らした。
清澄白河は、「いつかここで子育てしたい」と思うほど住み心地がよかったという。
「家の近くに現代美術館があって、常に何かしら企画展をやっていて飽きないんです。歩いてすぐ行ける場所に文化の発信拠点があるってすごく良いなと思いました。
美術館の隣にある木場公園も広くてすごく良くて、週末はよくランニングしていました。バーベキューを楽しむ家族を脇目で見ながら、いつか子どもができたら友達家族と遊びたいなと理想の休日が想像できました。
個人商店がたくさんあって、古い家をリノベーションして好きなことをやっているような人たちが多くいたのも、当時は意識してなかったですけど、居心地の良さにつながっていたのかなと思います」
社会人4年目で、部屋が手狭になったこともあり、思いきって浅草に引っ越した。東京の東側の下町の雰囲気が好きなのだという。
「浅草寺の裏手あたりに住んでいました。浅草にはいつも人がたくさんいて賑わっていて、古い文化が根付いているのに新しいものも生まれ続けている。変わらないものも変わり続けるものもあって、そこに漂う空気感がすごく好きでしたね」
入社5年目、訪れた転機
そのようにして、充実した東京生活を送っていた佐藤さんだが、入社5年目を迎えた頃、仕事に対してある葛藤を抱くようになる。
「自分の心に嘘をつきながら仕事をしなければいけないことも多くて。例えば、自分がそんなに良いと思っていなかったり、思い入れがない商品でも『面白いですよ』ってメディアに伝えないといけない。それを知恵やアイデアで楽しめる同僚もたくさんいましたが、私にはできなかった。忙殺されて心が通わない仕事をしてしまっているなと感じるようになりました」
そんな中で無理が祟り、体調を崩してしまった佐藤さんは、会社を休職。仕事を辞めることを考えるようになったという。
「一寸先も見えなくて、何の正解も見えないまま毎日毎日、隅田川沿いを歩いていました」
そんな時に、ふと心に浮かんだのが瀬戸内海の風景だった。
「24歳くらいの時にしまなみ海道に行ったことがあって、その時に見た瀬戸内海が衝撃的で。強く記憶に残っていたんです。秋田や千葉の海とは色が全然違くて、海の概念が変わりました」
もう一度、瀬戸内海を見に行こう。すべてはそこから考えればいい。
佐藤さんは早速、岡山県倉敷市にある宿に5日間部屋をとった。
瀬戸内海を見て気づいたほんとうの気持ち
そこは児島というエリアにある、瀬戸内海を一望できる宿だった。ひとり足を運び、眼前に広がる瀬戸内海を目にした瞬間、
「ここに住もう」
直感的にそう思ったという。
宿から見る瀬戸内海は驚くほど一面が海で、その色は淡く空に溶け込むように優しい水色だった。
「もちろん日によるんですが、波もそれほど高くなくて、凪と言われる穏やかな海なんです。自分がどうしたいのか分からなくなっていた時に、『あ、これはすごく綺麗だ』と素直に感動しました。これは綺麗だ。ここに住みたい。その感情だけは確かなもので、やっと自分の心が見えたような気がしました」
決意を固め、倉敷で職探し
滞在中は、直島や豊島など瀬戸内海に浮かぶ島々を訪ねた。日が経つごとに、決心は固まる一方だったという。
そして、滞在3日目、駅前で求人情報誌を手に取り、仕事を探し始める。
「そこにはガソリンスタンドのアルバイト求人がたくさん載っていて、いくらなんでもリスク背負い過ぎかな......と。ようやくネットを開いて求人情報を探しているうちに、今の会社(株式会社クラビズ)を見つけて、宿ですぐに応募しました」
そこからは怒涛の日々だった。とんとん拍子で事は進み、応募した会社に内定が決まると、東京のPR会社に退職届けを提出。
2020年11月、旅から帰った2カ月後には、岡山県倉敷市に移住していた。
「移住」というより「引越し」感覚
住まいは、転職先の会社が不動産会社を紹介してくれた。移住前に一度内見し、即決したという。
「家賃はやっぱり東京都とは全然違いますね。部屋の大きさが倍で、家賃は半額みたいな……街中から少し離れたところだと、3万円台の物件もあって驚きました」
移住にあたっては、移住支援制度も利用した。
「3年以内に倉敷を出ると、指定の額を返金しなければいけませんが、制度があるとないとでは大違いでしたね」
しかし、そのほかに何か特別な準備をしたということはなく、「移住」というよりは「引っ越し」をするような感覚だったという。
「特に、私が移住したタイミングはコロナ禍真っ只中で、友達とも会えていなかったので、離れた土地に住み簡単に会えなくなるという実感がありませんでした。『また来週オンラインで飲もうね!』みたいな感じでした」
車でどこにでも行ける自由。遊び方も変化
岡山県西部に位置する倉敷市は、古くから水運で栄えた港町。白壁の建物が並ぶ風情ある美観地区や国産ジーンズ発祥の地として知られる児島など、観光名所は数多い。
一方、佐藤さんは、生活面でも安心して暮らせる町だと感じているという。
「何より天災がすごく少ないんです。数年前に真備という地区が大雨の被害に遭いましたが、基本的に台風も逸れることが多く、地震もほとんどない。その心理的安全性って結構大きいなと感じています。
