移住者プロフィール
三輪 絵里奈さん
移住時期
2018年
出身地:静岡県浜松市、前住所:神奈川県、現住所:静岡県浜松市、職業:クリエイター
目次
INDEX
父のアトリエでのものづくりが活動の原点
静岡県西部に位置する浜松市は、うなぎ養殖で有名な浜名湖のほか、天竜川、遠州灘、天竜美林など、四方を豊かな自然に囲まれた政令指定都市だ。古くは、戦国時代に築かれた「浜松城」の城下町として栄え、綿織物や楽器の産地としても知られる。
そんな浜松の海辺の町で育った三輪さん。船の設計に関わる仕事をする父親の影響で、幼少期からノコギリとトンカチを使ってものづくりをするのが好きだったという。
「父の実家は大工さんで、家には父の趣味のアトリエがありました。私も小さい時からそこで刃物を触らせてもらって木彫りをしたり、ノコギリで木を切って組み立てたり、ペンキで色を塗ったり、いろいろなことをしていました」
そんなものづくりへの興味は、高校時代に所属した演劇部で、三輪さんを「裏方」の仕事へと向かわせた。
高校卒業後は、浜松を離れ、東京の大学に進学。いわゆる「大道具さん」と呼ばれるような舞台美術について学びたいと、演劇学科舞台美術コースを選んだ。
舞台美術からウェディングプランナーの道へ
大学卒業後は、これまで学んだことを活かし、舞台に関連した職に就きたいと考えていた。しかし、舞台の世界は狭き門。就職先はなかなか見つからなかった。そんな時に足を運んだのが、結婚式場の会社説明会だった。そこで三輪さんは、ウェディングプランナーの仕事と出会う。
「結婚式を作るのは、まさに演劇を作るみたいというか、各部門のプロフェッショナルが集まった総合プロデュースという意味で、すごくよく似ているなと気づきました。
ウェディングプランナーは、舞台監督に近いと思います。ひとつのパーティー演目を作るために、どういう風な工程でどんな役割を誰にお願いするのかということから始まり、引き出物はこれ、お花はこれ、ドレスはこれ……という風に細かく指示を出していきます」
そんなウェディングプランナーの仕事に惹かれ、結婚式場に就職。新郎新婦からふたりのストーリーを聞き、どんな式にするかを考える仕事はとても充実していた。
「作りたいもの」をかたちにしたい。デザインを一から勉強
しかし、就職して4年が経った頃。もともと自分で手を動かしてものをつくる作業が好きだった三輪さんは、打ち合わせや段取り中心の仕事に物足りなさを感じるようになっていく。
「ヒアリングするだけでなく、自分で招待状やオリジナルアイテムなどを作ってあげたいと思うようになりました。それで、25歳の時に仕事を辞めて、一旦浜松に帰ることにしたんです。そこで半年間、職業訓練校に通って、イラストレーター(デザインソフト)の使い方を学びました」
デザインの勉強をするのはそれが初めてだったが、作りたいものが明確にあったからこそ、習得は早かったようだ。
「ただデザインがやりたかったわけじゃなくて、その先に招待状とか席次とか作りたいものがあったので勉強はしやすかったです。今までは、作りたいものがあるのに、それをかたちにできないもどかしさがありましたが、 ようやく自分の頭の中にあること、やりたいことをかたちにする術を身につけることができたと思いました」
「子育て」と「仕事」の両立の難しさから、Uターン移住を決意
その後、結婚を機に再び浜松を離れ、神奈川県で暮らし始めた三輪さん。第一子が生まれてからは、在宅で知人の仕事を手伝いながら育児に励む日々を送った。その時、頭を悩ませていたのが幼稚園の問題だった。
「本当は保育園に入れたかったけど、保育園には働いていないと入れないし、入れる保証がないのに働けないしで、結局、幼稚園しか選択肢がなかったんです。
旦那は九州エリアに出張していて平日はほとんど家にいないし、親も近くにいないから子どもを預けることもできないしで、ちゃんと仕事ができないまま、幼稚園入園を決めました。結構、八方ふさがりだったんです」
それならばと、三輪さんは再び、浜松に帰る決断をする。2018年のことだ。
仕事を続けていくための「移住」という選択
三輪さんが浜松にUターン移住しようと思ったのは、在宅で手伝っていた仕事も関係していた。浜松市の都田(みやこだ)にある「都田フォトウェディング」のデザイン監修の仕事だ。
