移住者プロフィール
松下 昇平さん
移住時期
2017年
利用した支援制度
地域おこし協力隊
出身地:大阪府、現住所、高知県中土佐町、職業:「松下商店」代表者
目次
INDEX
松下さんが七面鳥と出会うまで
冬の冷え込みが一段と厳しさを増した12月上旬。クリスマスを目前に控えたこの時期は、七面鳥農家にとって一番の繁忙期だ。
七面鳥(ターキー)は、日本ではあまり馴染みのない食材だが、アメリカでは11月の第4木曜日、「サンクスギビング」と呼ばれる感謝祭の日に家族で集まり、七面鳥を食べるのが恒例だ。クリスマスのご馳走としても定番で、その文化を取り入れた日本でも、最近はローストターキーがクリスマスの食卓を飾る機会が増えてきた。
「12月23日までが一番忙しいですね。みなさん、前日、前々日には仕込みをするので、実は、クリスマス当日は何もやることがないんですよ(笑)」
そう話すのは、高知県中土佐町で七面鳥の生産事業「松下商店」を営む松下昇平さん。日本では珍しい国産の七面鳥「しまんとターキー」の生産地である中土佐町に松下さんが移住してきたのは2017年のこと。今でこそ、七面鳥生産にかけては町を代表する存在となりつつあるが、移住以前は、七面鳥はもとより、畜産業の経験も一切なかったという。
そんな松下さんが、いかにして中土佐町に辿り着き、七面鳥事業に携わることになったのか、その足取りを追っていこう。
スポーツ文化に魅了されたアメリカ留学
1988年、大阪府藤井寺市で生まれた松下さん。小、中と地元の学校に通ったが、高校一年生の春に高校を自主退学。秋からアメリカに留学し、3年間、テネシー州の高校で寮生活を送った。
「日本で勉強ができなかったから、両親が『アメリカに行って勉強せい』と(笑)。僕としてはただそれを受け入れるがまま、『行かせてもらえるなら行こうかな』くらいの気持ちで留学しました」
ご両親としては語学留学のつもりで送り出したようだが、思いがけず、松下さんが現地で興味をもったのはアメリカのスポーツ文化だった。
「アメリカにはシーズンスポーツ制度というのがあります。日本では、例えば、小さい時に陸上、野球と決めたら、その後も同じスポーツをやり続ける人が多いですよね。でも、アメリカはどちらかというと、春は野球、秋はバスケットボール、冬はアメリカンフットボールという感じで、季節ごとにいろいろなスポーツをやるんです。
一つの競技をぐんぐん伸ばしていくというより、総合的に運動神経を鍛えたり、たくさんの選択肢の中から自分に合うものを見つけることを重視している。この文化、めちゃくちゃいいなと思いました」
それまで特にスポーツっ子というわけではなかった松下さんだが、留学中は、娯楽の少ない田舎町での寮生活。車がなければ出かけることも叶わず、やることと言えば自ずとスポーツが中心だった。
テネシー州は保守色の強い土地柄のため、人種の違いや閉鎖的な雰囲気に戸惑うこともあったが、四季を通してさまざまなスポーツを体験できる環境は素晴らしく、シーズンスポーツ制度の魅力を肌身で感じる3年間になったという。
卒業する頃には、「スポーツを仕事にしたい」、そして「日本にもシーズンスポーツ制度の仕組みをつくりたい」という思いを抱くようになっていた。
日本体育大学に進学。トライアスロンの競技者に
しかし帰国後は、思い描いた通りというわけにはいかなかった。大学でスポーツ科学を学びたいと考えたが、受験がうまくいかずに一浪。翌年、周りの薦めもあって受験した日本体育大学に進学すると、競技者としての道に活路を見出していく。
「日体大はスポーツの仕組みを作るというよりは、競技者としてやっていこうという人の方が多くて。もともと体を動かすのは好きだったし、入学して、同級生に一流のアスリートやオリンピック選手がいるような環境に身を置いたことで、競技者として上を目指すのも面白そうだなと思うようになったんです」
大学から始められるスポーツとして、松下さんが選んだのがトライアスロン。水泳、自転車、ランニングの複合競技であるがゆえに、どれか一つに飛びぬけた能力がなくても充分に戦っていける可能性があると感じたからだ。
それからは4年間、ひたすらトライアスロンに打ち込んだ。25mを泳ぎ切ることもままならないところからのスタートだったが、最終的にはインカレに出場を果たし、チームでは優勝も経験した。トライアスロンは、泳ぐ、漕ぐ、走るそれぞれの動きで使う筋肉が違う。競技を通して体づくりに意識が向くようになり、体をつくればつくる程、成績にもつながっていったという。
