移住者プロフィール
浜口順子さん
出身地:大阪府大阪市、前住所:東京都、現住所:三重県、職業:タレント
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3才で若年性特発性関節炎を発症。10年に及ぶ闘病にも心折れなかった理由
「阪神タイガーズファンが飛び込むことで有名な "道頓堀"からほど近いところで生まれ育ちました。都心で生まれ育ったので、三重での暮らしは毎日が新鮮で、とても楽しいです」
大阪生まれらしい軽快なトークで切り出したのは、先日38年ぶり2度目の日本一に輝いた阪神タイガースの生まれながらの大ファンであることを公言する、タレントの浜口順子さん。
周囲を明るく照らす華やかな笑顔が印象的な彼女からは想像もつかないことだが、3才のときに“こどものリウマチ”ともいわれる若年性特発性関節炎を発症し、約10年間入退院を繰り返した経験を持つ。
特に若い年齢で発症するこの病は、通常の生活に大きな制約を課すことがあり、元気盛りの少女にとって忍耐の日々だったことは想像に難くない。真っ暗なトンネルを手探りで歩き続けるような闘病生活の中でも、彼女の心が光を失わなかったのは、ご両親の愛情と、小学校の先生や友人たちの支えがあったからだという。
「根気強く治療してくださった病院の先生方はもちろんのこと、私に合う治療法を探し続けてくれた母のおかげもあって、小学校6年生の時に寛解となって以降、現在まで状態を維持できています。
将来的に歩けなくなる生活を余儀なくされる可能性もありましたから、当時は私よりもよっぽど親の方が追いつめられていたと思います。それでも私の前ではいつでも気丈でいてくれる両親でしたし、『病気に甘えずに強く生きてほしい』という厳しい一面もあったので、そこまで病気を意識せずに過ごせました。
そしてもうひとつ、病弱だった私がたくましく育ったのは、愛情深い先生方と、元気いっぱいで思いやりに溢れた友人たちがいた小学校のおかげです。遊び場も自然に囲まれていて、農業体験もさせてくれたりと、環境としても素晴らしかった。感謝しかないですね」と、穏やかながらもはりのある声で当時を振り返った。
潰えた夢のその先に待っていた新たな夢
長きに渡る自身の闘病経験から、いつしか看護師になることを夢見るようになったという浜口さん。その背景には「病棟の子どもたちを支えたい」という強い想いがあったのだという。
理系が苦手という大きな課題はあったものの、夢の実現に近づくために勉学に励み、自身の持つ全ての力を出して進路決定試験に挑んだが、結果は芳しいものではなかった。
先生から放たれた「看護師になるのはちょっとしんどいかもしれへん」という言葉に、自身の置かれた状況を理解したという浜口さん。潰(つい)えた夢に落胆したというが、落ちたままで終わらないのが彼女である。
「くよくよしていても仕方がないので、“新しい夢を持とう”と気持ちを切り替えました。
お笑いが好きなので、“好き”を活かせる、かつ文章を書く仕事は何かと考えた時に『作家』という答えに辿り着いて。
作家の中でも、テレビやラジオなどの好きなジャンルでやっていきたいと思ったので、放送作家を目指すことにしました」
テーマは「美・笑・女」。4万人超の応募者の中から頂点に輝き芸能界デビュー!
2001年に、ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを受賞したことを機に、芸能界デビューを果たした。
ホリプロタレントスカウトキャラバンは、毎年テーマを決めて応募者を募ることで知られ、彼女がグランプリに輝いた2001年のテーマは、「美・笑・女(びしょうじょ)」であった。「笑」の文字がコンセプトの主旨を示すように、バラエティーで活躍するタレントの輩出を目的とした年だったという。
放送作家を目指していたはずの彼女がなぜ、表舞台に出るタレントを輩出するオーディションを受けることになったのだろうか。
「放送作家になる夢を持ったのは、高校1年生の時。
当時はまだネットもない時代で、どうしたら放送作家になれるのか見当もつきませんでした。
何かしらヒントを得られるのではないかと、バラエティ番組を中心にとにかく色々なテレビ番組を見るようにしていたのですが、ある時、エンドロールに同じ放送作家さんのお名前がたびたび出てくることに気がついて、記憶の中にメモしておいたんです。
そんな矢先にホリプロタレントスカウトキャラバンの情報を目にしたところ、審査員の中に、あの記憶していた著名な放送作家さんたちのお名前があるわけですよ!
