移住者プロフィール
芝本 聖子さん
移住時期
2002年
出身地:埼玉県、現住所:千葉県いすみ市、職業:水着ブランド「kps」の代表
目次
INDEX
海を好きになった幼少期、サーフィンに出会った学生時代
東京で生まれ、埼玉県川口市で幼少期を過ごした芝本さんは、毎年、夏休みになるたびに家族で千葉の海を訪れていたという。
「父の会社の保養所がある御宿によく連れて行ってもらっていました。もともとは私の小児喘息の療養が目的だったんですが、海はお金もかからないし、何より楽しかったから、夏になると『海行きたい!』って感じで。それで自然と海が好きになりましたね」
サーフィンを始めたのは15歳のとき。友達に誘われて行った海で、そのお兄さんがサーフィンをしているのを目にしたことがきっかけだった。「海でできるこんなスポーツがあるの!」と、とても感動したそうだ。
「それ以来、藤沢の鵠沼や湘南の茅ヶ崎によく行くようになりました。ハマり出してからは、自分の板とか一式買って、休みの日はそれを持って電車で通っていましたね。誰かが海行くって言ったら、『はい、私も行きます!』って感じで、車に乗せてもらったり。もう、とにかくサーフィンがしたかったんです」
サーフィンを通して「真面目」になった
高校3年生のとき、芝本さんは心を決める。
「大学には行かないで、サーフィンをやりたい」
その背中をご両親も押してくれた。「海まで通うのが大変」と苦労する娘のため、湘南にアパートを借りてくれたという。高校在学中にそこで一人暮らしを始め、埼玉の高校には卒業するまで湘南から通った。
どちらかというと遊んでばかりいた学生時代だったが、「サーフィンに没頭するようになってから真面目になりました」と芝本さんは当時を振り返る。サーフィンの魅力について、次のように話してくれた。
「サーフィンは生き方そのものです。自然に合わせる必要があるから、自分の思い通りにはまずいかないし、その日のコンディションや季節、『夏はクラゲが出る』とか『エイが出る』とかそういうことも含めて、色々なことを知っていないとできない。結構レベルが高い”遊び”だと私は思っています」
良い波に乗れたら「また乗りたい」と気分が高揚し、乗れなかったら「もっと良い波に乗りたい」と欲求不満になる。「もっともっと」と求めていくと、近くの海とは別の場所にも行ってみたくなる。
そのようにして、1だったものが、100にも200にも1000にも広がるのがサーフィンなのだという。その魅力に憑りつかれた人がサーフィンにハマってしまうのは「しょうがないこと」と芝本さん。
芝本さんにとっては海こそが学びの場であり、サーフィンをすることで世界の広さを知り、自立への道を歩んでいったのだろう。
いすみ市に移住。仲間との“シェアハウス”でドラマのような生活
芝本さんが千葉県いすみ市に移住したのは2002年。高校卒業後、湘南で4~5年暮らしたあとだった。
「その頃、湘南であまり良い波に乗れなくなっていて、千葉に引っ越すことを考えていました。バリで開催されたサーフィンの試合に参加したとき、一緒に行ったプロサーファーの友達にその話をしたら『え、私も引っ越ししたい!』と盛り上がって。それで、『じゃあ、帰国したら家を探して一緒に住もう』という話がすぐにまとまりました(笑)」
帰国後、いすみ市で物件を探すと、ちょうど良い感じの一軒家が見つかった。
「一階に和室とリビング、二階に個室が2部屋、それにトイレとお風呂といった間取りで、リビングを共有スペースにして、二階から降りてきたらそこにみんなで集まれるような、シェアハウスするには超理想的な家でした。そこに、私と、のちのち夫婦になる友達カップルの4人で暮らしました。まさにドラマの世界みたいでしたよ。そんなにお洒落じゃなくて、日本家屋という感じの家でしたけど(笑)」
プロツアーを回りながら、「波情報」のアルバイト
移住当時、芝本さんはプロサーファーを目指し、プロツアーを回っているところだった。その頃の主な収入源といえば、「波情報」で稼ぐアルバイト代だったという。
「当時は余裕のあるスポンサー企業の人とかが結構いたので、『頑張っているからいいよ』という感じで、サーフィンの活動をサポートしてもらったり、『波情報』のバイトをまわしてもらったりしてたんです」
