移住者プロフィール
木村 卓寛さん
出身地:兵庫県姫路市、前住所:東京都、現住所:岩手県盛岡市、職業:お笑い芸人
目次
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ちょける少年はクラスの人気者
張りのある「吟じます!」の第一声が放たれると、瞬く間に“天津木村ワールド”に引き込まれてしまう、エロ詩吟。
小気味良いメロディーと絶妙な字余り感が独特の世界観を創りあげ、「あると思います!」の結びの言葉を引き立てる。率直な表現はいつしか癖になり、“最後まで聞き逃すまい”と、耳をそばだてている自分に気が付いた人も多いことだろう。
のちに、独特の世界観で人々を魅了することになる木村卓寛(きむら・たくひろ)さんは、1976年、4兄弟の2番目として、兵庫県姫路市に産声をあげた。
祖母と父が詩吟の師範という環境下で育ち、9才の頃より詩吟に親しんできた。由緒正しい伝統芸能を学びながらも、当時の木村さんは、“おしとやかさ”とは真逆の“ちょける”(関西弁で“ふざける”の意)少年だったといい、周囲を明るく照らす、クラスの人気者だったという。
「この間、小学生の時の通知表が出てきたんですけど、“先生からの一言”の欄に、『勉強はまあまあできますけど、めちゃくちゃ人に迷惑をかけます。大人になってからもこのままの生活を続けているようなら、無理です』って、すごいこと書かれていたんですよ(笑)。たしかに、授業の邪魔をするような“悪ガキ”ではありましたけど、みんなからは人気者という感じで見てもらえてて、とにかく活発な子でしたね」
と、ユーモラスに当時を懐古してくれた。
嫉妬が原因で芸人の道へ
いつしかその人気は鳴りを潜め、クラスに溢れていた笑いを懐かしく感じる日々は続いた。
“人気者のポジションに返り咲くためには最初が肝心”とばかりに、大学生活を華々しくスタートさせようと考えたが、その目論見は大きく外れる。入学前に車両事故を起こし、怪我の療養のため、1ヶ月ほど休学する羽目になったのだ。
思い描いた薔薇色の大学生活よりは大分平凡な仕上がりになったものの、気の置けない友人とも出会い、充実した大学生活を過ごした。
大学生活も半ばに差し掛かった頃、進むべき道を模索し続ける者と、定めた進路に向かい行動を本格化させようとする者で、皆が一様に、気忙しい雰囲気を携えるようになったという。
“サラリーマン”と“詩吟の先生”の、二足のわらじを履いていた父の背中を見て育ち、かねてよりサラリーマンになることを思い描いていたという木村さんも、その実現へと準備を進めようとしていた。
しかし、その想いは、“あること”をきっかけに一変する。
「当時付き合っていた彼女が、お笑いにハマったんですよ。僕、すごく嫉妬深いんで、彼女にこっちを見てほしくて、『俺の方がおもろいに決まってるやろ。じゃあ俺もお笑いやるわ』って(笑)。大学在学中に、お笑いの養成学校に入ったんです。人気者じゃなくなって、“あれ、俺の人生、もっと面白いって言ってもらえてたのに・・”という想いが、『お笑いを目指す』というところに繋がったんでしょうね」
その“彼女”こそが、現在の“奥様”だ。「自分だけを見ていてほしい」という、当時恋人だった奥様への想いが、芸人としての道を切り拓くことになる。
エロ詩吟、爆誕!
