移住者プロフィール
森田貴志さん
出身地:兵庫県西宮市、前住所:東京都、現住所:石川県珠洲市、職業:地域おこし協力隊
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阪神淡路大震災で家が倒壊
1991年、兵庫県西宮市で生まれた森田さん。阪神淡路大震災が起きたのは、3歳の誕生日を迎えたばかりの頃。母の出身地である石川県小松市に一時避難し、仮設住宅ができるまでの数か月を過ごした。
その後、仮設住宅に移った当時のことは、幼いながらにとてもよく覚えているという。
「甲子園球場の向かいにできた仮設住宅に、じいちゃんとばあちゃん、父、母、姉、弟の7人で住んでいました。お風呂がめちゃめちゃ小さかったので、家族でよく銭湯に行っていました。今、珠洲市で銭湯のお手伝いをしているのも、この時に銭湯好きになったからかもしれません」
倒壊した自宅を同じ土地に再建することは難しく、西宮市内の別の場所に新築した家で大学卒業までを過ごした。不思議なことに、壊滅的な被害を受けた街がどのように復興していったのかはよく覚えていないという。
「自分の生活の周辺のことしか思い出せないんです。みんなが出たら仮設住宅ってなくなるんだなとか、街は綺麗になるんだなとか、それくらいの記憶しかありません。家の周りは新しい家とマンションしかなく、古かった家は軒並み解体されました」
コロナ禍で移住を決意
大学を卒業後、名古屋で一年勤務したのち、転勤のため上京。東京では8年ほど暮らした。そんな中で、地方移住を考えるようになったのは、コロナ禍での友人たちとの会話がきっかけだった。
「あの頃は、ほとんど家にいて、自分のこれからを考える時間が増えたんですよね。ちょうど子どもも生まれて、人生のターニングポイントとも重なっていました。そんな時に、地元の友だちとテレビ電話をしている中で、田舎、スローライフ、移住といったキーワードが出てきて。じゃあ、自分が移住してみようかなと思ったのが最初ですね。
妻にも話したら、このまま東京で子育てをするより、自分たちが本当に住みたい場所を探したい、という話になって。ありきたりながら、自然豊かで、人との関わりが深い環境で子育てがしたいという思いでした」
関東、甲信越、関西、四国と全国を周る中で、妻と意見が一致した移住先が石川県珠洲市だった。
「一番感じたのは、人の魅力ですね。人によく話しかけられるなというのが、訪れた時の第一印象でした。娘を連れてスーパーに行くと、おじいちゃんやおばあちゃんとすれ違うたびに『あなたどっから来たの?』と聞かれるんです。そうした町の人の様子から、自分たちが『ここに来てもいい』という雰囲気の良さを感じました」
生活環境を具体的に見てみても、珠洲市には安心して暮らしていける条件が整っていた。総合病院が町の真ん中にあり、スーパーやコンビニ、ホームセンターも一通り揃っている。その近くには保育園も新設予定。中心部から少し離れると、豊かな自然が広がっており、奥能登国際芸術祭など感度の高い取り組みも行っている。
地域おこし協力隊として珠洲市に赴任
こうして2022年12月、家族3人で珠洲市に移住した森田さん。仕事は、折よく募集のあった地域おこし協力隊として働くことが決まっていた。市役所職員となり、移住定住支援や空き家の活用、子育て・教育の魅力向上などがミッションだった。
*森田さんの地域おこし協力隊としての活動内容については、こちらで詳しくご紹介しています。
「地域おこし協力隊に聞きました #88 多様性に溢れる石川県珠洲市。"生きる力の強い人"を育む珠洲市の魅力」
https://warp.city/posts/WUl2y0OAbQtwbRCCslNcv
「地域のことを知るという意味では、市役所勤務で、日常的に市民と関わる機会の多い地域おこし協力隊はとても有意義だと思いました。
一方で、地域に馴染むという意味では、どちらかというとプライベートの時間で交友関係を広げていきました。同じように移住してきた同世代の友人ができて、そこから銭湯のお手伝いをするようになって、彼らがすでに築いていた地域のつながりから知り合いが増えていきました」
珠洲市では、各地区ごとにお祭りも盛んで、友人が住む地区のお祭りをのぞきに行ったりするのも楽しみのひとつだったという。
「珠洲市は大きく10地区ほどに分かれていて、そこからさらに160ほどの集落に細分化されます。その集落がそれぞれ独自のお祭りを持っていて、秋になるとどこかしらでお祭りが開かれていました。気軽に参加できるお祭りもあれば、女性や外部の人は神輿に触れないような、昔ながらの文化がいまだに残っているものもありました」
珠洲市を襲った二度の地震