心に残った中土佐町のトライアスロン大会
実は、高知県中土佐町との最初の出会いも、トライアスロンがきっかけだった。
大学を卒業してまもない頃に、先輩からの誘いで出場した「第1回タッチエコトライアスロン」、その開催地が中土佐町だったのだ。参加者は数百人とこぢんまりとした大会だったが、地域をあげて開催する様子が強く印象に残ったという。
「ここ数十年、トライアスロンの大会はどんどん派手というか、見せ方がかっこよくなり過ぎていると感じるところがありました。もちろん、それはそれで良いんですが......中土佐町の大会では、トライアスロンのトの字も知らないような地元の人たちが運営に関わっていて。『そもそも今日は何の大会?』みたいな人もいる中、『とりあえず何百人も来てくれるから盛り上げないと』という気持ちがすごく伝わってくる大会だったんです」
それがよく現れていたのが、会場を埋め尽くした大漁旗と沿道の声援。
「中土佐町の海側はカツオの一本釣りで有名な猟師町なので、会場を賑わすものとして考えたのが、大漁旗だったのだと思います。こんな使い方していいのかっていうくらい、ありとあらゆるところに旗が出ていて、会場の雰囲気を盛り上げていました。
町の人たちも『ようわからんけど一生懸命走ってる人たちがいるから応援しよう』みたいな感じで(笑)、沿道には切れ目なく応援があって。選手としてはそれにすごく励まされて、温かい良い大会だなと思いました」
スポーツ業界に身を置き、シーズンスポーツ導入を模索
しかし、その経験がすぐに移住へと結びついたわけではなかった。
大学卒業後は、東京に留まり、トライアスロンの指導者として働くことも考えていたが、卒業式の翌日に東日本大震災が発生。世の中が慌ただしくなり、先行きが見通せなくなった。
一度、大阪に戻ることにした松下さんは、2年ほど、スポーツクラブでアルバイトをしたり、東京のスポーツイベント企画の会社でスポット的に仕事をしたりしていた。
そんな中で改めて思うのは、アメリカ時代に触れたシーズンスポーツ制度のこと。「日本にシーズンスポーツ制度を作りたい」という当初の志を、松下さんは諦めていなかった。
「日体大では一つの競技を突き詰めている人がほとんどだったので、例えば、箱根駅伝に出るような陸上選手がバレーボールは全然できないとか、サッカー部でかっこいいプレーをする選手が水泳で溺れかけるとか......そういう学生が少なからずいました。
体育教師を目指す人も多い中で、そうなると、学校でちゃんと教えられない人も出てくると思うんですね。そんな様子を見ていると、やっぱり小さい頃からいろいろなスポーツを経験するのは大事なのだなと改めて感じるところがあったんです」
教育の現場にシーズンスポーツの仕組みをつくるには、行政に入らないことには可能性が拓けないのではないか。腰を据えて働ける職に就きたいと考えていた松下さんは、折よく募集のあった藤井寺市の教育委員会スポーツ振興課に応募し、臨時職員として働き始めた。
スポーツ振興に尽力するも、思いも寄らぬ事態が
スポーツ振興課では、市内のスポーツ施設の管理、市民向けのスポーツ教室の企画・開催のほか、日体大と藤井寺市との地域協定の締結にも尽力した。
日体大は「自治体連携協定推進事業」と称し、大学と自治体がそれぞれの資源や人材を提供し合い、体育やスポーツ、健康づくりの観点から地域活性化や社会貢献に結びつける取り組みを行なっている。藤井寺市でもその協定を結ぼうとする動きがあり、松下さんはそのプロジェクトに立候補。2年ほどかけて実現させたという。
仕事が充実する一方で、想定外の事態が起こる。臨時職員として働いていた松下さんは、2年目で正式な採用試験を受ける予定でいたのだが、その年、突然募集要項が変更され、松下さんの年齢では試験資格がなくなってしまったのだ。
「親身になってくれた職員さんが抗議してくださったりもしたんですが、行政としての方針なので覆ることはなく。その時、日体大の協定の仕事が準備段階だったので、それが形になるまではいようと決めて.....2年目で協定を結び、せっかくなら一つくらい事業をやりたいと思って、結局、3年目までは勤めました」
しかし、このまま勤めても、臨時職員のまま、その先がないことは確定している。20代半ば、松下さんは人生の岐路を迎えた。