山と海が近くにあるので、車を30分も走らせたら、自然のど真ん中に行ける環境も気に入っています。車生活になったので、東京にいた頃と比べて体を動かさなくはなってしまったのですが、自分で運転して好きな場所に行ける自由は今まで知り得なかった喜びでした」
東京時代と比べると、お金の使い方や遊び方も変わった。
「東京では、週末に時間があったら一人で銀座に行ってショッピングしたり映画観たり…。つねに誰かが作ってくれた立派なものを消費しているような遊び方でした。
こっちに来てからは、例えば、ちょっと気分転換に山に登ってリフレッシュするとか、友達を家に呼んで餃子をアレンジして包もうとか。新しいものを求めるよりも、すでに価値あるものは身近にあって、それをどう楽しむかという考え方に変わった気がします」
移住してから築けた、かけがえのない人間関係
「岡山の友達」というのは、移住してからできた友達だ。それまでは知り合いはおらず、移住当初は東京の友達が恋しくて焦りを感じたこともあった。
しかし、そんな孤独感も2、3週間もたつと薄らいでいったという。
「移住のきっかけになった児島にある宿が、二拠点生活をしている人やクリエイティブな仕事をしている人だったり、なぜか野球についてやたら詳しい女の子とか(笑)、魅力的な同世代の人たちが多く集まる場所だったんです。移住当時はゼロから人間関係を構築しないといけなかったですが、その宿に遊びに行くと、不思議と価値観や感覚が合う人と出会うことができて、自然と気の合う友達が増えていきました」
しかし、そのようにかけがえのない人間関係が出来上がっていくと、一方で葛藤も生まれた。
「私はわりと向こう見ずで何でも決めちゃうので、『嫌だったら帰ればいいや』という軽い気持ちで移住したんです。でも、住んでみたら土地に愛着が湧いてくるし、大切な友達やパートナーもできて、そうなると、『あれ、私はずっとここに住むんだっけ?』みたいな気持ちにも出くわすんですよね。
家族も友達もほとんど関東にいるし、正直、まだずっと住む覚悟ができていないというか……そういう葛藤は、今も消え去ってはいないですね」
葛藤は抱えつつも、その時その時で決めていくしかない。今はそんな気持ちだという。
そんなふうにモヤモヤとしたとき、佐藤さんは、倉敷市と玉野市にまたがる王子が岳によく行くという。歩いて40分ほどで登れる頂上から眺める瀬戸内海は絶景で、そこに上るとだいたい心のモヤが晴れるのだとか。
自分の気持ちに正直に働ける幸せ
移住後の働き方についても伺った。
移住後、佐藤さんが勤めているのは、倉敷でビジネスを展開する株式会社クラビズ。ウェブサイト制作や飲食事業、自社ブランドの開発など、地域に密着したさまざまな事業を全国に向けて展開している。
その中で佐藤さんは、自然素材にこだわった肌着や靴下を扱う自社ブランド「くらしきぬ」のブランディング全般を担っている。前職での経験を生かし、広報としてメルマガの配信やSNSの運用なども行っている。
「自社ブランドで働くというのが私にはすごく合っていたなと思います。ひとつの物がどういう想いで作られているのか間近で見られる。自分の気持ちに正直な形で働けているので、本当に毎日楽しいです」
「自分の心に従うこと」は、今、佐藤さんがとても大事にしていることだという。
「移住して1年くらいは『定時ダッシュの女』みたいな感じで(笑)、定時できっかり帰っていたんですけど、それがしばらく続くと、やっぱり本気でやらないとつまらないなと気づくんです。最近は夜8時、9時くらいまで残業することもあります。
頑張りたいという気持ちがあるなら、疲れていても頑張った方がいいし、調子がいまいちなときは休んでからやった方がいい。
東京で働いていたときと比べて、そういうバランスは自分で調整できるようになりましたね」
仕事、生活、人間関係......小さな選択であっても、自分の気持ちに正直に行動する。「それでいいんだ」と思えたことは、佐藤さんにとって、移住後の大きな心境の変化だったようだ。
人の意見より、自分の心の声に耳を傾けよう
最後に、移住を検討している人に向けて、佐藤さんからメッセージをいただいた。
「住む場所は環境を決める最たる要素なので悩んで当然だと思うんですけど、私個人の考えとしては、他人の意見はあんまり聞かなくていいかなと思っています。
行ってみたいという思いが強いなら一回行ってみて、嫌だったら戻ってくればいい。もし不安が大きいなら、試しに1週間くらい旅してみたら、そこで暮らすイメージが湧いてくるんじゃないかと思います。逆に、都会に住んでいて今の暮らしが気に入っているならそれは素晴らしいこと。本当の気持ちは本人にしかわからないので、それを大事にできたらいいのかなと思います」
心の赴くままに、新しい居場所を見いだし、仕事も生活も人間関係も、一から築き上げている佐藤さん。
困難な時期に、ふと「瀬戸内海を見に行こう」と思ったのは、その時、心がただその場所を求めていたからなのだろう。
日々の幸せも悩みごとも、瀬戸内海が優しく受け止めてくれているようだ。