移住者プロフィール
枡野 恵也さん
出身地:大阪府、前住所:東京都、現住所:岡山県倉敷市、職業:Spiber株式会社 執行役員
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コロナ禍と子供の進学を機に移住を決意
東京で男性用下着ブランド・TOOTの代表をしていた枡野さんが岡山県倉敷市への移住を決断したのは、コロナの感染が広がっていた時期。緊急事態宣言が出る中、自宅で仕事をするようになると、「色々な人に直接会える」という東京ならではのアドバンテージが薄まり、都心で高い生活コストをかけながら暮らすことに疑問を感じるようになったことが、移住の決め手の一つになったという。
しかし、「移住の決断はいくつも条件が重ならないとなかなか難しい」とも話す枡野さん。実は以前、TOOTの縫製工場がある宮崎県日向市への移住を検討したことがあったが、そのときは実現に踏み切れなかった。それは、子供たちの教育の問題がネックになったからだったそうだ。
「今、4歳と7歳の子供がいます。子供たちには、世界中どこにいても楽しく生きていけるよう、凝り固まらずオープンに育ってほしいと思っています。そのような理想の教育が受けられる学校が、宮崎県に見つかるのか。だからといって、東京の学校に通わせても、時代遅れの受験戦争や偏差値競争に巻き込まれずに済むのだろうか…という心配もあり、悩んでいました」
国際バカロレア教育との出会い
そんなとき、知人に教えてもらったのが「国際バカロレア教育」という、グローバル人材を育成する世界共通の教育プログラムだった。
国際バカロレアが掲げている“平和な世界を築く”という教育理念に一目惚れした枡野さんは、「宮崎県に国際バカロレア教育の学校を作りたい」という大きな夢を描くようになる。
マッキンゼーやレアジョブなどビジネスの現場でグローバルな課題を解決する道を歩んできた枡野さんにとって、「世界平和」こそ高校生の頃から一貫して持ち続けてきた人生の目的だった。
「学校づくりのため、全国各地の学校を視察して周りました。その中で出会ったのが、広島県福山市にある英数学館です。国際バカロレア教育をかなり初期の段階から導入している学校で、そんな世界最先端の教育機関が地方にあることに大きな感動を覚えました」
主体性を育み、他者と協働することに重きを置く英数学館の教育プログラム。その意義を現場で実感した枡野さんは、妻と子供たちと話し合いを重ね、長女が小学校に上がるタイミングで英数学館に進学させることを決断。学校からそれほど離れていない岡山県倉敷市への移住が実現したのだった。
「英数学館からのお声掛けで、僕自身も広報の仕事のお手伝いをすることになりました。ゆくゆくは自分の手で学校を作りたいと思っていたところに、学校経営に関わらせてもらえる機会を得られたのは、本当に良いご縁だったと思います」
倉敷に根付く大原孫三郎の経営哲学
岡山県南部に位置する倉敷市は、古くから水運で栄えてきた瀬戸内海随一の港町。白壁の土蔵が立ち並ぶ風情ある景観が有名な美観地区、ジーンズ発祥の地として知られる児島、巨大工業地帯「水島コンビナート」を有する水島など、観光地としての見どころも多い。
実は、枡野さんが移住先に倉敷を選んだ背景には、明治から大正にかけて活躍した倉敷出身の実業家・大原孫三郎の存在も影響していたという。
「倉敷紡績(現在のクラボウ)や倉敷絹織(現在のクラレ)の社長を務めた大原孫三郎は、渋沢栄一と並び立つほどの大実業家で、資本主義全盛の時代に左翼的、クリスチャン的な発想で社会福祉事業にも力を入れた、とにかくスケールの大きい人物です」と枡野さん。
およそ100年前、孫三郎は先進的な取り組みの数々でその名を後世に残した。例えば、紡績工場の女子工員たちの労働環境改善と教育だ。24時間2交代制で深夜業務をこなし、豚小屋のような劣悪な環境で寝起きしていた女工たちに、人間らしい暮らしができるよう少人数で暮らせる寄宿舎を建て、工場内に学校を設立して人間教育を施したという。
「孫三郎は、従業員の健康と福祉の向上という、今でいう※ウェルビーングの考え方を当時から実践していたんです。
ほかにも、日本最古の私設孤児院の支援、桃やブドウの品種改良、日本初の西洋美術館である大原美術館の設立......と、経済、労働、文化、農業に至るまで、幅広い分野の基礎を一代で築き上げてしまいました。経営に携わる者として、倉敷という町に根付く孫三郎の経営哲学を学び、今後の会社や学校経営に活かしていきたいと思ったんです」
※心身と社会的な健康を意味する概念。決まった訳し方はなく、満足した生活を送ることができている状態、幸福な状態、充実した状態などの多面的な幸せを表す言葉。
オープンイノベーションで地方に変革をもたらす
枡野さんは倉敷で新たな取り組みを始めている。その一つが、電力の地産地消の事業だ。太陽光やバイオマスなど再生可能エネルギーを使って発電した電気を、都心に販売するのではなく地元で使う。そんなドイツのコンパクトシティに近い構想を進行中だ。
ほかにも、地方におけるオープンイノベーションの啓蒙普及活動にも力を入れている。「地方創生」と叫ばれて久しい昨今、各地でさまざまな変化の芽は出ているものの、ぐっと前に推し進める動きとしては道半ば。より社会に開かれた変革の必要性を感じるという。
「特に田舎に行けば行くほど、改革の動きに対して『これまでのやり方を守りたい』という抵抗勢力が多い印象です。過疎が進んで、存続の危機に立たされているような自治体ではかえって面白い動きが起きることもありますが、倉敷のように適度に栄えた土地では、思い切った変革が起きにくいんです。だからこそ、その起爆剤として、移住者のような『若者』や『よそ者』の力に期待が寄せられていると思います」
