移住者プロフィール
角田 研一さん
移住時期
2018年4月
利用した支援制度
新幹線通勤補助、新築物件費用補助
出身地:群馬県沼田市、前住所:東京都、現住所:長野県佐久市、職業:会社員(IT業界)
目次
INDEX
職場はそのまま、東京から佐久市へと移住
就職を機に故郷の群馬県沼田市を離れ、東京のIT企業で海外向け事業に携わってきた角田研一さん。2008年に同じく東京で働いていた妻の歌菜さんと結婚、二人の子どもを授かった。歌菜さんは長野県上田市出身。夫婦共に地方出身ということもあり、将来的には自然豊かな場所に移住したいという考えが念頭にあったという。
「子育ての面でも、自然が身近にある環境で育てたいという思いがありました。上の娘が小学校に上がる前にはと考え、2018年4月に長野県佐久市に移住しました」
長野県東部に位置する佐久市は、浅間山や八ヶ岳などの雄大な山々に囲まれた高原都市だ。標高が高く空気も澄んでいることから「星空の町」とも呼ばれ、美しい自然に恵まれている。東は群馬県、北は避暑地として人気の高い軽井沢に隣接する。
さえぎるものが何もない広大な田園風景も佐久市の魅力のひとつ
移住先に佐久市を選んだのは、視界のひらけた美しい自然景観を楽しめることに加え、夫婦の実家のおよそ中間地点であること。また、移住してからも東京での仕事はそのまま続けるつもりだったので、通勤が可能な場所であることなどが理由だった。
「佐久市には新幹線通勤代の補助金制度があったので、それを利用できるのも移住の後押しになりましたね。計算してみたら、東京都心でマンション暮らしするのと、佐久から新幹線通勤するのと、大して変わらないことがわかったんです。毎日1時間半ほどかけて通勤することになりましたが、東京にいた頃もやはり同じくらいの時間がかかっていたので、特に問題には感じませんでした」
新幹線通勤からリモートワークへ。働き方が大きく変化
当初は2年ほどアパートで暮らし、問題なく通勤できるかどうかを試してみようと考えていたが、最初の半年ほどで「佐久に住もう」と決心が固まり、土地を購入。新築の家を建てた。
そんな中で迎えた2020年、コロナの感染拡大が始まり、仕事が完全にリモート化することになった。まったく予想外の事態ではあったが、長距離通勤の必要がなくなり、結果的に働き方としては理想のかたちに落ち着いたという。
「今、仕事は自宅ニ階の書斎でやっているんですが、1.5畳しかない狭い部屋なので、オフィスにこもるような感覚で本当に集中できるんです。
狭くて居心地のよい書斎は、妻の歌菜さんが設計を考えた北欧調の明るい部屋
妻も階下で自分の仕事をしています。夕方、作業が終わったら下に降りて子どもたちの帰りを出迎えるという感じで、オン・オフを切り替えられるので、リモートワークは僕にとって全然支障がなかったですね」
エストニアが共通項。佐久市と研一さんを結んだ縁
そのようにして実現した佐久市への移住だが、後から振り返ると、それはある偶然の導きの結果でもあったと、研一さんは話す。
佐久市の姉妹都市に、バルト三国のひとつであるエストニアのサク市がある。名前に同じ響きを持つ両市の交流は、1998年に駐日エストニア大使館職員が高速道路で「佐久」の地名を目にしたことがきっかけで始まったという。
実はエストニアは、研一さんの人生とも深い関わりをもつ国だった。外国語大学を卒業してすぐ、エストニア第二の都市タルトゥに一年間の留学を経験しているのだ。
エストニアに興味を持ったのは高校生の頃で、たまたまテレビでエストニアの歴史を紹介する番組を見たのがきっかけだったという。第二次世界大戦後、ソ連に併合されたエストニアは1991年に無血での独立を果たす。
その無血革命は、人々が母国語で歌を歌い、何百万キロにわたって隣の人と手をつなぎ合い、独立への強い意志を示すことで果たされたそうだ。
「僕が子供の頃の世界地図ではソ連がドカンと大きく横たわっているイメージでしたが、その東の端に人口150万人ほどのすごく小さな国があって、血を流すことなく独立を勝ち取った。その政治的背景に興味を持つと同時に、素晴らしい国だと感じました」
エストニア留学では映画出演も経験
「外国に行くなら最初にエストニアに行きたい」という思いを抱くようになり、二十歳でパスポートを取得するとすぐにバックパック旅行へと出かけ、その思いを叶えた。
エストニアには、教会や塔、城壁など、中世の面影を今に伝える建造物も多い
