移住者プロフィール
伊藤 紗恵さん
出身地:東京都、現住所:石川県珠洲市
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大手保険会社で人事の道へ。産休育休、時短勤務の20代
東京のごく一般的な“サラリーマン家庭”で育ったという伊藤さん。父は大手金融機関に勤めるサラリーマン、母は専業主婦。特に不自由を感じることのない、恵まれた家庭環境だった。
「子どもにとっては、どうしても両親の人生がモデルになる。私も当時は、大学に行って就職して、結婚したら仕事を辞めて、子どもを産んで育てて……そういう人生が良いと思っていたし、そうなるんだろうなと思っていました」
大学を卒業後、新卒で大手保険会社の損保ジャパンに入社。たまたま配属になった人事部でキャリアをスタートさせる。しかし、入社1年目の最後に妊娠。そのまま1年半ほど産休・育休に入ることになる。
「入社4年目に復帰しましたが、仕事に対してあまりやる気もなかったので、ずっと時短勤務をしていました。1年ほど働いたあと、2人目を妊娠し、5年目、6年目はまた産休と育休。気づいたら7年目になっていました。
さすがにちゃんと働いたほうがいいなと思いながらも、子どもが小さいので残業はしないというかたちで職場に復帰しました」
そうした生き方に特段、不満や疑問を感じることもなく、20代は流れるように過ぎ去っていった。
「こんなに楽しく仕事をしている人がいる」驚き
そんな伊藤さんに最初の転機が訪れたのは、30代を迎えた2014年のこと。損保ジャパンのグループ会社に出向し、人事部の立ち上げに関わったことがきっかけだった。
「そこはいわゆるジョイントベンチャーで、小さな会社なので人事部も2、3人しかいませんでした。それまでは与えられた仕事や決まった業務しかやってこなかったんですが、そこでは基本的に、やったことないことも含めて全部を自分たちでやらないといけない。仕事に対する意識が大きく変わりました」
社外のセミナーや勉強会にも参加するようになると、さらに世界は広がっていった。
「世の中にはこんなにいろいろな人がいて、こんなに楽しく仕事をしている人がいるんだということを、遅ればせながら知りました。自分と同世代の人でめちゃくちゃ活躍している人がいるわけです。
『20代で死ぬほど働きました』とか、『生理が止まるまで働きました』とか……そういう経験が自分にないことに焦ったし、羨ましいとも思いました」
転職、副業......働き方が大きく変わった30代
仕事をする楽しさを自覚すると同時に、周囲と自分を比較し、20代のキャリアにコンプレックスを抱えるようになった伊藤さん。
「20代でできなかったことを取り戻そうと、必死にやってきたのが30代だった」と、当時を振り返る。
最初の転職先は、大手の総合人材サービス会社の系列のIT企業だった。社員のエンゲージメント向上や目標達成を支援するサービスの立ち上げに関わった。
「いかにモチベーションを上げて楽しく仕事をし、成果につなげていくか。それをクライアントに伴走しながら支援していく、コンサルのような仕事もしました。
大企業の新規事業部門で働けたことはすごく良い経験でしたし、学びも多かったですね」
教育機関でも働いた。2021年4月、武蔵野大学に創設された、起業家精神を育むためのアントレプレナーシップ学部の立ち上げに携わった。教員は全員、社会の第一線で働く実務家という日本で初めての試みだったという。
「『何を学ぶ学部なのか』というところからカリキュラムを考えたり、文科省への申請をしたり、学生を集めるためのマーケティングとしてオンラインのイベントやセミナーを開催したり……ゼロから学部をつくるという仕事に2年ほど携わりました」
さらに、こうした本業と並行し、副業にも力を入れていく。
経産省が主催するイノベーター人材を育成するプロジェクト「始動Next Innovator」に4期生として参加したほか、個人のチャレンジや組織変革を支援する一般社団法人「Work Design Lab(ワークデザインラボ)」にも所属。さまざまなイベントやセミナーにも足繁く通い、ビジネスに対する知見や人脈を広げていった。
夏休みの思い出がつまった奥能登へ。地方での活動にも従事
これまで東京を拠点に仕事を続けてきた伊藤さんだったが、2020~2021年にかけて、地方の活動にも関わるようになっていく。
「コロナ禍という文脈の中で、地域活性のプロジェクトが増えてきたんです。Work Design Labの奥能登の案件もその中の1つでした」
奥能登は、石川県の能登半島の最北端に位置し、珠洲市、輪島市、能登町、穴水町という二市二町で構成される。豊かな自然に恵まれ、「能登の里山里海」は2011年に日本で初めて世界農業遺産に認定されている。
