移住者プロフィール
桂川美帆さん
出身地:東京都世田谷区、前住所:神奈川県、現住所:静岡県浜松市、職業:染色作家
目次
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将来を迷う中で出会った伝統工芸の世界
「子どもの頃から絵を描くのが好きで、描くと大人に褒められて、また描いて、褒められて、うまくなって……その連鎖でしたね」
そう話す桂川さんが、本格的に美術の世界へと足を踏み入れたのは、高校生の頃。美術科の学校でみっちりと油絵を勉強した。
「将来は、絵を描く仕事ができればと漠然と考えていたのですが、当時主流だった現代アートの作品を見ているうちに、自分が本当にそれで食べていけるのか、やり続けられるのか、自信が持てなくなって......」
そんな時に足を運んだ展覧会で出会ったのが、人間国宝でもある漆芸家・松田権六の作品。
「『草花鳥獣文小手箱』という作品を見て、ものすごく感動したんです。金がふんだんに蒔かれた箱に、動物や鳥たちが走ったり、飛び回ったりしている様子が描かれたもので、実は箱の内側に獅子がいて、その吠え声で生き物たちが逃げ出している様子なんです。その姿があまりに可愛らしくて。
伝統的な技術というと、古めかしいものと捉えられがちですが、受け継がれてきた技術にその作家が生きた時代の感覚が組み合わさると、こんなに素敵な表現になるのかと感動しました」
日本古来の染色技法・ろうけつ染の伝統をつなぐために
工芸を勉強しようと心が決まり、東京藝術大学の工芸科に進学。漆や金工、陶芸など、さまざまな技法を学ぶ中で、最も興味をもったのが染色だった。
「絵を描くのに似ていながらも、たくさんの色を使いながら絵具とはまた違う表現ができるところに惹かれました」
染色の中でも、桂川さんが専門として選んだのがろうけつ染め。日本で最も古い防染技法の一つで、液体状にしたロウを布につけることで、その部分だけ染料液が染み込まずに模様が生まれる。
「油絵は、キャンバス地に顔料と糊剤を混ぜた絵の具を重ねていくので、どんどん表面が盛り上がっていきますが、ろうけつ染めはいくら色を染め重ねても、ロウをお湯で洗い流してしまえば、一枚のフラットな布になる。その潔さ、すがすがしさがすごく面白くて。
こうした染色の技法というのは、水が豊かで四季がある日本の風土とも深く関係していると思います」
西洋から入ってきた油絵に対置するものとして、ろうけつ染めをとらえているという桂川さん。およそ1300年前と変わらない日本古来のやり方で作品を表現できることにロマンを感じると話す。
「当時の人から脈々と受け継がれてきたものの延長線上に自分がいて、今、自分がやっている表現がその一部となって、伝統をつないでいく。それはとても意義深いことだと感じています」
日常の出来事をかみ砕き、作品として昇華
眠っていた記憶を呼び覚ますような色彩の取り合わせが印象的な、桂川さんのろうけつ染め作品。
中でも特に思い入れが深いのは、2014年に東京藝大の博士審査展のために制作した作品だという。
「博士課程に入学する直前に、まだ若かった母を亡くしました。お葬式で棺にお花を入れて出棺する光景が、すごく悲しいのだけれど記憶に残っていて。それで作ったのがこの作品です」
掛け軸のような11枚が連なる大作で、単体でも成立しつつ、図柄がつながることで日本の原風景のような色彩世界が豊かに立ち現れる仕掛けとなっている。
感覚的にイメージが描写されているようにも見えるが、実際には色の濃淡や重ねる順番、滲ませ方にいたるまで、緻密な計算に基づいて表現されているという。
「私たちは、自分に起きた出来事を日常の中で何とかかみ砕きながら生きていくもの。アーティストをやっていてよかったなと思うのは、そうした自分の内側にある世界を作品として表現し、昇華させることができた時です。作品を通して、他者とのコミュニケーションが生まれるのも醍醐味のひとつですね」
「キャリア」か「子育て移住」か。迫られた決断
