移住者プロフィール
伊藤紗恵さん・橋本勝太さん
出身地:東京都、現住所:石川県珠洲市
目次
INDEX
再び奥能登を襲った大地震
2023年5月に東京から母の故郷である珠洲市に移住した伊藤さんと、珠洲市生まれ・能登町育ち、半導体製造業などで働いたのち能登町の人気宿泊施設の支配人をしていた橋本さん。
2023年6月に合同会社CとHを起業し、24時間制のコワーキングスペース兼ビジネス交流拠点「OKNO to Bridge(奥能登ブリッジ)」を立ち上げた。
※立ち上げの経緯は、第54回の記事で詳しくご紹介しています。
「奥能登と首都圏をつなぐ架け橋に。『働く』 の可能性を拡げ、10年後の未来を創りたい」
https://warp.city/posts/VyEmeh-Ym-4JQkZazgR4u
首都圏が持つビジネスの知見と奥能登が持つ豊富な地域資源を結びつけることで、過疎化が進む奥能登に新しいビジネスを生み出し、これまでにない地域での働き方の可能性を拡げる事業を展開してきた。
橋本さん:「伊藤が奥能登になかったオンラインで働くというノウハウを育ててくれたことは本当に大きかったと感じています。特に、子育て世代の女性がオンラインを活用することで働き方の選択肢が増え、自由に仕事を選べるようになっていく。その姿を見た子どもたちの未来も変わっていく。そんな可能性を感じているところでした」
そんな中で発生した今回の能登半島地震。実は、奥能登ブリッジは、前年5月に起きた「令和5年奥能登地震」で、当初活用を予定していた伊藤さんの祖父母が営んでいた旧旅館の古民家が被害を受け、別の建物を利用した経緯がある。
「また大きな地震が起こるかもしれない」
その不安は伊藤さんの心の片隅にずっとあったという。まずは、地震発生時のお二人の状況からお聞きした。
高岡市で被災。2日朝に車で珠洲へ
2024年の元日、伊藤さんは東京からの移動中で富山県高岡市にいた。コンビニに立ち寄った際に大きな揺れに襲われたという。
伊藤さん:「体感としては東日本大震災の時の東京のような激しい揺れ方でした。嫌な予感がしてネットニュースを見たら、やっぱり能登が震源地だった。これは大変なことになっているかもしれない。そうは思いながらも、津波警報が出ているし、とてもすぐに能登に行ける状況ではないだろうと判断し、その日は高岡でホテルをとりました」
SNSでは情報が錯綜していたが、地元のネットワークでは、翌朝には「金沢から珠洲までたどり着いた」という情報も目にした。
伊藤さん:「たまたま高岡にいた知り合いと一緒に、必要そうな物資を車に積んで2日の朝に珠洲に向かいました。通行止めも多い一方、主要な幹線道路には超応急的な処置がほどこされていて、通ってきた道の中にはついさっき割れている場所を砂利で埋めるなどして修復したと思われる箇所もありました。
途中、山が崩落して道路が片側通行になっているところでは大渋滞が発生していたり、電波がまったくつながらなくなったりしながら、普段は2時間で行けるところを6時間ほどかけて珠洲に到着しました。タイヤがパンクして乗り捨てられた車もたくさん見かけました。辿り着けた私は運が良かったのかもしれません」
“全壊”の判定となった「奥能登ブリッジ」
一方の橋本さんは、当時、支配人として働いていた能登町の宿泊施設にいた。
橋本さん:「揺れている時間はすごく長く感じました。そばにいた人が左右に激しく揺さぶられている姿は、信じられないような光景でしたね。電気も水もインフラ関係はすべて使えなくなり、駐車場を見るとそこら中でアスファルトが隆起していました」
宿泊施設は高台にあったため、津波警報を受けて多くの人が避難してきた。夜になると、「建物の中に入るのは怖い」と車中泊を選ぶ人もおり、橋本さんは宿にある布団を配ったりもしたという。
宿泊施設の建物に大きな被害はなかった一方で、珠洲市内にある「奥能登ブリッジ」の被害は深刻だった。
伊藤さん:「建物は、崩れてはいないのですが、歪んで斜めになっています。罹災証明の調査では『全壊』(※)という判定になり、解体工事をするしかないという状態です」