『ここに出れば会えるかも!』という思いから、迷いなく応募しました」
当初は放送作家に繋がる何かしらのきっかけとなることを期待して参加したオーディションであったが、選考が進むにつれ、彼女にある心境の変化が訪れたという。
「審査員の方々から『作家は何歳からでもなれる。人生の経験が活きる仕事なので、まずはタレントとしての経験を積んでみてはどうか』という言葉をいただき、その通りだとハッとさせられました。
1ミリでも期待を持ってくださってる方が1人でもいるんやったら、その方たちの気持ちに応えたいと思い、ここまで来たらグランプリ目指したいと強く思いました」
結果は見事グランプリ。
こうしてデビューを機に故郷の大阪から上京をした。
キーワードは“精神的な自立”。両親の教育方針が育んだ自己決定力
彼女の行動力を創出するバイタリティの源泉は、どこから湧いてくるのだろうか。
そこには、幼少期からのご両親の教えがあることを話してくれた。
「昔から何か気になることがあると、自分の目で確かめないと気が済まなくて、とりあえずやってみないと始まらないという性格でした。
そう思うようになった背景には、“精神的な自立”をキーワードに私を育ててくれた、両親の教育方針が影響しているのかもしれません。
『結局最後やるのは自分自身やで』と、繰り返し言われてきたからか、何かを決断するときに滅多に人に相談したりしないんです。結局決断するのは自分自身ですから。
例えば、どの学校に進学するかってものすごく迷いますよね。
一般的には進学校に行ってほしいと考える親御さんが多いのかもしれませんが、私の親の場合は『通うのはあなたなのだから、自分の足で学校に行って、自分の目で確かめなさい』という考え。
受験で2校合格し、どちらに進学するか迷ったが、再度学校見学をし、自分の目で確かめた結果、惹かれた学校へ進学を決めた。
選択する、決断する、実行するということを、子どもの時から日常的にさせるというのが親の教育方針だったので、それが今に繋がっているのだと思います」
芸能生活20周年を迎え、ゼロスタートを決意
2022年に、彼女の故郷である大阪と、ご主人の故郷である名古屋のちょうど中間地点にあたる三重県に移住した浜口さん。
三重県は、子どもの頃に家族旅行でたびたび訪れていた思い入れのある場所であったというが、何よりの移住の決め手となったのは、芸能生活20周年という大きな節目に抱いた、ある想いだったという。
「2021年に芸能生活20周年を迎えましたが、『このままだとちょっとあかんな』と思ったんです。
これまでの20年間は、デビュー当時からの“経験”という貯金を糧に生きてきましたが、これからの20年を生きるためには、 エピソードも含めて、色々な出来事を作っていかなあかんなっていうのはずっと思っていて。
事務所に守られている状況にこの先も甘え続けていていいのか、と葛藤していた矢先にコロナ禍に入り、東京という場所に縛られない柔軟な働き方があることを知りました。
自分が軸としてきた東京という場所から離れ、誰一人知り合いのいない場所でゼロスタートしたい。
そんな想いを夫と話し、思い切って東京から離れてみることを決断しました」
新たな環境や未知の場所でゼロスタートを切ることは容易なことではないが、その決断をした者にしか見られない景色や得られる経験は、何よりの財産となるのだろう。
人と比べないことの心地よさを知ることができた
三重県への移住によって、“東京”という場所を俯瞰して見ることができるようになり、自身の性格も穏やかに変わったという。
何よりの大きな喜びは、自由な環境に身を置くことで「他人と比べない」という新たな自分に出会えたことなのだという。