移住相談会へ。再び、巡り会った中土佐町
それからというもの、スポーツ振興に力を入れている全国の自治体を片っ端から受けていったという松下さん。はるばる北海道の網走市役所まで出向いたこともあったが、結果は芳しくなかった。
「いきなり大阪から網走まで行って、スポーツ振興やりたいですと言っても、やっぱり得体が知れないから受からないんですよね.......」
そんな時、目についたのが大阪で開催されていた高知県の移住相談会。「こんな選択肢もあるのか」という軽い気持ちで足を運ぶと、そこに中土佐町のブースが出展していた。
「そういえば、中土佐町ってあのトライアスロン大会で行った場所だなというのを思い出して、とりあえず、すごく良い大会だったということを、職員さんに伝えに行こうと思ったんです。そしたら、『今日何しに来たの?』『うちの行政職員どう?』と話が始まっていって.....」
話を聞いているうちに、職員さんの口から出てきたのが「七面鳥」の話題だった。
七面鳥×スポーツに感じた可能性
高知県の四万十川上流域に位置する中土佐町大野見地区では、50年以上前から七面鳥の生産が行われてきた。
四万十町で飼育されていた七面鳥を持ち帰ってきたのが始まりとされ、1987年には七面鳥を大野見の特産品とするべく、「大野見七面鳥生産組合」が発足。徐々に飼育数を増やしていった。しかし現在、事業の担い手不足が進み、このままいくと2040年頃には七面鳥の数が人口を上回る状況だという。
大野見の特産として「しまんとターキー」を推していきたい。しかし、何しろ七面鳥は日本では馴染みのない食材で......と、そんな話を職員さんから聞いた時、松下さんは、アメリカ留学中によく食べていた七面鳥のことを思い出した。七面鳥は現地で生活していれば、必ず口にする食材だったのだ。
「『七面鳥、知っていますか?』と聞かれた時、素直に『美味しいですよね』と答えたら、その反応が意外だったみたいです。大抵、『よく知らない』と返されることが多いみたいで。そこから急激に話が盛り上がっていきました」
七面鳥は高タンパクな食材としても世界的に知られている。タンパク質といえば、アスリートには欠かせない栄養素。ならば、アスリートの栄養食として七面鳥を提案するのは面白いのではないか。松下さんの中で「スポーツ」と「七面鳥」とが結びつくまでに時間はかからなかった。
「考えてみると、アスリートは食の重要性を身をもって知っているはずなのに、母校である日体大から一次産業に関わっていく動きってほとんどないんですよね。OBとして、ここで僕が(畜産業を)やるからからこその説得力もあるんじゃないかと思いました」
聞けば、「大野見で七面鳥生産を促進してくれる人を探している」という。相談会のあと、松下さんは早速、中土佐町を訪問することにした。
納得できるまで足を運び、移住を決意
七面鳥に可能性を感じた松下さんだが、移住となるとやはり大きな決断だ。1年半ほどかけて、合計4、5回、中土佐町に足を運び、本当にその場所でやっていけるのかを慎重に検討したという。
松下さんが移住を決める上で、気になったことはふたつ。
「外からやってきた自分を地域の人が受け入れてくれるのか」、そして「畜産経験がなくても仕事をしていけるのか」ということだ。
「正直、最初に足を運んだときは町の風景なんて全く目に入らないくらい、緊張していました。26、27歳くらいの頃で、ここである程度結果を残さないと社会的に信用なくなるぞといった切羽詰まった感覚もあったので……とにかく、受け入れてもらえるか、仕事ができるのか、それだけを確かめに行った感じでしたね」
七面鳥の農家さんと会い、話を聞き、飼育現場も見に行った。七面鳥の姿を実際に見たのはそのときが初めて。大野見では育てるだけでなく、※屠殺をし、食肉に成形するところまでを一貫して行っている。「命を取る」その現場には、今までにない緊張感があった。
「それでも、お会いした農家の方は、すごく前向きに話をしてくださいました。やっぱり七面鳥生産をやりたいと思って来てくれる人は、これまでなかなかいなかったみたいで、行政の職員さんもすごく熱心に対応してくださって。最終的に、自分自身も納得するかたちで移住を決めることができました」
こうして、2017年4月、地域おこし協力隊の制度を利用し、松下さんは中土佐町に移住した。
※屠殺(とさつ)家畜など動物を食肉・皮革などにするため殺すこと。
七面鳥の研究に明け暮れた3年間