そのようにして地域の暮らしに少しずつ馴染んでいく一方で、移住してまだ間もない5月5日に発生したのが「令和5年奥能登地震」だった。それから3か月ほどは、協力隊の通常業務と並行し、森田さんも災害時の対応を手伝ったという。
「地震発生後は、行政職員の方と一緒に避難所の設置をしたり、備蓄してある物資を配布したりしました。その後も市の支援メニューの受付や住宅の被害を判定する家屋調査など、3か月くらいはひたすらそういう仕事をしていましたね」
そして、2024年の正月。再び、珠洲が大地震に見舞われるとどれほどの人が予想しただろうか。
地震発生時、森田さんは妻の実家がある千葉にいた。テレビから流れてくる映像を固唾をのんで見守るしかなかった。
「珠洲市役所の前にあるカメラの映像が流れていて、町が揺れている様子と津波警報が出されている状況を知りました。それからずっとテレビの前にいて、現地の知り合いに連絡し、無事なのか、どういう状況かを確認することを繰り返していました」
その後、「すぐに珠洲に行くべきではない」と引き止める妻を説得し、森田さんは単身、珠洲市へと向かった。
「自分のわがままだったのかもしれませんが、『行かなければ』という気持ちでした。
3日に新幹線が動いて金沢まで行くことができて、珠洲に入ったのは4日でした。金沢から珠洲市まで車で10時間くらいかかりましたね。道が寸断されていたし、緊急車両の渋滞がずっと続いていました。
今思えば、到着するまでの3日間は特につらかったです。向こうで出会った友人、職場の皆さま、じいちゃん、ばあちゃん、みんな大丈夫かなというのがすごく不安だったのと、何もできないもどかしさがありました」
今なお進まない上下水道の復旧
4日に珠洲に到着した時には、すっかり日が暮れていた。明かりが一切ついておらず、「知らない場所に来たみたいだった」という。
すぐに友人たちが避難している高校に向かい、彼らの無事を確認し抱き合った。
「ガソリンなど積んできた物資を渡して、ロードマップを見ながらどうやったら金沢まで避難できるのか、自分が通ってきたルートを伝えました。それから市役所に行って物資運びなどを手伝い、家の状況を確認しに行きました。水道などインフラは機能していませんでしたが、家自体は大丈夫でした」
しかし、上下水道に関しては、地震発生から4か月以上が経った今も、復旧はわずかばかりしか進んでいない(2024年4月3日時点)。
「今も、給水車がくる給水ポイントにタンクを持ってくみに行く必要があります。山水が通っている集落は集落ごとに山水を引いて出るようにしたり、井戸がある場所は井戸水で生活したり、洗濯はバケツに溜めた雨水を使ったり……そんな状況です。市役所もまだ水が出ません」
なぜ、ここまで断水が長期化しているのか。その理由は、川から取った水を浄水場に送る大元の導水管が破損してしまったことにあるようだ。仮設の工事で導水管の機能は回復したものの、水を通すには、その先の各地区に水を運ぶ配水管、さらに各家庭へと分岐する給水管の被害まで調べる必要があるという。
「配水管がダメな地域はまず配水管を直さなければならないし、配水管が直っても宅内配管が壊れていたら各家庭に水は届かない。宅内配管は自分たちで直さなければならず、修理業者の数もまったく足りていない状況です」
人々に希望をもたらした「海浜あみだ湯」の営業再開
断水が長引く中、震災発生から半月ほどが経った1月19日、ひとつの明るいニュースが話題となった。
珠洲市にある銭湯「海浜あみだ湯」の営業再開だ。あみだ湯は、湯船から海が見える銭湯として地元の人を中心に親しまれている。地震でお湯が流れる配管などが破損したが、地下水をくみ上げており、断水の影響を受けなかったことが幸いした。
「地下水をくみ上げるパイプやお湯を送る配管が損傷するなどの被害はあったのですが、津波が目の前まで迫っていたボイラー室はどうにか無事でした。破損した部分を修理し、復旧にいたりました」
あみだ湯は高齢となった経営者が移住者の若者に事業承継をするべく、引き継ぎを進めている最中だった。移住者仲間として森田さんも、震災以前からあみだ湯の手伝いをしてきた。
「主にボイラー室で薪をくべて、お湯を焚く手伝いをしていました。木を運んで、割って、くべて……結構、重労働なんですよ」
復旧後、市民に無料で解放し、最初は地区ごとに入れる日時を決めての運用となった。一日に400~500人もの市民が訪れ、久しぶりの湯船にゆっくり浸かり、疲れ切った体を温めた。
「ホカホカになって幸せそうに帰っていく方もいれば、とても現実的な顔をして帰っていく方もいました。それまで避難所で選択肢のないギリギリの毎日を生きてきた人たちが、お風呂に入ると一気に現実に戻るというか、日常を取り戻して、『こんな中で生きていたのか』と自分の置かれた状況にハッと我に返ったのかもしれません」
地域おこし協力隊としてできること