実は、伊藤さんの母方の実家が珠洲市にあり、伊藤さん自身、里帰り出産のため珠洲市の病院で産まれた。小さい頃は毎年、夏休みになるたびに祖父母の家を遊びに訪れていたという。
「長い時は1カ月くらい、学校に上がってからも1~2週間くらい滞在していました。夏休みの思い出は全部、奥能登にあると言えるくらい、本当に、一年で一番楽しみにしていたんですよ」
しかし、祖母が他界してからは足が遠のき、プロジェクトのために能登を訪れたのは6、7年ぶりのことだったという。
「そのプロジェクトというのは、都市部で働いている人が副業人材として地域に関わることで、地域の事業者さんを支援し、奥能登の活性化につなげていく、といったものでした。その説明会を行うため、2022年6月に久しぶりに能登を訪れました。
小さい頃と比べると、閉まっているお店は増えてしまいましたが、子どもの頃によく遊んだ海や里山の風景は変わっていませんでした。海の匂いとか、食事時にいろいろなお家から漂ってくる夕食の匂いを嗅ぐと、ああ、能登の匂いだなと感じましたね」
一年間の二拠点生活を経て、珠洲市に移住
このWork Design Labのプロジェクトで、伊藤さんが担当した会社の1つが能登町にある「株式会社能登町ふれあい公社」だった。2022年7月、フリーランスとして独立した伊藤さんは、自ら副業人材としてこの会社に入り、一年間をかけて組織・人事改革を行うことになる。
「どういう組織にしていきたいか。どういう働き方が理想なのか。ミッションビジョンバリューを作って、地元の若手社員の方々と協動しながら、改革に取り組みました」
「地域で一番働きたい会社になるプロジェクト」と銘打ったこの取り組みは、2023年、日本HRチャレンジ大賞の地方活性賞を受賞した。
この仕事がきっかけで定期的に能登を訪れるようになった伊藤さん。東京と奥能登を行き来する二拠点生活を経て、2023年5月、ついに珠洲市への移住を果たす。
「当初は、移住するつもりは全くありませんでした。でも、一年かけて能登町で仕事をする中で、いろいろな人と知り合い、仲良くなることができた。例えば、外から来た人を受け入れてくれるカフェをやっているような子がいたり......地域の方が関係人口として私を受け入れ、巻き込み、繋いでくれたんです。
意図したわけではないですが、そうやって一年かけて土壌をつくることができたおかげで、こうして移住して、“新しいこと”も始めることができたのかなと思います」
24時間制コワーキングスペース「OKNO to Bridge(奥能登ブリッジ」)を開業
伊藤さんが話す「新しいこと」とは、2023年7月10日に珠洲市飯田町で開業したビジネス交流・キャリア支援の拠点となるコワーキングスペース「OKNO to Bridge(奥能登ブリッジ)」だ。
当初は祖父母が運営していた旧旅館の古民家の活用を予定していたが、2023年5月に発生した震災で建物が使えなくなったため、親戚が営んでいた化粧品店の店舗を改装し、急ピッチで開業に漕ぎつけたという。
24時間制の会員制コワーキングスペースで、10時~15時までは、地元の人を始め、誰でも無料で利用可能。それ以外の時間は、会員限定のコミュニティスペースとなる。
使い方は限定せず、利用者が思い思いのかたちで活用してほしいと話す。
「セミナーや勉強会を開いてもらってもいいし、ただ誰かと話したいときにふらっと立ち寄ってもらうのでもいい。来てくれる方のニーズを聞き、軌道修正をしながら、この場所をつくっていきたいと思っています」
若者や子育て世代の選択肢を広げられる場に
「OKNO to Bridge(奥能登ブリッジ)」という名前には、奥能登と首都圏、さらには奥能登の二市二町同士をつなぐ懸け橋にしたいという想いが込められている。
「奥能登で 『働く』 の可能性を拡げる場所」をコンセプトにしたこの場所を立ち上げた理由は、大きく2つあると伊藤さんは話す。
1つめは、若者が自信を持って働けたり、成長できる環境をつくること。
「地元の若い子たちは、高校を卒業してそのまま就職する子が多くて、外の世界を知らないわけです。すごく力を持っているし、可能性もあるけど、やっぱり本人たちも迷いを抱えている。
あるいは、移住してきた若い人たちも、いろいろやりたいことや想いがあっても、なかなか仕事がうまくいかなかったり、友だちがいなくて孤独だったりする。
そういう人たちが集まって、いろいろな人と会話をしたり、仕事やキャリアを広げたりできるコミュニティスペースにしていきたいです」