「私が地元でデザインの勉強をはじめた時にできた仲間が代表を務めています。立ち上げの時にいろいろと相談を受けて、ホームページを作るお手伝いなどをしていました。
初めのうちは遠隔で作業できていたんですが、だんだん撮影とかで現地に行かないといけないことが増えてきて。子供を連れて新幹線で浜松まで行くこともありましたが、幼稚園が始まるとそういうこともできなくなってしまって.....」
このままでは仕事を続けていくのが難しい。そんな状況に追い込まれたことが、移住を決意するひとつの後押しになったようだ。
移住後は、タイミング良く保育園の空きが見つかり、フォトウェディングの仕事とともに、浜松での新しい生活が一気にスタートした。
移住先はあえて実家から離れた場所に。移動には「赤電」が便利
浜松市は日本のほぼ中央に位置し、東京と大阪の中間地点という立地から、鉄道、高速道路、航空路などの交通網が発達している。大都市圏からのアクセスが良い反面、市内に目を向けると、移動手段は車が中心。飲み会のあとはタクシーや代行車を手配する必要があるなど、「若い人や独身の人には不便かもしれない」と三輪さんは話す。
そんな交通事情を抱える浜松市民を生活の足として長らく支えてきたのが、浜松市内を南北に走る西鹿島線だ。明治40年代に創業した遠州鉄道が運行する路線で、車体の色から「赤電(あかでん)」という呼び名で親しまれている。
三輪さんはUターン先を決めるとき、あえて実家の近くではなく、この赤電の沿線を選んだ。
「実家から浜松駅までは車で30分近くかかります。今でも出張が多い旦那には自力で行ってもらう必要もありましたし、今後子どもたちが大きくなった時にも子ども自身が動きやすいと考えました。赤電はだいたい12分間隔で走っているし、雨の日も遅れずに浜松駅まで行けるのですごく便利なんです」
「Uターン移住」と聞くと、実家の近くに住むことをイメージする人も多いだろう。しかし、地元に戻るからといって、必ずしもそれまでと同じ生活圏で暮らす必要はない。
「自分の都合を優先して利便性の良い場所を選ぶのも手」と、三輪さんは実体験を踏まえて教えてくれた。確かにその視点は、意外と見落としがちかもしれない。
移住者が増え、苦手だった「内輪な雰囲気」も変化
「浜松は、山や川、海に挟まれ自然豊かなで作物もたくさんあり縦に長く広いまちです。それぞれの地域で生活が成り立ち、街全体の特徴が色濃く出ませんが、その分、日常生活を送り子育をしていくには過ごしやすい町かなと思います」
浜松の魅力を、そのように話してくれた三輪さん。しかし、以前、浜松に住んでいたときは、地方独特の「内輪な雰囲気」が苦手だったという。同じ学校出身だったり、共通の知り合いがいたりすると、それが相手の心の扉に直結する。
地元への愛着ゆえでも、県外からやってくる者にとっては、疎外感や肩身の狭さにつながってしまうこともあるだろう。
しかし、そうした雰囲気も徐々に変わりつつあるようだ。
「県外出身の移住者が増えてきて、浜松にゆかりのない夫婦やママ友と仕事で知り合うことも増えました。そういう人たちのほうが気が合ったり、話しやすかったりもしますね」
斜陽化が進む「浜松注染染め」の支援プロジェクトに参加
浜松に戻ってきてから、これまでの仕事のつながりだけでなく、新しい人脈を自分の力で広げていきたいと考えた三輪さんは、挑戦の意味もこめてある取り組みに参加した。
コロナ禍によって打撃を受けた「浜松注染(ちゅうせん)染め」の産業を、クリエイターの力で支援するプロジェクトだ。
ジョウロのような道具で染料を注いで生地を染める「注染染め」。浴衣や手ぬぐいによく使われる日本特有の染め方で、浜松では大正時代に始まったとされる。
染料や糊を洗い流すための豊富な水や生地を乾かすための強い風(遠州のからっ風)に恵まれていたこともあり、浜松は注染染めの一大産地となった。
しかし近年は浴衣の需要低下、安い海外製品の広がりなどによって斜陽産業化が進み、新型コロナウイルスの流行がそこに追い討ちをかけた。
「浜松注染染めは、全国のお祭りで使われる手ぬぐいが主力の収入源でした。コロナでお祭りが相次いで中止になって受注が減り、染工場が経営難に陥ってしまったんです。このままでは静岡の伝統工芸が途絶えてしまうという状況のなかで、浜松市の地域振進行課の声かけでクリエイターを募り、支援プロジェクトが立ち上がったんです」