震災後、地域おこし協力隊としての森田さんの活動も大きな方針転換を迫られた。
「移住定住支援といっても、今はとても移住できるような状況ではありません。そんな中で自分にできることを模索しています。
例えば、市外に避難している方のケア。LINEでの相談や、金沢方面へ月に数回足を運んで、珠洲の現在の情報を伝えることなどを考えています。
空き家の活用に関しても、そもそもの安全な住まいのあり方から考え直す必要があります。もともと珠洲は耐震が進んでいないといわれていました。我々が運営する空き家バンクでは、空き家は全部で380軒ほどあり、震災後、そのうち100軒を確認したら、3~4割は解体せざるを得ないほどの被害でした。
昨年の奥能登地震後に移住してきて、空き家を購入して1,000万円くらいかけて直したのに、新しい家が完成した瞬間に潰れて住めなくなってしまったという方もいました。
珠洲の中で特に地震の被害が大きかったエリアはどこなのか、次に建てるならどんな家にするべきなのか。根本的に考えなければなりません。今後は、新たな住まいの様式体験(トレーラーハウス、3Dプリンターハウスなど)もやっていけたらと思っています」
仲間の存在が活動のモチベーション
協力隊としての森田さんの任期は残りおよそ2年半(地震が起きた自治体では任期を一年延長できる)。任期後については、どのように考えているのだろうか。
「どうしたらいいんだろうというのが正直なところです。それでも、何かできることはあるはずだと思っています。
最近、地学の勉強を始めました。わからないことが多すぎたので。でも、勉強すればするほど、再び地震が起こる可能性が高いということがわかってくる。今後起こり得る災害に対して、どう対処すればいいのか、いかにして逃げるのか、などを知っておく必要があると感じます。
それでも、珠洲は本当に良い町だから、またたくさんの人に来てほしいし、珠洲のことを知ってほしい。お祭りや芸術祭などは今後どうなるのか先が見えない状態ですが、今、市外に避難している珠洲市民や珠洲出身者が戻ってきたいと思える場所にしたいです」
森田さんの妻と娘は、県外のみなし仮設住宅※での暮らしを始めた。家族と離れ、再び地震が起こる可能性もある珠洲にそれでも残り、活動しつづけている理由はどこにあるのだろうか。
「小さい頃に阪神淡路大震災を経験していることはもちろんあると思います。大学時代に、東日本大震災の復興支援をしていたこともありました。だから、『これは運命なんだな。なにかやらないといけないんだろうな』という思いです。
珠洲で出会った友人たちも珠洲に残って何かしら活動をしているし、そうした仲間がいることが救いだし、エネルギーをもらえるので、今の一番のモチベーションになっていますね」
※みなし仮設住宅(賃貸型応急住宅):令和6年1月1日の能登半島地震により、ご自宅での居住ができなくなった方への一時的な住まいとして、民間の賃貸型応急住宅(災害救助法)を利用することができます。
被災地からのメッセージ
最後に、被災地から全国に向けて、今、伝えたいことを伺った。
「いろいろな人が珠洲に関わってくれると嬉しいです。気軽に来られる状況ではないので、まずは珠洲の現状を知ってもらうなど、今いる場所で無理のないやり方で関わっていただけたらと思います。
あと伝えたいのは、地震というのはどこにいても起こる可能性があるということ。地震が起こった時に自分や家族の命を守り、被害を少しでも減らすにはどうするべきか、知っておくだけで本当に違うと思います。山側であれば土砂災害、海側であれば津波など、住んでいる場所によって注意すべきポイントは変わるので、自分の家の回りの様子やリスクを自ら知ることが何より大切ではないでしょうか」
移住後まもなく、生活を一変させた震災。その唐突さに戸惑い、生活に不安を抱えながらも、未来に向けて前を向いている、森田さんの飾らない言葉の一つ一つが印象的だった。
地震は日本に住む誰にとっても他人事ではない。移住を考える上でも、密接に関わってくる問題だろう。珠洲市に対する自分なりの支援・関わり方を考えながら、日常的な備えを今こそ見直したい。
「地域おこし協力隊に聞きました」でもご協力いただいた森田さんの記事はコチラから↓
https://warp.city/posts/WUl2y0OAbQtwbRCCslNcv
★★★能登半島地震へのご支援、ご協力をよろしくお願いします★★★
●珠洲市能登半島地震災害義援金:
https://www.city.suzu.lg.jp/site/bousaisuzu/11594.html
●ふるさと納税による災害支援:
https://www.city.suzu.lg.jp/site/hurusato-nouzei/11445.html