そんな桂川さんが、静岡県浜松市に移住したのは2019年1月。夫の転職による突然の移住だったという。
当時、染色作家として活動しながら、東京藝大に非常勤講師として勤めていた桂川さんは、大きな決断を迫られることになった。
「その時、私は一人目を妊娠していて、休職して新学期には仕事に戻る予定だったんです。でも、移住するとなると、東京でこのまま働き続けることは難しい。女性で研究職を続けていくことの難しさを痛感しました」
夫が浜松に単身赴任する案なども検討したが、最終的には一人目の子どもを育てるにあたって、両親が二人そろってそばにいたほうが良いだろうという結論になった。
「結婚、出産、あるいは介護……女性がやらなければならない役割というものがこの社会にはまだ根強くあって、思い描いていた人生設計が、いきなり分断されてしまうような感覚がありました。
ただその後、大学の先生方のご協力のおかげで、年に数回だけですが、授業を担当させてもらえることになりました。浜松は新幹線で東京まで1時間ほど。そういう意味では、満員電車に悩まされることもなく、通勤はむしろ快適になりましたね」
豊かな自然に恵まれた浜松での暮らし
こうして、仕事の整理や出産、その後の育児というドタバタの中で浜松へと移り住んだ桂川さん。
当初はなかなか住環境まで意識を向ける余裕がなかったが、住み始めるうちに浜松の町としての魅力に気づくようになったという。
「私は世田谷出身なので、それなりに自然豊かな環境で育ってきたつもりでしたが、浜松に来てみたら、『自然豊か』のレベルがあまりに違ってびっくりしました」
市街地から30分ほど車を走らせれば、浜名湖や緑豊かな山が広がり、その先には鍾乳洞やエメラルドグリーンの美しい渓谷、さらには日本三大砂丘のひとつに数えられる中田島砂丘などもある。そうした身近にある自然の豊かさは、移住の思わぬ副産物となったようだ。
「渓谷の水の美しさには本当に感動したし、滝のまわりの空気の清らかさにも、いい意味でショックを受けました。観光地化されていない場所も多くて、驚くほど人のいない海も見られます」
「子育て」と「産業の衰退」。直面した2つの課題
その一方で、母として、染色作家として、暮らすことで見えてきた課題もある。
「まず、移住して子どもを育てる中で、周りのサポートを受けられず、孤独を感じることがとても多くて。それは私だけではなく、同じように移住してきたほかのお母さんたちも感じていることのようでした(浜松は大企業が多いため、転勤してくるご家族が多いんです)。
私は一人目の子どもは神奈川で、二人目は浜松で産んだのですが、同じ子どもを産むということに対して、自治体ごとの支援にずいぶんと差があることにもモヤモヤしました」
布を扱うアーティストという立場からは、浜松の一大産業である繊維産業の現状に大きな危機感を持った。
「せっかくなら、遠州織物として知られるこの土地の布を染めてみたいと思い、あちこち探すうちに、廃棄される予定だというからみ織りの布と出会いました。これが、レース模様にも似た布地の、見たこともないような素晴らしい布でした。それなのに、『工場がつぶれてもう作れない』と。
更地になった工場跡地まで足を運び、浜松の名工にも選ばれたという80代の職人さんにお話をお聞きしました。とても高度な技術力を持っていらっしゃるにもかかわらず、だんだんと生地の注文数が減り、後継ぎもいなかったので廃業してしまったのだそうです。
伝統的な素晴らしい技術が途絶える瞬間を目の当たりにしている。そんな感覚がありました」
同じからみ織りであってもやり方が少しずつ違うため、まだ稼働しているほかの工場に技術継承を試みることも難しい。一人の職人が廃業したことで、その前工程の会社も仕事がなくなり、連鎖的に技術が途絶えていく。これはその始まりだとショックを受けると同時に、何とかしなければと強く思ったという。
オール遠州で作り上げた「はままつベイビーボックス」
