移住者プロフィール
大川 香菜さん
移住時期
2013年5月
利用した支援制度
地域おこし協力隊
出身地:岩手県陸前高田市、前住所:東京都、現住所:長崎県壱岐市、職業:ゲストハウス経営・海女
目次
INDEX
壱岐に来て良かったなと感じる瞬間はいつですか?
大川香菜さん(以下、大川):何気ない日常のふとした時に「あぁ、よかったな」と思う瞬間があります。具体的に言うとひとつは出勤の風景です。東京で8年間暮らしていた時は出勤するストレスがありました。みんな急いでいて、人と人が密状態で1時間電車に乗って。「またこの満員電車に乗るのか、疲れたな」って思うことがよくありました。
壱岐での出勤風景は、自然が多く、四季の移り変わり、朝から夜までの空の色、人の流れ、海の状況、毎日違って面白いです。すれ違う人とは挨拶をして、おなじみの人ばかりで安心しています。
仕事についてはいかがですか?
大川:自分のやりたい「海女の仕事」をするために来たけど、まさかゲストハウスを始めてこんなにいろんな人に会うとか、サーフィンを始めてもっと海の面白さを知るとか、結婚も子どもができるとも思っていなかったです。
ひとつの目的、海女をするために来たのに、いろんな楽しみが増え、さらに相乗効果で楽しみが倍増しています。
壱岐に来て、まだ?もう?9年目だけど、9歳はまだまだ壱岐生活小学3年生くらいです!(笑)
その年齢のいろんな楽しみ方があり、今の瞬間の楽しみと、何年後かの楽しみがまだまだあるなーっていう感じがしています。
ゲストハウスの周囲には、愉快さがあふれている
これから壱岐でどんなことをやっていきたいですか?
大川:いろんな考えを持った人、いろんな人種の人、英語話す人、フランス語を話す人、いろんな人が混ざり合う「国際通り」みたいになればいいなって思っています。いろんな人が地球には住んでいて、いろんな場所に行けるし、いろんな可能性があることを自分も娘にも、身近な暮らしの中から感じてほしいなって思っています。
住んでいる町に色んな面白い人がいたら、生活自体が学びにもなって、いつの間にか許容範囲が広くなって、視野が広がるといいなと思ってます。空き家も多いし、人口も減っているし、この通りにいろんな国の人が住んだら面白いんじゃないかなって勝手に妄想しています。
同じ島の食材を使っても料理の仕方も変わって楽しそう!
自分のフィールドである海についてどう思いますか?
大川:お父さんは遠洋漁業の漁師で船長をしていましたが、32歳のとき海で亡くなっています。「うわぁ!早い!」って不本意だったと思います。その一瞬でいろんなことを考えたと思うし、でも好きな道を行って、好きなことをして亡くなっています。
震災もあったけど、だからって海が嫌いになることはなかったです。怖さもあるけど、もらっているものの方が多いなっていう感覚があるので、私は憎らしいとかも全然思わないです。それが正直な気持ちかな。あとお父さんも漁師をしていて、田舎も漁村だったから、東京では職場の人に「漁師の人と結婚して、漁師町に住みたい!」っていうのはずっと言っていました。
半分現実味がなかったけど、いずれは漁師町に住みたいという想いはすごくありましたね。
あなたにとっての壱岐を一言で表すとしたら?
大川:「師範であり恩師」です。日々いろんなことを教えてもらっていて、原点回帰した場所です。お父さんが亡くなってから、お母さんが若女将として経営していた民宿もお父さんの弟に継いだけど、漁師町の雰囲気や魚介を食べることが好きな気持ちがずっとありました。
父が志半ばで続けられなかった海の仕事を漁法は違えど自分がすると決めて、小さい頃から大好きな海との暮らしが壱岐で実現できた。自分の原点に返ってきたと感じています。
海との暮らしはいかがですか?
大川:海が少し荒れただけで流されて思うように動けない、泳ぐ技術もそうだけど、精神面でも鍛えられます。そこからの学びがあります。どんなに腹が立つ事があっても、海に入ると自分がイライラしてようが慌てようが何しようが、海の流れ、波には勝てない。
流れに乗るかうまく同調して動き方を考える。無理をしたら危険なので、海に入る事を諦めることもある。どうしようもできないこともあると、冷静になって、謙虚でいようとも思えます。自然は時に厳しく、時に優しく、生きることを教えてくれます。
そしてこの島で暮らす人たちからも沢山のことを学ばせてもらっています。宿を始め、食堂や地域活動も始めて、暮らす中で関わる方々と一緒に楽しいことを企画したり、何とかしようと一緒にそこに向かって動いたり。
自分だけでは思いつかなかった、実現しなかったことも協力し合えば何とかなる。支え合い高め合える人達の思い浮かぶ顔が増えました。私にとって壱岐での暮らしにかかわる自然、人、こと、すべてが、師範であり恩師です。