移住してからは、まさに七面鳥一色の毎日。「屋根があればどこでも住める」と生活環境にはあまり頓着せず、ただひたすら七面鳥について学び、吸収する日々が始まった。
協力隊として活動した3年間は、中土佐町役場の農林課に席を置き、大野見七面鳥生産組合の仕事内容の把握、請求書作成などの事務作業、さらには実際の生産現場での技術習得などに時間を充てた。2年目で、大野見七面鳥生産組合の組合長に就任。松下さんの姿に事業の未来があると感じたのか、当時の組合長からすぐに譲り受けたポストだったという。
そのようにして、責任ある仕事を任されていった松下さんが、自身の大きなミッションとして取り組んだのが、大野見七面鳥生産組合の自立化。
「地方では、民間団体の事務局が役場の中にあるケースがすごく多くて、大野見七面鳥生産組合もその例外ではありませんでした。かつては、クリスマスの時期に役場の中に七面鳥の予約用の電話をわざわざ引いて注文を受けていたこともあったようで、僕が着任したときもまだ、役場が資料や請求書を作っていたりしました。
でも、一、民間団体の商品を役場が売るというのは時代錯誤だし、そろそろ生産組合を役場から切り離す必要がある。それは、絶対にやらなければいけないことだと思いました」
現在、大野見の七面鳥農家は2軒。繁忙期には外から手伝いに来てくれる人もいる。七面鳥の生産を独立した事業として成り立たせ、そうした人たちにしっかりと対価を支払える仕組みづくりをすることが、地域の生活を支えるという意味でも重要だと考えたのだ。
そのためには、七面鳥の価格の適正化が欠かせない。コロナ禍に見舞われたこともあり、目標としていた協力隊の3年間のうちには実現できなかったが、今年ようやく目処が立ったという。
「今、打ち出している価格でこれまで通りの販売数を確保できれば、ようやく七面鳥生産組合として独立してやっていける状況です」
「松下商店」を起業。大野見で七面鳥生産にかける想い
協力隊の任期を満了した2020年、松下さんは七面鳥の生産・販売を手がける「松下商店」を起業した。
現在、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組やケーブルテレビでの発信などを通して、「しまんとターキー」のPR活動にも力を入れている。しかし、その打ち出し方には難しさを感じる面もあるという。
「これは、自分の商売の下手なところなんですが......できることなら、お肉を買ってくれるお客さんに、大野見の七面鳥のことを3時間くらい、直接お話をして販売したいという思いが強いんですよね。だから今も手売りが中心で、注文も電話で受けているんです」
大野見の七面鳥は冷凍ではなく、生の肉を新鮮な状態で提供している。その分、価格は冷凍で販売される輸入の七面鳥の3倍ほどで、決して、手軽に買える値段とは言えない。しかし、一定の期間とは言え、生の七面鳥を日本で提供するのは業界では革命的なこと。それをいかに丁寧に伝えていけるかが大切だと松下さんは考えている。
「大野見の七面鳥の数は、僕が移住してから6年で倍増させて、今は800羽。でも、捌き手の人数にも限りがあるので、もうこれ以上は増やせない。この800羽をオーナー制のような形で、毎年、特別な2万5800人のお客さまに買っていただくのが究極の目標なんです」
近年、持続可能な社会づくりの機運が高まり、畜産業界ではアニマルウェルフェア(動物の福祉)の重要性が叫ばれている。ヨーロッパを中心に、人間が食べるためだけに動物の命を奪うことへの抵抗感が強まっており、日本の畜産業界も変化を迫られている状況だ。
大野見の七面鳥飼養農場では、広い空間にヒノキの木屑を敷き詰め、餌も大野見産の米や四万十川の清流を使用するなど、七面鳥にストレスを与えない飼育環境を整えている。お客さんの中にはこうした生産工程の見学を希望する人もいるという。
「最近は卵から販売して、それが孵化して、育っていく経過を見に来てもらう取り組みもしています。保健所とも連携して、希望する方には最後の屠殺まで一緒にやっていただくこともあります」
畜産業未経験の状態から、ここまでの信念を持ち、事業の仕組みを作り上げるのは並大抵のことではなかったはずだ。「3時間、話がしたい」という言葉には、こうした努力とこだわりが隠されているのだろう。
形を変えて実を結んだ、シーズンスポーツ制度
