移住者プロフィール
川上椋輔さん
出身地:宮城県、前住所:北海道札幌市、現住所:北海道弟子屈町、職業:法人経営
目次
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人々の日常に溶け込むアナウンサーという存在
1995年宮城県生まれの川上さん。初めてアナウンサーを意識したのは、2004年のアテネオリンピックがきっかけだった。当時小学生だった川上さんは、「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ!」という名実況を耳にし、そのカッコよさに憧れを抱いたという。
次の転機となったのは、中学生時代に経験した東日本大震災である。川上さんの地元は内陸部に位置し、津波の被害は少なかったものの、長期間の停電により日常とはかけ離れた生活を余儀なくされた。
「電気が復旧してテレビをつけたとき、仙台放送のアナウンサーがニュースを読んでいました。その瞬間、顔も名前もよく知らないアナウンサーなのに『ああ、日常が戻ってきた』とホッとしたんです。この時、アナウンサーという仕事が、人々の日常に溶け込み、生活の一部として大切な役割を果たしていることを実感しました」
この経験を通じてアナウンサーを志すようになった川上さんは、横浜国立大学を卒業後、北海道文化放送に就職し、夢を実現する。なぜ北海道だったのだろうか。
「宮城の放送局では男性アナウンサーの募集がほとんどありませんでした。どうしようかと悩んでいた時、震災を通じて興味を持つようになった、まちづくりや地域活動のことが頭をよぎりました。地元にこだわらず、地域課題を抱えながらもメディアとして活動の余地がある場所に目を向けるようになったのです。その結果、内定をいただいたのが北海道文化放送でした」
川上さんの選択には、震災を通じて培った価値観と、アナウンサーとしての強い志が反映されている。
被災地を密着取材。膨らんでいったある思い
北海道札幌市での生活を始め、アナウンサーとして情報を伝える側になった川上さん。そんな矢先、2018年9月に胆振東部地震が発生する。北海道で初めて震度7を観測した大地震だった。
「地震は早朝に発生しました。会社に到着すると、新人であることは関係なく『現場に行け』と指示され、液状化被害を受けた地域の取材を担当しました。僕自身、被災報道や被災地での活動には強い思いがあったので、その後も被災地に密着した取材を続けました」
その取材の成果として、川上さんは新人としては異例のドキュメンタリー番組制作を手がけることになった。
「取材を通じて、あまり知られていなかった被災地の現状や、地震発生直後と時間の経過による被災者の困りごとの変化が見えてきました。それらを一つの番組にまとめて伝えたいと思い、企画を提出しました。映像制作の知識はほぼ皆無でしたが、実現に至りました。入社1年目で密着取材や映像制作を経験し、被災地の方々の復興に向けた歩みを間近で見ることができたのは、本当に貴重な経験でした」
一方で、大きなもどかしさも感じるようになったという。
「アナウンサーとして、目の前で起きている出来事を伝えることは重要な役割です。しかし、取材現場では、住民や行政、企業がその後も地域のために奮闘し続けている姿を目にします。その姿を見るうちに、自分も当事者として地域にもっと深く関わりたいという思いが日に日に強くなっていきました」
その思いが退職の決意と繋がったのは、アナウンサー3年目となる2020年6月。新型コロナウイルス感染症が拡大していた頃だった。
「行動制限の影響で取材に出る機会が大幅に減りました。この感染症が短期間で収束するわけではないことも感じており、数年続く状況下で働き続けることに違和感を覚えました。行動を起こすならこのタイミングだと思い、決断に至りました」
偶然が重なり結ばれた弟子屈町との縁
当初、川上さんは一旦関東に戻り、学生時代に縁のあった鎌倉でまちづくりを学ぶ予定だった。しかし、北海道を離れる日が近づくにつれ、多くの学びと気づきを与えてくれたこの地を去ることに対する割り切れない思いが次第に膨らんでいった。