※ 家屋の被害調査は、国で定められた基準をもとに「全壊」「大規模半壊」「中規模半壊」「半壊」「準半壊」「準半壊に至らない(一部損壊)」の6区分で認定され、このランクによって補償の金額も変わります。
橋本さん:「奥能登ブリッジ周辺の家は多くが潰れていて、車では到底向かえない状態。歩いてがれきを乗り越えていくしかありませんでした。がれきの中には、潰れた民家の二階部分もありました」
避難者名簿のデータ化で現場を支援
奥能登ブリッジが自宅を兼ねていた伊藤さんは住む家を失い、市内にある知人の家に身を寄せた。
伊藤さん:「その家の立地が、たまたま病院や市役所、避難所になっている学校の近くだったので、電気や電波の復旧がとても早かったんです。その一室をお借りして、まずは自分たちが現地でできることを始めることにしました」
そのひとつが、避難者名簿のデータ化だった。
伊藤さん:「避難所に避難している人たちの名簿は手書きで作られていて、市役所など自治体と連携されていないために、捜索活動に生かされていないという状況がありました」
橋本さん:「救助隊が7~8時間かけて懸命に救助活動をしていたら、実は、その人は避難所に避難していた……ということもあり、現地は非常に混乱していたんです」
伊藤さん:「そうした行き違いを防ぐためにも、データ化が必要という要望をお聞きしました。個人情報なので許可がとれたものだけではありましたが、東京のボランティアグループや現地の知人に協力してもらい、データ化を進めました」
東日本大震災の被災地で見つけたヒント
ほかにも、必要に応じて東京とオンラインでつなぎ、現地の最新情報を伝えたりもしていた。しかし、時間が経つにつれ、これ以上珠洲にいても自分たちの活動を立て直すことは難しく、できることも少なくなってきたと感じるようになった。
そのタイミングで、一旦、石川県白山市の友人宅に拠点を移し、復興のヒントを探るため、一か月ほどかけて、名古屋や東京、富山、福島、岩手など全国各地を視察して周った。
中でも、東日本大震災から13年が経った東北の姿には大きなヒントがあり、「自分たちの進みたい方向がクリアになった」と話す。
伊藤さん:「特に印象的だったのが、福島県の南相馬市でした。そこには『奥能登もこんな場所にしていきたい』という風景が広がっていました」
南相馬市は、東日本大震災による原発事故で避難指示が出た地域だ。すべての住民が避難を余儀なくされ、その中の小高区では1万2000人ほどいた人口のうち4000人弱が戻ってきているという。
伊藤さん:「どうしたら人はまちに戻ってくるのか。それを考え、小高区に宿泊できるコワーキングスペースを始めた方に話を聞きました。その方は、魅力的な生業づくりとして、女性がものづくりを通して手に職をつけられるようにと、ガラス工房を立ち上げたそうです。そこでは、女性の職人たちが未経験からアクセサリーづくりをしていました。こうした取り組みの効果もあり、現在、小高区の4分の1ほどが移住者なのだそうです」
女性が働きたいと思えるまちづくりは、もともと伊藤さんたちが奥能登ブリッジで力を入れていたテーマでもあった。
伊藤さん:「これまでは、女性の新しい働き方として、オンラインで働くスキルを身に着けるという発想でやってきましたが、それに加えてものづくりという視点もすごく面白いなというのが大きな発見でした。奥能登には伝統産業もありますし、ものづくりは地域の強みになります。そうした分野に女性が関わることで、より面白いことができるんじゃないかと考えています」
「OKNO to Bridge 金沢」を立ち上げ
全国を回るのと並行し、今後の拠点となる場所を探していたお二人が3月に立ち上げたのが、「OKNO to Bridge 金沢」だ。
伊藤さん:「物件についていろいろな人に相談する中で、良い縁に巡り合いました。立教大学の名誉教授の中村陽一さん(一般社団法人社会デザイン・ビジネスラボ代表理事)が私たちの活動に賛同してくださり、空き家になっていたご実家を提供してくださったのです。