もともとは、「アスリートに七面鳥を届けたい」という思いから始まった七面鳥への挑戦。松下さんは町からの委託で「スポーツ振興監」の命を受け、食育やスポーツ事業も任されている。
中土佐町でも日体大との地域協定を締結して事業を進めているほか、町内の3つの小学校でスポーツを教えているという。大野見地区では、保育園、小学校、中学校合わせても、子どもの数は50人に満たない。部員数が揃わず、チームスポーツは全くできない状態だったが、そこで思いがけず生きてきたのが、シーズンスポーツの考え方だった。
「アメリカの制度とはまったく意図が違うんですが、春夏秋冬それぞれで、この時期はドッチボール、次はバレーボールという感じでみんなで集まって一つのスポーツをやれば、チームスポーツも楽しむことができる。移住して2、3年目くらいに僕から提案して、事業としてやらせてもらっています」
長年、模索し続けて来たシーズンスポーツ制度の導入も、こうして地域の課題と向き合う中で、形を変えて実を結びつつあるのだ。
主役は地域の人。脇役として、地域に恩返ししたい
地域にすっかり溶け込み、町の今後を担う存在として期待を寄せられている松下さん。しかし、「主役はあくまで地元の人。地域の一員として受け入れてくれた町の人に恩返しをしていきたい」と話す。
「七面鳥もテナガエビ養殖(松下商店を起業時に承継)も、今までの積み重ねがある事業の承継先として自分を選んで、責任ある仕事を任せてくれた、それは本当にありがたいことです。まだまだ事業は道半ば。結果を出しきれていません。あくまで脇役として、地域に雇用を生み出し、移住者を呼び込んだり、一度地元を出た人が戻ってくる場所をつくることが、お返しになるのかなと思っています」
松下商店ではすでに、中土佐町の小、中、高校生5人に将来の「内定」を出しているのだそう。
「最近は、小学4年生の子がよく手伝いに来てくれています。真空パックとかシール貼りとか、地味な作業がたくさんあるので、こちらとしてもありがたいんですが、強制しているわけではなく、自分で『今日は3時間頑張る』と時間を決めて自発的にやってくれていますね」
そんな子どもたちの姿を見ていると、嬉しさと同時に、彼らの人生に対する"責任"も感じているという。
「最初に内定を出した高校生がうちに就職しようとしてくれていて。もちろん、こちらとしても本気で内定を出していますが、『最初からうちに来るのはやめろ』と話をしています。まずは一度どこかへ出て、それでもやりたかったら戻っておいで、と。
大野見は人口が少ないし、基本的に学校には車で通うから、中学を卒業するまでに子どもたちが会う人の数は本当に限られているんです。それが、結構危ういと感じる部分があって。良くも悪くも世の中にはいろいろな人がいるんだということを、早いうちから知ってもらいたいと思っています」
大野見の人口は現在900人ほどで、平均すると月に約5人のペースで減少しているのだという。子どもたちに出会いの機会を作るため、そして町の存続のため、大野見に多くの人が足を運んでくれるようになると良いと松下さんは話す。
「まずは、大野見に接点を持ってもらうところから。知ってもらって、それが興味から共感へとつながっていかないと地域には来てくれません。ラジオやケーブルテレビの発信の場を活かして、少しずつでも草の根的に広めていけたらと思っています」
「やりたいこと」をできるのが一番
最後に、地方移住を考えている人に向けて、松下さんからメッセージをいただいた。
「自分が興味を持てるものがあることがいちばん大事だと思います。僕は、七面鳥の仕事を心底やりたいと思ってここに来たので。
中土佐町は高知の山奥ですけど、七面鳥を通じていろいろな人と話す機会が多いので、何一つ不自由は感じません。
ただ、どうしても人付き合いは得手不得手がありますよね。やっぱり山奥に行けば行くほど目立つので、それをちょっと苦に感じてしまう人は、もう少し大きなまちを選んだほうがいいのかもしれませんね」
高校時代、アメリカで出会ったスポーツと七面鳥が、巡り巡って結びつけた中土佐町の縁。松下さんが移住して今年で6年。地方に移り住むことで自身の活動の場を今までにないほど広げている姿は、とても生き生きとして見えた。
今いる場所で行き詰まった時、試しに目線を「地方」へ移してみると、そこには自身の経験や能力を伸び伸びと発揮できるフィールドが広がっているかもしれない。そんな可能性を感じさせる移住体験談だった。