「それ以来、すっかり海外に魅了されて、大学が長期休暇に入る度にバックパック旅行をするようになりました。エストニアのほかにもラトビア、リトアニア、チェコ、ポーランド、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン...色々な国に行きましたね」
大学卒業後のエストニア留学では、現地の大学でバルト三国の歴史文化を学び、興味を抱く原点であったエストニアの独立について理解を深めていった。
ある時、バーに居合わせた映画監督から声をかけられ、エストニア映画にも出演したという。当時は映画『ラストサムライ』が流行っていたこともあってアジア人はよく声をかけられたそうだが、与えられたのはモンゴル語を喋る役だったという、かなりユニークな経験をしている。
エストニアは人口の少ない国だからこそ、バーなどに行くと”誰もが身内”のような親密さがあるそう
研一さんの人生に大きな影響を与えたエストニアだが、佐久市と姉妹都市のつながりがあることは、移住してから知ったという。
「本当に縁を感じましたね。佐久にいる限り、エストニアとのつながりが切れることはないんだなと思いました。実際、サク市の市長やエストニアの大使が佐久を訪れた際には通訳をしたり、東京オリンピックの際、佐久市はエストニアの選手団を誘致したんですが、僕もチームに帯同して練習に行ったりもしました」
偶然という言葉では片づけきれない、不思議な力の存在を感じさせるエピソードだ。
雄大な自然に包まれて過ごす、家族との贅沢な時間
佐久市での暮らしも今年で4年目。生活する中で不便を感じたり、戸惑ったりしたことはなかったかとお聞きしたところ、しばらく頭を悩ませたあと、「それが、特にないんですよね...」という答え。
一方で、良かったことはたくさんある。何よりも、休日に子どもと一緒に遊びに出かけるにはとても条件の良い場所だという。東京にいた頃は、ショッピングモールに行こうとすると車で15kmくらいの距離でも半日は潰れていたが、佐久では15kmの移動が30分ほど。交通渋滞は一度も経験したことがない。
浅間山を目の前に眺められる絶景ポイント。ここで食べる朝食は格別
「一日に3~4カ所の公園を周れるので、週末にはよく公園巡りをしていました。小諸市の大きな公園に行って、子どもが飽きたら佐久市に戻って別の公園に行くとか、そういうことができます。あとは朝早くに家を出て、朝食に焼きたてのパンを食べに行くこともありますね。軽井沢と佐久市の間にある御代田という町に美味しいパン屋さんがあるんです。浅間山をすぐ近くに望める景色の良い広場で子どもたちを遊ばせて、僕と妻はその様子を見ながらゆっくりコーヒーを飲む。たったそれだけですが、すごく贅沢な時間です」
ほかにも最近家族でよく行くのが「五郎兵衛棚田」。傾斜地に水田がいくつも並び、水がはられた様子が一際美しい場所で、特に子どもたちのお気に入りスポットなのだそうだ。
五郎兵衛棚田という名前は、江戸時代初期この地で数多くの新田開発に取り組んだ武士・市川五郎兵衛に由来する
「週末、娘のチアダンスの練習のあとに、『お昼何食べたい?』と聞いたら『おにぎりを持って五郎兵衛棚の景色を見ながら食べたい』と言うんです。ハンバーガーとかそういう答えを予想していたので、娘のその言葉がすごく嬉しくて。佐久に来てから、自然を好きになってくれているなというのはすごく感じます。日常で自然に触れられる生活は、マインド的にもいい影響があるんだろうなと思っています」
仕事一筋の毎日から、子どもの成長が感じられる生活へ
東京にいた頃は仕事一筋だったという研一さん自身にも、変化があった。かつては休日に子どもと一緒にいても仕事のことが頭から離れなかったが、佐久でリモートワークに切り替えてからは、仕事に割く時間が自然と減り、その分、家族と過ごす時間が増えた。朝、子どもたちを「行ってらっしゃい」と見送り、夕方に「おかえり」と出迎える。子どもの成長を感じられる瞬間が増えたことがとても幸せだと話す。
自然の中で日々、子どもの成長を感じることができる
近所の方たちとの家族ぐるみの付き合いも広がった。周囲には子どものいる同世代の家族が多く、コロナ前には自宅に招待して泊まってもらうなど、良好な関係を築けているそうだ。
「自宅には、東京の仕事仲間を招待したこともあります。ドイツ人とフランス人だったんですが、『日本に来てこんなに静かな夜を過ごしたのは初めてだ』と言われました。その言葉のとおり、夜は本当に静かでよく眠れるんです。自分の耳鳴りしか聞こえないくらいの、音のない世界。こういう環境を“ピースフル”と言うんだと思います」