1999年2月、NSC(吉本総合芸能学院の愛称、「New Star Creation」の略)大阪校で知り合った向清太郎(むかい・せいたろう)さんと、漫才コンビ「天津」を結成。木村さんが着用していた“天津甘栗”のTシャツが、コンビ名の由来になったのだとか。結成後、主に「baseよしもと」で活動していたが、徐々に頭角を現し始める。
かの「M-1グランプリ」においても、2002年から2008年まで、毎年準決勝に名を連ねるなど実力者としての存在感を発揮したが、“オタクキャラ”を確立する向さんとは対象的に、“何もない”自身の方向性に、葛藤は続いたという。
そんな彼に、運命を変える一日は、突然訪れる。
当時、お笑い芸人の「麒麟」がMCを務める深夜のラジオ番組に、毎週コンビでゲスト出演しており、この日も、「何か人とはちゃう特技はないんか?」と、“何もない”芸風に話が及んだという。
20代で詩吟の師範代の資格を取得していたものの、当時は、“詩吟なんて誰も知らないから・・・”と思い込んでいた木村さんにとって、詩吟が芸人としての自身の武器になることなど、想像もつかないことだったという。
「詩吟に“あるある”を乗せてはどうか」という提案のもと、急遽、「人間あるある」をお題に、生放送で吟ずる展開に。緊張感に押し潰されそうになりながらも、「春あるある」を披露したが、結果は、大すべり。
しかし、この失敗こそが、「エロ詩吟爆誕」へのカウントダウンの始まりだった。
「スベった後、『お前がそれに対して思い入れがないから面白くないんやで。お前が好きなものってなんやねん』と、麒麟さんから檄を飛ばされました。僕、エッチなことにすごい興味があったんで(笑)、それをお題に、即興で“あるある”を披露したんです。そうしたら、ドカーンとウケて(笑)」
先輩の一言をきっかけに、“何もない”から“エロ詩吟”が爆誕した瞬間であった。 その後、一生を風靡するほど、“エロ詩吟”のブームが到来することは、皆の知るところである。
根幹にあるのは、女性へのリスペクト
“性教育後進国”とも揶揄される日本において、タブー視されてきた“性”を題材にした芸風が、なぜここまで、受け入れられるに至ったのだろうか。
「男ばかり4兄弟という、母親以外の女性が身近にいない環境で育ったことが、逆に『女性へのリスペクト』を育んだのかもしれません。エロ詩吟のネタも、あくまで女性を中心とした描き方をしていて、そこに男の妄想を乗せている。そこは、ずっと大事にしてきた部分ですね」
興味から生じた“好き”と、女性への“敬愛”。「プラス」と「プラス」の感情の掛け合わせが、“そこ抜けの明るさ”を生み出し、率直すぎる表現を前にしても、抵抗なく笑い飛ばせる空気感を醸成したのだろう。
ヒロミさんの言葉で移住を決意
エロ詩吟のブームが落ち着きを見せた後も、お笑いへの情熱が衰えることはなく、ロケバスの運転手などのアルバイトをする傍ら、ネタ作りに励む日々を送った。
大型バスの運転に必要な大型二種免許を取得したことが縁となり、2020年の12月からは、ヒロミさんの専属ドライバーを務めたが、置かれている場所で切磋琢磨しながらも、10年後の自分を思い描くことができない不安感を拭い去ることはできなかったという。
そんな折、岩手朝日テレビの開局25周年にあたりリニューアルされた、新番組「Go!Go!いわて」(毎週土曜日あさ7:30〜)のMCに抜擢されるという、大きなチャンスが舞い込む。
その時の心境を、こう語ってくれた。
「これまでちゃんとしたMCの経験もなく、あまり得意な方ではないと思っていましたが、人前に出られるチャンスがもらえることは、芸人として純粋に嬉しかったですね。不安な気持ちとワクワクした気持ち、両方ありました」
週1回の放送ということもあり、先方との見解も一致し、当初は“通い”でオファーを受けることに。その決断から一転、盛岡市への完全移住に大きく舵を切り替えることになった背景には、ヒロミさんからの“ある言葉”があったという。
“番組のMCをお前に任せる”と決めてくれた人の覚悟に対して、お前も覚悟を見せないといけないだろ。週1回だけ通って来るお前を、岩手の人たちが愛してくれると思うか?