こうして、子育てと繊維産業にまつわる2つの課題意識を出発点に、桂川さんが浜松で立ち上げたのが、フィンランド発の取り組みに着想を得た「はままつBABYBOX Project(ベイビーボックスプロジェクト)」だ。フィンランドでは、子どもが産まれると、政府から「ベイビーボックス」と呼ばれる育児用品の詰め合わせが無料で贈られるのだという。
桂川さん発案の浜松版は、スタイやてぬぐい、おくるみなど6つの布製品を詰め合わせたもので、すべての素材に遠州織物が使われている。
「遠州織物と一口にいっても、素材や風合いはさまざまです。それぞれの会社さんが独自の技術を持ち、お互いにかぶらないような製品づくりをプライドを持ってされていて、とても面白い産地なんです。タオル地やガーゼ地、綿素材、麻素材、からみ織り……いろいろな織物を組み合わせたセットにすることで、地域の特色を生かせると思いました」
素材だけでなく、縫製や外箱、モビールに使う木のパーツ、おもちゃの監修、ロゴやリーフレットのデザインにいたるまで、すべて浜松の企業や生産者、クリエイターに依頼。一軒一軒アポをとったり、人づてに声をかけ、地道に協力者を増やしていったのだという。
まさにオール遠州で、ものづくりのパワーを結集させたベイビーボックスには、購入者からもさまざまな反応が届いている。
「その中には、私と同じように移住して心細い中で子育てをしているという人もいました。そうした声を聞いていると、大変な状況で子育てをしている人がやはり多いのだなと思う一方、想いをきちんと届けられたという実感もありました」
世代を超えた布体験の循環を目指して
遠州織物には触れて初めてわかる良さがある。そう話す桂川さん。
「赤ちゃんは生まれるとすぐに、柔らかな布で包まれる。人間がこの世界で最初に触れる素材は布なんですよね。そうした触感体験というのは、その後の人生においてもずっと心の中に残っていくと思うんです」
ベイビーボックスの箱を頑丈に作っているのも、赤ちゃんの時に身に着けた服を保存し、大人になった時に思い出ごと取り出してほしいから。
「そして、その体験を今度は自分が別の誰かに手渡す。ベイビーボックスで、そうした絆の循環をつくり、遠州織物の良さを世代を超えて知ってもらえれば、それが地域産業を守ることにもつながるのではないかと思っています」
最終的には、フィンランドのように、行政がベイビーボックス事業に取り組んでほしいという思いもある。
「どうしても自分たちだけでは届けられる数に限りがあります。浜松市や静岡県が行政レベルで取り組んでくれれば、その年に生まれた地域の子どもたち全員にベイビーボックスを届けることができる。
それが、行政の育児支援のひとつとして注目されれば、移住したいという人も増えるかもしれません。ベイビーボックスというかたちではなくても、私たちが働きかけをしたことで、行政が新しい育児支援に乗り出してもらえたら嬉しいですね」
「自分の能力を発揮できる場所がある幸せ」
伝統工芸に魅了されてスタートした桂川さんの作家人生。浜松への移住は、遠州織物の伝統を布体験を通じて次世代に手渡すという新たなる挑戦の始まりでもあった。
最後に、そんな桂川さんから、地方移住を検討している方に向けてメッセージをいただいた。
「私が移住して気づいたことは、自分の能力やスキルを発揮できる場所があるのは、とても幸せなことだなということ。ベイビーボックスの活動を浜松で始めたからこそ、私の動きが誰かの役に立っている、社会に貢献できているという手ごたえを感じられる場面がとても多いです。
日本の繊維産業が衰退していることは、東京にいた頃から感じてはいたけれど、浜松に来たことでその解像度がぐっと高まった。来てみることで新しく広がる世界というのは確実にあって、それは社会のためだけでなく、自分にとっての豊かさにもつながっていると感じています」
浜松への移住を通して、からみ織りの美しさに感動し、遠州織物の危機を知り、染色作家だからこそ担える役割を地域社会の中で果たしている桂川さん。
それは、その人とその地域が「暮らし」という接点を持って初めて可能になったことなのかもしれない。