プロジェクトに参加した三輪さんは、染工場の見学などを通して、注染染めが置かれている現状を少しずつ理解していった。
そこで感じたのは、これまで企業を相手に商売していた染工場は、一般顧客に向けた発信やアピールが苦手だということだった。
やっていくなかで「工場は、いろいろな建前の中での制限があり、発信していく難しさや人手不足である」ということがわかってきたという。そうしたなかで、支援プロジェクトとしては、クリエイターがアイデア出しをするかたちで協力していこうという方針だった。
「これからは自分たちで"浜松産"の魅力を発信していかないといけないー。
乗りかかった船じゃないけど、プロジェクトでチーム編成が一緒だった4人で会社(風しずく合同会社)を作って、注染業界を底上げしていけるような取り組みを自分たちでやっていこうということになったんです。
手ぬぐいを使って新たな展開ができないかということで作ったのが『注染レター』です」
絵手紙のように届けられる手ぬぐい「注染レター」
これまでアプローチできていなかった20代、30代に響く商品を作りたいー。
そんな思いから生まれた注染レターは、注染染めの手ぬぐいを、絵手紙を贈るように郵便で届けられるパッケージだ。手ぬぐいの軽さを活かしたアイデアで、140円切手を貼り、ポストに投函することができる。パッケージにはメッセージも添えられる。
届いた手ぬぐいはそのまま壁につるしたり、立てかけたりして、絵画のように飾って楽しめる。表に出る手ぬぐいの位置を移動させれば、また違った印象に変化するのも魅力のひとつだ。もちろん飾るだけでなく、使うこともできる。
「まだ今年(2022年)の8月にできたばかりで、プロモーションもこれからなんです。メンバーにはカメラマン、ビデオグラファー、ウェブデザイナー、いろいろなジャンルのクリエイターが揃っているので、今後のプロモーションで自分たちの良さを出していきたいと思っています」
浜松での認知を広げつつ、全国に広げていきたい、という三輪さん。
「工場の人が喜んでくれて、私たちのことを仲間として認めてもらえるまで、頑張っていきたい」と目標を話してくれた。
商業デザインにも挑戦中
三輪さんは現在、コンテナや窓ガラス、壁などに手書きの絵や文字を描くサインペインターのほか、ロゴやパッケージ、名刺などを手がけるデザイナーとしても活躍している。
最近、三輪さんがパッケージデザインを担当したのが、明治8年創業の浜松の老舗「明治屋醤油」とコラボレーションした「静岡BBQソース」と、そのソースの味を再現した「静岡BBQポテトチップス」だ。
「静岡県バーベキュー協会」のオリジナル商品で、「都田フォトウェディング」と共通のつながりから任せてもらった仕事だという。国産の高級感を感じさせる黒と金のパッケージが印象的で、今後もこのデザインで商品展開をしていくという。三輪さんにとって、初めてパッケージデザインの面白さを教えてくれた仕事になった。
「イベントのお知らせとかお店のチラシはその日が終わったら捨てられてしまうものだけど、パッケージは商品の顔としてどんどん広がっていく。それが純粋に楽しいなと思えました」
バーベキューソースのデザインを気に入ってくれた静岡のショップからも、新しい仕事の依頼が舞い込んできた。健康な体づくりとその維持をテーマにした食品を販売する「アスリート食堂BASE TABLE」の「ViTAL RECiPE(バイタルレシピ)」。三輪さんは、パッケージデザインや撮影のディレクションを担当した。
ある時、注文してくれた友達に言われた言葉が印象に残っているという。
「『こういうデザインをするとき、ウェディングプランナーというルーツがすごく生きているね』って。
ウェディングプランナーの仕事は、結婚式を作るために、ふたりの馴れ初めとかを詳しくヒアリングするんですけど、確かに、パッケージデザインにも似たところがありました。デザインに辿り着くまでに何度も何度もヒアリングするんですよね。
私は、結構、遠慮なく聞いちゃいます(笑)。それで『あとはお任せするよ』って言ってもらえるのが、一番嬉しいですね」
地方で活動を広げていくには?