「正直、そこまで考えられていなかったので、目の覚めるような思いでした。ヒロミさんから、『お前、早く俺のドライバーなんか辞めちまって、とっとと岩手のスターになってこい』という言葉をもらった時、これまで何も思い描けていなかった未来が嘘みたいに見えてきて、霧が晴れたような感覚になりました。本当に晴れ晴れとした気持ちになりました。先日も、『新しくレギュラー番組が決まりました。ヒロミさんのおかげです』と、報告のLINEを送ったら、『よかったな。お前の力だよ』という返信がきました。毎回、キュンキュンさせられます。すごくすごくありがたいです」
家族での移住を実現させた、妻の言葉
移住という選択が現実味を帯びてくると、一番に頭によぎったのは、家族のことだった。小学生の2人の娘に、東京で築いたコミュニティから離れ、転校を強いることを考えると、単身での移住が現実的に思えた。
その日の夜、「単身赴任になってしまうけど、会える時こっちに帰ってくるから」と、奥様に報告すると、思いがけない言葉が返ってきたという。
「『それってちょっと、ちゃうんちゃう。家族って一緒に住むもんなんじゃないの。一緒に行くよ』と、言ってくれたんです。その言葉には助けられましたね。一番大変だったのは、子供たちを説得することでしたが、少しずつ時間をかけながら、大事に進めました。僕が春に移住して、家族が夏に合流したので、4ヶ月間単身だったんですけど、“素敵なところあるよ”なんて、現地から動画を送ったり、盛岡のいいところをアピールし続けました」
幸い、木村さんの心配は稀有に終わり、転校初日から自宅に友人を招くほど、岩手県での生活にすぐ馴染むことができたという。
これまで築き上げてきた生活基盤を手放し、新天地でゼロスタートを切ることは、大変に勇気がいる決断だ。しかし、その道のりを、家族が並走してくれるのならば、それほど心強いことはないだろう。
「家族は一緒に」という言葉の奥には、奥様の覚悟と、エールが込められていたに違いない。岩手県での活躍を応援してくれている人々の想いを胸に、家族と共に、新天地での一歩を力強く踏み出すこととなる。
「イメージを持ちすぎてもしゃあないなって」
人口28万人超を誇る東北第二の都市、岩手県盛岡市。
市内の至る所からは岩手山の雄姿を臨むことができ、3つの一級河川が市街地を流れる、“水と杜の郷”として親しまれてきた。
南部藩の城下町として栄えた歴史の面影を色濃く残しつつ、多くの商業施設やショッピングモール、北東北随一の歓楽街と呼ばれる「大通り」を有するなど、都会感と田舎感の絶妙なバランスが心地良い街だ。
注目すべきはアクセスの良さにもある。東北新幹線を利用すれば、盛岡駅-東京駅間を、2時間10分ほどでアクセスでき、盛岡駅から車で約40分の距離にある花巻空港からは、新千歳や伊丹、神戸、福岡への定期便も運行されている。
姫路市で生まれ育ち、その後も活躍の場を東京で展開してきた木村さんにとって、これまで岩手県は、縁もゆかりもない場所だった。
移住に関する情報を、どの程度事前にリサーチしていたのだろうか。
「岩手県に対して、“寒い”、“不便”くらいのイメージしか持てていなかったので、とりあえず“岩手の土地を知ろう”と、3冊ほど本を買いました。好きな地図を見ながらイメージを膨らませてたんですけど、“行くって決めたんだから、もう行くしかない。あまりイメージを持ちすぎてもしゃあないな”と、思うようになって。テレビ局の方も色々サポートしてくださったんで、最低限の必要な情報以外は、あえて入れずに行きました」
最大の魅力は、人の温かさ
2021年の3月中旬に移住し、およそ1年5ヶ月が経過したが、近頃では、東京での仕事を終え盛岡に戻ると、ほっとしている自分に気が付くという。
今でこそ、盛岡での暮らしを心から楽しんでいる様子だが、移住当初は、当然懸念もあったことだろう。いかにして、地域に溶け込んでいったのか。