若者だけでなく、子育て世代の働き方支援も考えている。自身の体験から、女性が出産によってキャリアを奪われてしまうことなく、働き続けられる選択肢を広げたいという想いがある。
「小さいお子さんがいても、オンラインで仕事をすれば、場所を選ばずに働くことができます。例えば、東京の会社からオンラインで事務の仕事を受けることもできるかもしれない。
子育て世代の方にもここに来てもらって、そうした働き方や仕事の仕方を提案したり、教えたりする取り組みも始めています」
首都圏と地方をつなぎ、新たなビジネスを生み出す
2つめは、奥能登の資源を生かし、新しいビジネスを創出することだ。
「珠洲市も能登町も、人口が1万4000~5000人という小さな町です。商店街は閉まっているお店が増えているし、『過疎化と人口減少の最先端をいく町』だと感じます。でも、奥能登には林業や漁業を始め、酒蔵や農園など、素晴らしい産業がたくさんある。その価値を知ってもらうことで、新しいビジネスを生み出せる可能性がたくさんあります」
現時点でそれが十分にできていないのは、首都圏の経営者と地域の事業者とのつながりがうまく築けていないことが原因の一つだと、伊藤さんは考えている。
「実は、去年一年かけて、東京の経営者を始め、たくさんの人に声をかけて、能登に足を運んでもらいました。今年の4月だけでも、20人くらいの人が来てくれたんです。みなさん能登の天然資源にすごく興味を持ち、可能性を感じてくれたようでした。
ただ一方で、都市部と奥能登では生活環境が違うし、ビジネスに対する時間感覚も全然違う。コミュニケーションがスムーズにいかない面もあります。だからこそ、その両者をつなぐハブとなる役割が必要だと思いました」
価値ある資源を数多く有している地方と、その売り方やマーケティングに長けている首都圏。その両者をマッチングさせることで新しいビジネスを生み出す。それは地域の雇用の創出につながり、ひいては奥能登の活性化につながっていく。
そうした持続可能なモデルを作り上げ、「10年後の未来をつくっていくこと」。それが、奥能登ブリッジが目指すところだ。
「感度の高い人たちがここに集まって、能登に来ると新しいビジネスが始められるし、町の人もみんな元気!という状態がつくれたら最高ですね」
大事なのは、「未来に可能性を感じられること」
想像できる未来は実現する。しかし、想像もしていなかったようなことが起こると、人生はより豊かになる。
大事なのは、「未来に可能性を感じられること」。そのために、「いろいろな選択肢を持てること」だと伊藤さんは話す。
「去年の今頃、まさか珠洲市に移住してコワーキングを作るなんて1ミリも考えていませんでした。でも、自分の人生がそういう思いもしなかったことにつながっていくのはすごく楽しいです。
自分の人生が、そうしたいろいろな可能性に開かれていると思えるだけでも良いのかもしれませんね」
20代の頃は、仕事も子育ても何となく“良い感じ”にこなす人生に疑問を持たなかった。ほかの選択肢を知る機会もなく、自ら人生の選択肢を狭めていた部分もあった。それが変わったのは30代。世の中には、自分には思いもよらない選択をしている人がたくさんいた。
「私はどちらかというと真面目な人間なので、自分にはない発想を持っている人たちに魅力を感じるんです。そういう人たちと会話をしたり、一緒に何かをするうちに、自分自身も変わっていったのかもしれません」
移住も選択肢の一つ。「誰」と「何」をしたいかを考えよう
珠洲市に移住し、周囲を巻き込み、巻き込まれながら、楽しく仕事をしている伊藤さん。最後に、そんな伊藤さんから、地方移住を考えている人に向けてメッセージをいただいた。
「移住ありきではなく、自分が何をしたいのか、誰と付き合っていきたいのか。それが大事なのだと思います。私の場合、その場所がたまたま地方だった。これも結局、選択肢の一つです。もし移住して合わなければ別の場所に行けば良いし、"命がけ"で移住する必要はないと思います。
とはいえ、あまりにライトに移住してしまうと苦労することも多いかもしれない。そういう意味では、私の場合、一年間、二拠点生活をして準備期間があったのは結果として良かったかもしれないです。計画的にやったわけではないのですが」
伊藤さんの活動の根底にはつねに、「働くことで幸せになる」というテーマがある。奥能登ブリッジの活動も突き詰めていけば、「奥能登の人を幸せにしたい」というシンプルな想いに行きつく。
都会と比べて空が広く、ゆったりとした時間が流れる奥能登。生活をスローダウンさせるために地方移住を選ぶ人は多いが、伊藤さんが求めているものは違う。
「もっともっと活動的に過ごしたいから移住したんです」という言葉がとても印象的だった。