そんな中、偶然目にしたテレビ番組「笑ってコラえて!」のダーツの旅コーナーに、川上さんが社会人2年目の時に出会った道東テレビ代表の立川彰さんが登場していた。
「立川さんは『笑ってコラえて!』のアシスタントディレクターから映像制作を始め、北海道に移住後、自らインターネットテレビ局を立ち上げた方です。地域密着でまちづくりと情報発信を融合させた取り組みは、当時から私にとって大きな刺激でした」
番組内で、立川さんが投げたダーツが刺さったのは北海道弟子屈町。これを見た川上さんは思わず衝動的に立川さんにメッセージを送る。
「アナウンサーを辞めて、いつか立川さんのようなことをやってみたいんです、と伝えました。すると、立川さんがちょうど一週間後に札幌に来る予定だとわかり、直接お会いできることになったんです」
さらに、思わぬ偶然がこのタイミングで重なる。立川さんと会う約束をした直後、川上さんが道東テレビがある津別町の情報を調べていた際、隣接する弟子屈町で地域プロモーション部門の地域おこし協力隊の募集が行われていることを知る。しかも申込期限はわずか1週間後だった。
「これはもう運命としか言いようがありませんでした。これしかないと強く感じ、何かに突き動かされるように、気づけばエントリー用紙を記入していました」
その後、立川さんとの再会で、弟子屈町が映像制作の人材を必要としていることや、道東が持つ可能性について話を聞き、川上さんの決意はさらに強まった。こうして、弟子屈で新たな挑戦を始めるという決意は確固たるものへと変わっていった。
ダイナミックな自然に包まれる弟子屈での暮らし
2020年10月、川上さんは弟子屈町の地域おこし協力隊に就任し、札幌を離れて弟子屈町に移住した。
弟子屈町は道東の中央部に位置し、その面積は東京23区を合わせたものよりも広大である。町内は、日本一の透明度を誇る摩周湖や日本最大のカルデラ湖・屈斜路湖、今も噴気を上げ続ける硫黄山、そして全国的にも珍しい強い酸性のお湯が特徴の川湯温泉など、ダイナミックな自然やその恵みを味わえる場所だ。
「地熱が豊富で、家の蛇口をひねると温泉が出てくるんです。町の65%は阿寒摩周国立公園内にあり、住民の多くがその中で暮らしているんですよ。身の回りにある資源のスケールが、他の地域とは桁違いだということを暮らし始めて実感しています」
また、道東エリア特有の気候も気に入っているという。
「夏は涼しくエアコンがいらないのが助かります。冬は寒さが厳しいものの、ほかのエリアと比べると雪は少なく、晴れの日が多いんです。季節の違いがはっきりしているのも魅力ですね」
しかし、極寒地域ならではの試練もあった。
「冬は水道管の凍結を防ぐために水抜きが必要だということを知らず、数日間家を空けてしまったことがありました。帰宅すると水道管が破裂していて、その冬は水が使えない生活を送りました…。近くの温泉を利用して、なんとか乗り切りました」
町への理解を深め、愛着を育むために
川上さんの地域おこし協力隊としての主な役割は、弟子屈町公式のYouTubeチャンネルの運用であった。地元のお店や移住者、地域イベントなどを取材し、毎月5~10本の映像を制作して地域情報を発信。アナウンサー時代に培った知識と経験を活かし、企画から撮影、編集まですべてを行った。
映像制作を通じて地域の人々と触れ合うことで、「よそもの」としての立場から一歩踏み込み、町の暮らしにも馴染むことができたという。
「地域の人たちと共に時間を過ごすうちに、自然と深い関係性が築けました。協力隊という肩書きのおかげで、地域の皆さんに受け入れてもらいやすい環境が整っていたことも大きな助けになりました」
そう語る川上さんの目線は、常に地域の中に向いている。町への理解や愛着を内部から醸成できたらと、外部へのプロモーションよりも、むしろ地域住民に向けた情報発信を意識した。
「同じ町で暮らしていても、例えばあるお店の店主がどんな思いで仕事をしているのかを知る機会は意外と少ないですよね。でも、そうした日常の中にこそ、独自のストーリーが詰まっている。大きなメディアでは取り上げられないこうした情報を記録に残し、それを地域の人々に届けることはとても意義があると感じました。たとえ視聴回数が100回でも、それが家族や常連客による100回なら、流し見される1万回よりもずっと価値があると思っています」