東京では終電や翌朝になってから帰宅することもしょっちゅうで、なぜあれほど荒れた生活をしていたのか、今となっては不思議だと話す。
「昔は出世したいという気持ちがすごく強くて、キャリアをどうやって高めていくかを必死に考えていました。それで、家族との距離が離れてしまったり、気がついたら体も壊してしまったりして。そもそも出世とかキャリアアップとか自分には合わないんだろうなと思うようになりました」
佐久市とエストニアの二拠点生活を計画中
移住したことがひとつのきっかけとなり、「素直にやりたいことをやればいい」と肩の力を抜いて考えられるようになったという研一さん。場所にとらわれない生活が好きなので、将来的にはエストニアと佐久市を行き来する二拠点生活を計画している。
「会社がロケーションを問わず働けるような制度を作ろうとしてくれています。これだけリモートが進んでくると、日本にいようが、海外にいようが変わらない。会社としてもそれで社員の幸福度が上がるならと、数年後の実現に向けて動いてくれているようです。もしそれが実現したら、今の仕事をしながらエストニアで暮らすというのをやってみたい。佐久市とエストニアとのハイブリットで、ほかにもヨーロッパ各地を転々とする生活もいいねと家族と一緒に考えています」
移住生活のリアルが聞けるコミュニティの重要性
先輩移住者として、これから移住を考える人に向けて、アドバイスもいただいた。まずは移住先に短期間でも滞在し、春夏秋冬を体験してみることが大事。そして、できるだけ移住者の生の声を聞いてみたほうが良いという。
「ただ、移住の制度や仕組みは全国的に整ってきているけど、移住者の話が聞けるコミュニティはまだ不足しているのかなという気はしますね。その点で言うと、佐久市の市長はすごくITを駆使している方で、最近移住者向けのSlackを開設したそうです」
これは、佐久市が2021年1月にオープンしたオンラインサロン「リモート市役所」のこと。自治体としては初の試みで、移住に関する疑問などを誰もが気軽にSlackで問い合わせることができる。佐久市民や佐久市に移住した人も参加しているので、彼らのリアルな声を聞くことができるのが特徴だ。
「田舎暮らしってすごくいいけど、実際住んでみたら寒さが厳しいとか、獣が出るとか...そういうリアルな話は地元の人にあらかじめ聞いておいたほうがいいと思います。あと、子育て世代は保育園の充実度にも注意が必要かもしれません。僕の周りでは、小学校の近くに保育園がなくて、近隣の保育園に集中してしまうという問題が起きていて、家の近くの保育園に入れず車で10分、20分かけて通園しているという話も聞きます」
逃げ道を残しておくことも大事
移住に際しては逃げ道を確保しておくことも大事だという。研一さんが安心して移住することができたのは、職場を変えなかったことが大きかった。もし住んでみてダメだったら、また東京に戻ればいいと考えることができたからだ。
「移住を考えるとき、特に子どものいる夫婦だと一番気になるのは仕事だと思うんですよね。そこをどうクリアするのか。僕の場合はたまたまIT業界で海外が相手だったから、どこにいても仕事が成り立つ環境でした。そういう意味では恵まれていて、移住しやすかったですね。最近は、移住を奨励する会社が増えてきているはずなので、今後はもっと移住しやすくなるのではないでしょうか」
かつての研一さんのように、仕事が忙しく、日々の生活に余裕を持てずにいる人は多いだろう。地方に移り、生活をスローダウンさせてみることで、別の可能性が見えてくることもある。
とはいえ、充実した暮らしは仕事という安定した基盤があってこそ、ということも研一さんのお話からはうかがえる。思うようにいかなかったときに備えて、複数の選択肢をシミュレーションしておくことも移住を考える上で重要と言えそうだ。
佐久市とエストニア。二拠点生活が実現すれば、行き来することになるふたつの風景
エストニアが佐久市と研一さんの共通項であったように、土地と人とはときに思いもよらない縁で結びつくこともある。「ここに住んでみたい」と感じる場所に巡り合えたら、そこには何かしらの縁があるということなのだろう。現実的な視点の重要性は言うまでもないが、直感とも呼べる土地と自分の”見えないつながり”を信じ、移住先を決めてみるのも悪くないのかもしれない。そんなことも感じさせられる移住体験談だった。