現地の波の状況を発信する「波情報」は、特に遠方から足を運ぶサーファーにとっては、頼みの綱とも言える貴重な情報源。一日5回、2~3時間おきに波や風の状況を見に行き、それをアップするのが芝本さんの仕事だった。
「朝、起きたらサーフィンに行きがてら波の様子を見て情報を上げて、次の情報更新までまたサーフィンして……という感じの毎日でした。それでお金を稼げるから、サーフィンをやりたい人にとっては最高の仕事でしたね」
結婚、そして家を購入
夫との縁を結んだのもサーフィンだった。2004年、シェアハウスの友達がチャンピオンになったとき、お祝いのために大阪から駆けつけたのが二つ年下のその人だった。出会いから一年後には結婚。芝本さん曰く、「付き合ってすぐのスピード婚」だったそうだ。
結婚後、サーファー仲間の紹介でいすみ市内に一軒家を購入。川沿いに建つその家は、アメリカ人の建築家の手によるもので、カナダ系の木材を輸入して建てられたツーバイフォーの物件だった。「ツーバイフォー」とは、北米で誕生した木造の建築工法で、ハリケーンや地震にも強いのが特長だ。芝本さんは「カリフォルニアやハワイにありそうな雰囲気」が気に入っているという。
現在もこの家で、夫と5歳になる長男の3人で暮らしている。実は、夫婦には長らく子供ができなかった。長男が生まれたのは、結婚後11年目のことだったそうだ。
「とはいえ、夫婦揃って呑気なものでしたけどね。11年経ってようやく、『子供できないね』『何でできないんだろうね?』『調べる?』『調べてみよー』という感じだったので......(笑)
友達も不妊で悩んでいて、『いいところあるよ』と紹介してもらった病院に私も通い始めたら、ようやく子供ができたんです」
いすみ市は、子育て世代への支援も充実
不妊治療をする際には、国・県に加え、いすみ市から支給される助成金を利用した。不妊治療だけでなく、いすみ市は子育てしやすい町づくりに力を入れており、子育て世代への支援も手厚い。例えば、医療費助成制度を利用すれば、高校生までは入院・通院の自己負担額が1回につき300円で済む。
また、海のある土地柄だけあって、学校の授業にもおもしろい工夫が見られるという。サーフィンをプログラムに取り入れている地元の小学校では、近くの太東ビーチで課外授業でサーフィンを取り入れてるため、芝本さんもスクールのお手伝いもしている。
「ロングボードを始めた学校の先生もいるし、移住者の中には、中学生のときにすでにプロサーファーの子もいたりと、面白いですよ!いすみ市は、移住者の受け入れに関しては前向き。『まだそんなこと言ってんの?』っていう田舎くさいところもあるんですけど(笑)、それでも外から来る人が住みやすいように、政策を考えてくれていると思います」
サーフィンで着られる水着がほしい。水着ブランド「kps」を立ち上げ
いすみ市に移住したあと、2004年から現在にいたるまで、芝本さんがライフワークとして取り組んでいるのが、自身が代表を務める水着ブランド「kps」だ。
しかし、ブランドの立ち上げから現在のスタイルを確立するまでには、紆余曲折の物語があった。
サーフィンではウェットスーツの下に水着を着るのが一般的だ。しかし2004年当時は、日本ではサーフィン用に着られる快適な水着がなかなか手に入らなかったという。
「今ならSNSですぐ情報が見つかるし、どこの国の水着でも好きに買うことができるけど、20年前、私がサーフィンを始めて10年目くらいのときは、『まず水着はどこで買えばいいんだ?』というところからだったんです」
特に冬場、海外に行く前に水着を買おうとしても、店の隅にシーズンが終わった水着が細々と並んでいるだけ。とても欲しいとは思えなかった。
さらに、日本では上下セットのデザインが多く、サイズや色も限定的で融通がきかないのも困りものだった。バリやオーストラリア、ハワイなど海外に行けば、トップとボトムが別々に売られているのが当たり前。組み合わせを自由に選べる上、サイズ展開も豊富だったという。
「みんな水着どうしてんの?ってすごく疑問でした。そんな時に、友達が東京に水着を作れる工場があるらしいと教えてくれて。とにかく勢いだけはあるんで『じゃあ、電話してみようよ!』みたいな感じで、その縫製会社に直接電話したんです」