2月半ばに入居して、長年空き家になっていた建物を片付け、人を招ける状態に整えていきました」
振り返ればそれは、一年前に珠洲市で奥能登ブリッジを立ち上げた時と同じプロセスだった。
橋本さん:「珠洲での立ち上げの時も、スモールスタートを徹底しました。新しい建物を建てたり、お金をかけて内装工事をすることはなかった。身軽だったからこそ、地震が起きて苦しい時にもすぐに立ち上がれたのかなと思います」
伊藤さん:「すでにある古民家を利用してコワーキングスペースをつくるというノウハウは、自分の中に蓄積されていたんだな、とその時、実感しましたね」
鍋を囲み「知らない人」ではなくなる場所
「OKNO to Bridge 金沢」は、珠洲市の「奥能登ブリッジ」を引き継ぎ、会員制の24時間コワーキングスペースや人々の交流拠点としての機能を果たす。ソーシャルビジネスを専門とする中村教授の取り組みとも連携しながら運営を行っている。
「奥能登の復興に関わる人同士がつながって支援の輪が広がっていく場所になれば」と伊藤さんは想いを語る。金沢拠点を訪れる人の数は増えてきており、「人と人とのつながりに生かされている」日々だという。
伊藤さん:「久しぶりに会う知人もいれば、もともと能登方面でまちづくりの活動をしていた移住者の方、学生を含め能登のボランティアに入っている人たち、今回の地震をきっかけに能登のために何かしたいと思ってくれた金沢の方……いろいろな人が来てくれています。
東京の人がふらっと訪れるにも、金沢はとても良い立地にあるのだなということに、今回、改めて気づきました」
橋本さん:「今は、週4回くらいのペースで鍋パーティーをしています(笑)。何より大事なのはみんなが一緒にワクワクできること。いろいろな人がここを訪れて、鍋を囲んで仲良くなり、“知らない人”ではなくなることが重要だと思っています」
「ものづくり」と「オンライン」の融合へ
今後は、東北視察で見えてきた、「ものづくり(ハード事業)」という視点を取り入れ、「女性」や「オンライン(ソフト事業)」と掛け合わせた新しい取り組みに向けて動き出していきたいという。
橋本さん:「輪島塗りや金沢金白、九谷焼などの伝統的な技術と、 例えばアクセサリーや小物づくりなどを掛け合わせて、女性が手を動かしてやりたいことをやっていたら、それが結果的に地域のためにもなっていたというような、そんな地域貢献の仕方ができないかなと。
ゆくゆくは、そうした女性たちがオリジナルブランドを立ち上げたいと思った時に、例えば、奥能登ブリッジでテレワークをしている首都圏の人と組んでECサイトを立ち上げるなど、それぞれが自己発展できるような関係性が広がっていけばと考えています。
そうしたネットワークはやはり、形式ばった会議より、鍋をつつきながらの井戸端会議でこそ生まれると思うんですよね」
伊藤さん:「なぜ、女性に焦点を当てるかというと、結局、今までは男性中心的な社会で、どうしても価値観が偏ってしまっていたからです。特に地方はその傾向が顕著で、同じやり方を続けてきた結果、衰退してしまっている現状もある。
女性がマジョリティの組織というのは、やはり従来の企業とは全然違う。それは私が身をもって感じたことです。女性の声を反映するにはある程度数も大事なので、女性中心に動ける場所を意識的に作っていきたいです」
自動車道が開通。新しいボランティアのかたちも模索
現在、金沢を拠点にしながら、奥能登にも週に1~2日ほどのペースで足を運んでいるというお二人。震災から4か月ほど経った現在(4/11時点)の被災地の状況についてもうかがった。
伊藤さん:「画期的な進歩としては、金沢から能登につながっている一番の大動脈である自動車道(のと里山海道)が片側通行ではあるものの、終点まで開通したことですね。まだまだ道が悪かったり、一部通行止めはありますが、今は基本的に車があれば、誰でも珠洲市まで行くことができます」
ただし、行けたとしても、できることは限られているのが難しいところだという。