そこには、木村さんが岩手県の最大の魅力と表現する、「人の温かさ」があったという。
「エロ詩吟のおかげで、元々知ってもらえてたのは大きかったですね。ただ、芸風が芸風なんで、岩手の人に拒否されると思ってたんですよ(笑)。実際は、多くの方がものすごくウェルカムな気持ちで迎えてくださって。道を歩いていると、『岩手に来てくれてありがとう』、『住んでくれてありがとう』と、未だに声をかけてくださるんです。その時にまた、ヒロミさんの言葉を思い出しましたね。『お前はそこに住むっていうことを決めた。だから多分、岩手の人に愛してもらえるぞ』って。全部わかってはったんやな、すごいなって」
岩手県民の温かな人柄は日常にこそ滲み出るようで、こんな一コマも紹介してくれた。
「横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、車は停車して譲る、というのが交通ルールですけど、実際は、止まらない車を見かけることもよくありますよね。でも、岩手では、“人も車も止まる”(笑)。譲られた人は会釈しながら渡って、渡った後も、ペコってしはるんですよ。お店に行っても、横柄な態度をとる店員さんに未だ出会ったことがないし、慎ましくて、優しい方が多いんですよね」
全てがちょうどいいサイズ感
移住前後で、暮らしに変化はあったのだろうか。“住みやすさ”にフォーカスして尋ねると、「とにかくサイズ感が絶妙。ちょうどいい」と力を込めた。
「車で10分から15分も走れば、県庁も役所も病院も、スーパーもあります。スーパー銭湯が3つあることも、僕の中ではかなり魅力的かな(笑)。あと個人的に、『地方移住してよかったことランキング』のかなり上位に入るのが、“ゴルフがしやすい”ことですね。東京に住んでいた時は、1時間ちょっとかけて千葉のゴルフ場に行ってたんですが、遠い上に、混んでるし、高い。それが今では、車で8分のところにあるんですよ!月2回はゴルフを楽しんでます」
ゴルフと並び、キャンプが趣味だという木村さん。東京にいた頃は、2時間ほどかけて山梨県や群馬県のキャンプ場を訪れていたというが、自然の中に身を置く暮らしにシフトした現在も、キャンプを満喫しているのだろうか。
「自然が近い岩手に引っ越したら、もっとキャンプに行くようになると思っていたんですが、実際は、そんなに行かなくなったんですよ。何でかと言うと、近くを歩くだけで自然がいっぱいあるから。盛岡城址公園(岩手公園)というきれいな公園があるんですけど、そこで、シートを広げてお弁当を食べて、ピクニックでもしたら、もうキャンプになるんで(笑)自然が近いってすごくいいですよ」
豊かな自然に恵まれた暮らしは、ご家族との時間にも彩りを与えてくれるようだ。
岩手県の魅力を広めることに夢中
現在、「いわて暮らしアンバサダー」、「いわて牛応援団長」を務め、岩手県の魅力を伝える講演会や物産展での開催に携わるなど、精力的に活動を展開している。そんな木村さんが今夢中になっていることは、ずばり、“岩手県の魅力を広めること”だという。
「シンプルに、岩手県のことを知ってもらうのがすごく楽しいんです。『岩手県は素晴らしい!』という気持ちを純粋に発信していただけなのに、こんなにも皆さんが喜んでくれて、それが本当に嬉しいです。僕の原動力になっているものって、“褒められたい”っていう想いなんですよ(笑)。だから、ウィンウィンな感じで、やっててすごく楽しい。親に褒めてほしくて頑張る子供の、延長上のような感じですかね(笑)」
自身がMCを務める情報番組、「Go!Go!いわて」の人気コーナー、『天津木村のどっかええトコありますか?』の企画を通じ、岩手県内33市町村全てに、順次足を運んでおり、その地域にしかない魅力を、彼ならではの表現で届けている。また、SNSを用いた発信にも積極的で、1時間に1記事の更新を目指す、オフィシャルブログ『天狗女と泥棒ヒゲ男』内や、YouTubeチャンネル『天津木村のてんきむちゃんねる』内でも、岩手県の魅力を存分に伝えている。