「三重に来てから他人と比べなくなったんです。いい意味で、本当に人のことが気にならなくなって。
1人っ子は家庭間で兄弟姉妹と比較されることがないので、どうしても“自分”が基準になりがちなまま、社会に出る傾向があると思うんです。
特に芸能界は、常に誰かと比較されて自分の価値を決められることが常な世界。比較される環境に身を置いたことがなかった私には耐性がなく、他人と比べてしまうことに自己嫌悪もあり、とても辛かった。
なので、自ずと人と比べなくなったことは、移住してよかったと心から思えることの1つですね。それもこれも、ゼロベースの場所に移住をしたからなのだと思います」
と、清々しい笑顔を浮かべ、三重での暮らしの幸福感を話してくれた浜口さん。
誰かと比べてしまう苦しみから彼女を解放したのは、未知の可能性を探る決断をした他の誰でもない自分自身である。
その選択を可能にしたのは、理解者である夫と、幼少期から自身の選択に責任を持って歩んできた自分自身に対する信頼の表れなのかもしれない。
“どこにも属していない自分”の居場所にようやく出会えた
彼女にとって、心からの喜びや、真の豊かさを感じる瞬間はどんな時なのだろうか。
「振り返ってみると、“どこにも属してない自分”の居場所をずっと探し求めてきたような気がします。
その場所が三重県だったんだと今は心から思えているし、探し求めていた答えに辿り着いたことは、ものすごく幸せなことだと思いますね。
出張先の東京も刺激的で楽しいのですが、東京から三重に戻ってくると、ものすごくほっとするようになったんです。
心身のスイッチが切り替わって、別世界に来たみたいな感覚になるというか。それが自分にとって、ものすごくリフレッシュになっていると感じます。
三重県は東海と関西の文化が混在してるんですけど、それ以上に昔からの独自の文化が根付いていて、三重県民であることを誇りに思っている方がとても多いことも魅力的だな、と思っていて。
伝統に根ざしたお祭りや伝統芸能も活気づいているので、それが三重の魅力をさらに際立たせているのだと思います。
すごいところに移り住めたなと気が付いたことも、心の豊かさに繋がっていますね」
移住をもっとカジュアルに!もっと気軽に、人生の選択肢の1つに入れてもいいー
最後に、移住を検討している方に向けてメッセージをお願いした。
「『移住』というと、ものすごくおおごとに捉えてしまう方もいると思いますが、少しでも環境を変えてみたいと思ってるのなら、いい意味でもっとカジュアルに、もっと気軽に、人生の選択肢の1つに入れてもいいのではないかと思います。
遠方で縁のない自然豊かな場所を選ぶことだけが移住ではないと思うので、例えば近隣エリアの都市部に引っ越してみて、慣れてきたら、海でも山でも自然いっぱいなところでも、憧れの場所に段階的に移り住むのだっていい。
1回しかしちゃいけないルールも、定住しなきゃいけないルールもないわけですし、ライフスタイルに合わせて転々としたっていいと思う。
自分が実際に移住してみて、移住の経緯も人それぞれ、多種多様な移住の仕方があることを知ったので、『もっと気軽に移住を選択肢に入れましょう!』と、提案したいです(笑)
それと最後に、三重県に移住を考えてる人に絶対言っておきたいこと。
みんな!三重はめちゃくちゃいいところだから移住してきた方がいいよ!(笑)」
と、とびっきりの笑顔で話してくれた。
彼女のまとうハッピーオーラは、三重の人々を自然と笑顔にし、ポジティブなエネルギーで
包み込むことだろう。
春の訪れが来る頃、自然が生み出す絶景のもと、かけがえのない新しい命を大事に大事に慈しむ彼女の姿が目に浮かんでくるようだ。