そうした動きの一例として、枡野さんがワークショップの講師などを務めている「高梁川流域CROSSING」というプロジェクトでは、倉敷を含む高梁川流域にある10市町でオープンイノベーションを促進し、新たな産業の創出や持続可能な経済圏の実現を目指している。
「やっていることは働き方改革に近いですね。企業の課題に対して、自社でどうにかしようとするのをやめて、外部に助けを求めましょう、と。定常業務としての取引先とのやりとりが全てになってしまうと、どうしても新規事業が起こりにくい。人口減少が進む中で、ずっと同じ商売を続けていても先がないという中で、他社とうまく組むことで新しい価値を生み出していく取り組みを促しています」
山、川、海。自然の遊び場も充実
移住後の生活面での変化についてもお聞きした。
一番変わったのは、山に登ったり、川や海で遊んだり、子供たちの遊び場が充実したこと。倉敷は、街と自然がほどよい距離感で共存しているコンパクトさが魅力で、街から車で10~20分も行けば、人工物でない本物の自然が広がっているという。
「夕方6時くらいに仕事が終わったら、『よし、蛍を見に行こう!』と子供たちを連れて出かけることもあります。なるべく自然に近いところに連れて行きたいので、週末には瀬戸内海の島まで遊びに行ったり、フルーツ狩りや田植えをしたこともありましたね。やはり四季折々の自然や農業を体験できるのは、移住の醍醐味ですよね」
計画された偶然性という生き方
枡野さんは、2022年7月末でTOOTを離れることを発表した。今後も倉敷に留まり、リモートで次の仕事に関わっていく予定だというが、今後の人生設計についてはどのように考えているのだろうか。
「一般的に、キャリアプランは大きく3類型に分けられます」と言う枡野さん。1つめはゴールに向かって直線的にステップアップしていく生き方。2つめは、場当たり的にその場その場で起きることを楽しむ即興的な生き方。3つめはその中間にあたる、プランド・ハップンスタンス(計画された偶然性)と呼ばれるもので、枡野さんが重視するのはこの3つめだという。
「僕には『世界的な舞台で経営の仕事がしたい』という大きなプランがありますが、それが具体的に何なのかは明確にしていません。大枠のプランだけ決めておいて、あとは即興的な出会いやご縁に身を任せて、面白いなと思ったところに飛び込んでいきます。TOOTの社長になったのもそのような経緯でしたが、結果的にブランドをミラノコレクションまで連れていくことができ、世界的な仕事、グローバルな経営へと結びつきました」
今後もこのプランド・ハップンスタンスで、自分が「面白い」と思えることに挑戦して経験値を積んでいきたいという枡野さん。そして、何歳になっても「一緒にやりましょう」と声をかけてもらえるよう学び続けていきたいという。
「年齢を重ねるにつれて期待される役割は変わっていきますが、『もうあの人いらないや』とならないように、守りに入ることなく、自分を縛ることなく、一定程度自由でいられるための人徳を培っていきたいですね」
大企業に勤める人こそ地方移住を
最後に、移住を検討している人に向けてメッセージをいただいた。
「移住するか悩んでるなら移住しましょう!悩んでいるということは、自分の中にひっかかっているものがあるということなので。
とはいえ、移住の選択肢は多い方が良いです。ノーベル経済学賞をとったアマルティア・センは『貧困とは選択肢の少ないことである』と言いました。一般的に豊かさというのはお金の量ではなくて選択肢の多さなんですよ。移住先を決めるときも、『ここしかない』と場所を限定するよりは、たくさんある中から『ここが一番良さそう』と決めるのが大事じゃないかと思います。そのときはなるべく、自分の今まで来た道と何かしらクロスするようなご縁がある場所を選ぶのが良いと思いますね」
さらに枡野さんは、都心の大企業に務めている人にこそ移住を強く勧めたいという。
「一流大学を出て東京の大企業に就職したものの、自分がただの歯車のひとつに過ぎないような気分で働いている人は多いんじゃないかと思います。でも、思い切って地方に行ってみると、一転、すごく頼られる存在になれたりします。楽してそうなれるという意味ではなく、むしろ自分の名前で戦っていく必要があるから自分を鍛える武者修行の場になります。
僕自身、実際移住してみてわかりましたが、オープンイノベーションを含め、『こんなこともまだやってないんだ…』ということが山ほどあるんですよ。だから、大企業で出世レースに必死にしがみついて頑張るよりも、地方で努力する方がはるかに日本経済全体の底上げになるはずなんです。『都心にしがみついているのは負け組ですよ』ということを強く言いたいですね」
一時期、東京のようなメガシティに出て自分を磨くのは決して悪いことではない。しかし、最終的には生まれた町に戻ったり、地方に移り住んだりして、ローカルをどう盛り立てるかを考えた方が持続可能だろうと枡野さんは言う。
その一方で、自身が構想する学校づくりでは、東京に出ないとグローバルで働けないような教育の仕組み自体を変えていきたいとも話してくれた。大原孫三郎は「わしの眼は十年先が見える」と語ったそうだが、現行の制度や世の中の常識に囚われない先見的な取り組みが、次なる時代の基礎を築いていくのだろう。その舞台となるべき場所が地方にはたくさんありそうだ。