「岩手県で一人暮らしを始めた時、ブログの読者数がすごく増えまして、ありがたいことに、岩手の皆さんもたくさん見てくださっていたんです。コメントで、“こういう時はこうしたらいいですよ”、“それは方言でこういう意味ですよ”とか、色々と教えてくださって。コメント欄って独特の共有感があるので、そこから岩手県の魅力を知ってくれる県外の方って、多分おられると思うんです。あと、そこがまた良さでもあるんですけど、岩手って“アピール下手だ”と言われることが多いので、これからは少しでも皆さんに知ってもらえるように、僕自身も楽しみながら、お手伝いできたらと思っています」
「損」か「得」かは、自分の考え次第で決められる
穏やかさと力強さが混ざり合う、外柔内剛な魅力を持つ木村さん。内なる情熱に火をくべ続けることができるのは、“軸”となる想いがあるからなのだろうか。
「僕ね、損したくないんです(笑)。例えば、雨の日って憂鬱で気分下がる人も多いと思うんですけど、考えようによっては、雨を楽しく捉えることもできます。もちろん中には、逃れられない損もあると思います。でも、自分の考え次第で、“得にも損にも変えられる”ことまで損にしてしまうのは、しんどいだけやんって。岩手の魅力をアピールすることも、“岩手のため”であり、“自分のため”でもある。岩手を盛り上げることで皆さんが喜んでくれて、結果、“僕が褒められる”ことに繋がるなら、最高じゃないですか(笑)。その“得”を、取りに行っているだけなんです」
と、飾ることなく、率直に言葉を紡いだ。
逆境というマイナス要素に捉えがちな局面においても、必要だからこそ訪れた転換期と捉え、見事にチャンスに姿を変えてしまう。
木村さんのもとに訪れたチャンスは、“偶然”舞い込んだものではなく、彼の思考が引き寄せた、“必然”から生まれたものだったのだろう。
挑戦する前から“ハードルが高い”と決めない方がいい
「移住という経験が、等身大の自分で暮らすことの幸せを教えてくれた」と話す木村さんに、移住を検討している方へ、メッセージをお願いした。
「失敗したら帰ったらいいやん、くらいの気持ちで、とりあえず行ってみたらいいと思います。お金も一つ、移住の背中を押してくれる大切な要素になってくると思うので、移住支援金などの制度をしっかり調べることは、忘れずに。僕の場合、子どもの転校のことをずっと悩んでましたけど、幸い娘たちはすぐに馴染んでくれました。移住に限らず、やる前から勝手に“ハードルが高い”と決めない方がいいと思います」
「とりあえず」と切り出した後、あの耳慣れたメロディに乗せ、移住検討者へ“エール”を送ってくれた。
「移住したら、なんだか、いけそうな気がするぅ〜〜♬」
彼の魅力は、“絶妙な力の抜け具合”にあるのかもしれない。
「永住・・あると思います!」
弾力のある声でビシッと決めた後、すぐに真剣な面持ちに表情を変え、こう続けた。
「“ありたい”と思います。未来のことを決めちゃうと面白くなくなるんで、どうなるかは正直まだわからないですけど、岩手で活躍して、そのまま進めたらいいな、と思っています。まずは、『都道府県魅力度ランキング』で、より上位を目指せられたらいいなと思います!(笑)」
終始、物腰柔らかく、落ち着いたトーンで取材に応じてくれた木村さん。丁寧な言葉選びの中に要所要所散りばめられる率直な言葉が、キラリと光った。緩急ついた語り口からは、“言葉を届けること”を大切にし、それを生業とすることへの誇りのようなものを、感じた。
酸いも甘いも経験したからこそ表現できる、木村さんならではの感情の引き出しをフルオープンにし、岩手県のために、そして、言葉の向こう側にいる人々のために、これからも真心を届けてくれるに違いない。