伊藤さん:「現時点でボランティア活動ができる環境が整っているとはいえません。潰れたままの家がほとんどで、その持ち主は市外に避難してしまっていることが多い。勝手に家の片付けをするわけにもいかないし、がれきの撤去となると素人にはできません。泊まる場所もないし、断水が続いているのでトイレも使えない……そうした状況は今もあまり変わりません」
一方で、ボランティア活動は必ずしも、片付けなどの体を動かす作業だけではない。
橋本さん:「例えば、地域事業者の単純な事務作業やデジタル化のお手伝いなどであれば、外部の方にボランティアで入っていただくことはできるはずです。なおかつ、そうしたデジタル化などの知見を二次避難者の方などにスキルとして引き継いでいくことも、被災地地域の働き方の選択肢を拡げるという意味で、今後、やっていきたいことですね」
伊藤さん:「そうした作業をする際に意外と大事なのが、SNSやテレビではどうしても伝わらない現地の空気を同じ場所で感じてもらうことです。オンラインだけではなく、一定期間滞在しながら被災地をサポートしていただけるようなボランティアの環境を整えていきたいと考えています。能登に滞在しながら東京の仕事をテレワークで行い、空いた時間んでボランティアとして現地の復旧復興活動に関わっていただく、そんな状況を作れたらいいなと」
大人がワクワクできる町を目指して
前回の取材の際、伊藤さんは奥能登を「過疎化と人口減少の最先端をいく町」と表現していた。今回の地震で、それが「20~30年分ほど進んでしまった」と感じているという。
しかし、裏を返せばそれは「課題の中身自体はそれほど変わっていないということ」であり、「奥能登ブリッジでもともとやってきたことをこれからも続けていけばいい」と確信を持てたとも話す。
そんなお二人は今、10年先の奥能登の姿をどのように描いているのだろうか。
橋本さん:「突拍子もないことを言うようですが、俺は人口がゼロでも別に良いと思っていて。つまり、住民はゼロでも、二拠点生活をしている人が10万人いるみたいな、そんな町のあり方があっても良いんじゃないかと。新しい人がふらっとやってきて新しいことにチャレンジできる、面白い人がいっぱい集まる場所。そこで活動している人同士が行政的な区分なく仲良くなれる場所。そんな場所を思い描いています」
伊藤さん:「そうした思い切ったアイデアを実現するためにも、今までの仕組みの税収などに頼るだけでない、町を成り立たせる新しい仕組みなどを考えていかなければですね。
この先、どんな地域が生き残れるのかといえば、その答えはシンプルで『ワクワクしながら活動している大人がいる町』だと思うんです。そんな大人の姿を見て、子どもたちはこの町に住み続けたいと希望が持てる。それは震災前から橋本が言い続けていたことでもあって、今回、改めてそうだなと強く思いました。
そうした世界をつくる活動を、奥能登でもそろそろ再開する必要があると思い、現在珠洲拠点の再開を準備しているところです。被災地では若者から現地を離れて行ってしまう、という状況が続いています。
そして本当に町に人がいない。誰も歩いていないんです。こういった状況を少しでも打開していくために、まずは現地で地域内外の人が集える場所を作り、『町に灯を灯す』ということにトライしてみようと思っています。
ただ、一番はやっぱり私が能登が好きで、自分が能登にいたいって想いなんだと思います。金沢は良い場所ですけど都会なんですよね。私はやっぱり奥能登の海を毎日見られる生活が好きです。」
東京生まれの伊藤さんと能登育ちの橋本さんは、バックグラウンドもキャリアもまったく異なる人生を歩んできた。そんな二人だからこそ、これまで積み重ねてきたそれぞれの経験を持ち寄ることで、今までにないアイデアや活動が生まれているのだと、今回、お話を聞いて強く感じた。
震災によって、奥能登が抱える地域課題は深刻さを増してしまったのは確かだろう。しかし、金沢拠点では、被災地から立ちあがろうとする人と被災地に心を寄せる人が同じ鍋を囲んで未来について語り合っている。その光景を希望と呼ばずに何と呼ぶのだろう。近いうちにぜひOKNO to Bridgeを訪れてみたい。