川上さんのこうした取り組みは成果を上げ、当初300人ほどだったチャンネル登録者数は、現在約5,800人(2024年11月現在)にまで増加。目標としている町の人口約6,600人も目前に迫っている※。
※川上さんは2024年10月に4年間つとめた協力隊を卒業。公式チャンネルの運用は現役の協力隊員に引き継がれた。
会社設立で地域課題にアプローチ
協力隊に着任して1年半後、川上さんは合同会社BASECAMP TESHIKAGAを立ち上げ、法人としての活動もスタートさせた。
「起業した理由は、協力隊を卒業した後も弟子屈町で活動を続けるための基盤を作りたかったからです。法人化することで、個人では受けられない仕事も取り組めるようになり、活動の幅が大きく広がりました」
現在、川上さんは映像制作を軸に、コワーキングスペースの運営、空き家を活用した移住定住の促進、イベント開催など多方面で事業を展開している。
また、2024年8月からは弟子屈高校の地学協働コーディネーターとして、地域と高校を結び付ける取り組みにも力を注いでいる。「この土地だからこそ学べること」を増やし、生徒数が減少する高校の魅力向上や存続に尽力している。
それらの多岐にわたる活動の根底には、常に「取材」があると川上さんは語る。
「自分がやりたいことを優先するのではなく、取材を通して浮かび上がる地域課題に向き合うようにしています。
例えば、空き家の活用は取材で『この空き家をどうにかしたい』という声を聞いたことがきっかけでした。また、『新しいことに挑戦したいけどプロモーションが苦手』という声には、人と人をつなぐ役割を担ったり。地域の話に耳を傾け、そこで必要とされることを実践する姿勢を大切にしています」
こうした活動を続ける中で、弟子屈町全体の気運にも変化を感じるようになったという。
「最近では、まちづくりに関わる事業を始めるかたが増えてきたり町の選挙に興味を持つ人が増えたりと、自分たちの町への当事者意識を持つ人が確実に増えていると感じています」
川上さんの取り組みは、地域課題への具体的なアプローチだけでなく、町全体の意識変革を促す大きな力となっているのだろう。
地域の実践者としての挑戦は続く
今後は、現在の事業を軌道に乗せ、人を雇える地盤をしっかりと築きながら、仲間を増やしていくことを目標に掲げる。そのためには、自分自身の覚悟をさらに固めることが必要だと語る。
「これからは事業承継も大きなテーマになると考えています。弟子屈では、インフラ関係や伝統工芸など地域に根ざした事業を、自分たちの代で閉じようとしている人が多いんです。中には、そもそも誰かに引き継いでもらうという選択肢を考えていない人もいます。こうした事業が次々と消えていくのは本当にもったいない。今後は、事業者と後継者をつなぐ活動にも挑戦していきたいと思っています」
弟子屈への移住以来、地域と深く向き合う時間を重ねたことで、川上さんの価値観にも変化が生まれた。
「東京で生活していると、東京という地域と向き合う感覚を持つのは意外と難しいと思うんです。でも、弟子屈は人口が少ない分、自然と地域と向き合い、今一緒に暮らしている人たちについて考える時間が自然と増える。その時間が自己実現にもつながっていて、そこに豊かさを感じています」
情報を伝えるだけで終わらせず、その先の実践にまで踏み込んで関わりたい。アナウンサーの夢を叶えた先で芽生えたこの確かな思いを行動に移した川上さん。その存在は、今や弟子屈町の地域づくりに欠かせないものとなっている。
最後に、移住を検討している人に向けてメッセージをいただいた。
「移住にはいろいろな形があると思います。移住がゴールではないし、移住したからといってずっと定住しなければならないわけでもありません。まずは移住する前に地域との関係性を築いてみること。人との関わりやつながりを楽しむことが大事だと思います。移住は人生の大きな決断のように感じがちですが、その前段階の時間を大切にすることで、より良い移住につながるのではないでしょうか」