Uターン移住してから、次々に新しいことに挑戦している三輪さん。浜松は「クリエイティブな活動をしている人がどんどんつながっていける場所」だと感じているという。
「人のつながりが濃い地域だからこそ、みんな紹介してくれるんです。『デザイナーしているなら今度、(デザイナーを探している)農家さん紹介しますよ』という感じで、そんなきっかけでつながっていきます。これは多分、神奈川にいたらなかったことですね」
また、昔からものづくりが盛んな浜松市は、文化・芸術に対する市民の意識も高いようだ。その象徴とも言えるのが、浜松市鴨江町にある「鴨江アートセンター」だ。
2013年に開館した同センターは、年間を通してさまざまな展示やイベント、ワークショップなどを企画、開催しており、アーティストやクリエイターに制作スペースの無償提供も行っている。1928年に建てられた建物自体に文化的な価値があり、かつて解体処分が決定されたときには、市民の保存活動によって守られた経緯もある。
「浜松に移住してくると、まず鴨江アートセンターに遊びに行くクリエイターは多いです。そこに登録して、展示会を開いたりすると、館長がそれを紹介して一気に広めてくれたりして、クリエイター同士のコミュニティがどんどん広がっていくような感じです」
人が人を介して結びつきやすいこと、地域に文化振興の拠点があること。この2つが浜松でクリエイティブな活動を広げる強みになっているようだ。
移住前の仕事の縁は残しておくと安心
一方、東京と比べて、デザインや広告に費用をかける企業は少なく、クリエイティブな仕事をしている人がすべての仕事を浜松でまかない、生計を立てていくのは難しい面もあるという。
「例えば、東京の広告にかけるの予算に対して、浜松では約半分くらい。ただ実際のところ、東京の制作会社に依頼してる企業も多いという。デザイナーは浜松で東京の仕事をして、浜松の企業も東京に仕事を依頼する。浜松にも素晴らしいクリエーターがたくさんいることがきっと残念ながら伝わっていない。」
だからこそ、地方に移住し、クリエイティブな活動がしたい人は、「移住前の仕事の縁はできるだけ消さないほうが良い」とアドバイスをくれた。三輪さん自身、浜松での生活がスムーズに進んだのは、移住する時点でフォトウェディングの仕事が基盤としてあったからだった。
「関東とか主要都市から移住する場合は、それまでの活動拠点を残したまま、グラデーションで移住していくのが一番良いんじゃないでしょうか。浜松はアクセスもいいので、東京でも、大阪でも、今までやっていた仕事は継続できるようにしておくと安心だと思います」
自分らしく“動く”ことで、ものづくりの道は続く
「自分らしく“生きる”というより、自分らしく“動ける”ことが大事だと思っています」
そう話す三輪さん。浜松にUターンし、新しいことに挑戦することで、その肩書きは年々更新されていく。
どの仕事も甲乙つけがたく面白いというが、今後、まず力を入れていきたいことのひとつは、注染レターのプロモーション。
そうした活動を通して、「発信が苦手な地元の企業のお手伝いをしていきたい」と話す。
これまでは一人で作業することが多かったが、注染レターはその中で唯一、チームで動いているプロジェクトだ。
「一人じゃできないことがどんどん広がっていく感じがして、ワクワクしています」とその表情は明るい。
父のアトリエから始まったものづくり人生。日曜大工が舞台美術へ、舞台美術がウェディングプランナーへ、ウェディングプランナーが商業デザインへとつながってきたように、きっとこの先も、三輪さんなりの独自の軌道を描きながら、創作活動は続いていくのだろう。
移住したからこそ広がった可能性ー。
今後も彼女が生み出す作品に注目していきたい。