「サーフィンで着られる水着がないから、作りたい」
電話口の社長に芝本さんは自分の思いを伝えた。その熱意が通じたのだろうか、一通り話を聞き終えた社長は、「一度、こちらに来てください」と応じてくれたという。
「今思えば、いきなり電話してきた小娘に社長もよく『うん』って言ってくれたなと思います(笑)。それから20年近く、今もお世話になっています」
東京都江東区にあるその縫製会社は、多くのブランド水着を手がける老舗の水着会社だった。芝本さんが足を運び、「こういう形で、こういう素材で、こういうデザインでやりたいんです」と話すと、社長はその情熱を面白がってくれたようだ。たくさんの生地見本を引っ張り出して見せてくれ、一度パターンを起こしてみましょう、ということになった。
こうして、芝本さんのパワフルな行動力とそれを受け止める社長の懐の深さによって、水着ブランド「kps」は産声を上げたのだった。
サイズと形にこだわった水着を展開
「kps」の水着づくりで芝本さんが特にこだわったのは、思い切ってサイズを一つに限定したこと。その代わり、伸縮性を高めることで日本人の体型にフィットするように形を工夫し、水着の形は最初は上下それぞれ3パターンほど用意した。
「素人ながらに、水着の形には自信がありました。トップは、胸が小さい人にも似合う三角タイプ、胸の大きさにコンプレックスがある人でも胸元のラインが綺麗に見えるホルダーネックタイプ、肩にストラップがないバンドゥタイプ。ボトムは三角形、紐、ローライズに絞って、脚長効果があるのは三角、お尻が綺麗に見える形にローライズなど、その人によって選びやすくしました。
自身が苦労した経験から、トップとボトムは別売りにし、形やデザインを自由に組み合わせ、自分の体型や好みに合った水着をカスタマイズできるようにした。そんな「kps」の戦略は多くの人の心を掴んだ。
ブランドの窮地を救った「絞り染め」
「kps」は、ブランド立ち上げから2年ほど、好調な売上をキープしていた。しかしーーー。
「ある時、商品の在庫が『あれ、注文ミスしたかな?』っていうくらいたくさん余るようになりました。やっぱり最初は真新しさに惹かれてみんな買ってくれるんだけど、ずっとは続かないんですよね」
大きな壁にぶつかった芝本さんにはその当時、仕事とは別に、もう一つ頭を悩ませていた問題があった。
「千葉の海には砂鉄という大敵がいます。私は白い水着が大好きなんですけど、それを着てビーチに行くと、一気にプチプチプチプチ!ってカビが生えたみたいに水着に砂が入って汚れてしまうんです。それが悩みの種でした」
「大量に残った水着の在庫」と「砂鉄で汚れる白い水着」という2つの問題。しかしある時、芝本さんはその両方を解決に導く運命的なアイデアと出会う。窮地を救ったのは、友達の家でたまたま目にした「絞り染め」だった。
「友達の家に遊びに行ったら、キッチンでTシャツを染めていました。聞くと、ホームセンターで買った染め粉で染めているらしい。その材料を見たらふと、『私の水着も染められるかも』と閃きました。
それで早速、染め粉や鍋を買い揃えて、砂で汚れた白い水着を染めてみました。ブランドのロゴマークの部分を輪ゴムで縛って染めたら、そこだけが白く残って、すごく可愛く仕上がったんです」
染めた水着をサーフィンに着ていくと、「その水着どうしたの!?」と周りから好評価。気をよくした芝本さんは、在庫の水着も縛り方を変えながら染めてみることにした。それが今、kpsの主力商品として高い人気を集めている「染め」の水着が誕生した瞬間だった。
ひとつひとつ手作業で染めていく水着は、一着ずつに違った風合いが生まれ、一つとして同じ水着は存在しない。
それが何よりの魅力となっている。
「私にとって”染め”は、”サーフィン”とすごく似たフィーリングでできる作業です。一枚ずつ縛って染める水着はそれぞれに個性が出るから、一回一回の仕上がりが楽しみで止められない。サーフィンも一本波に乗ったらまたもう一本乗りたくなって、何度も沖に出ていく。そんな風にして続けていけるサステナブルなところがすごく気に入っています」
海岸保全活動にも尽力。サーフィンを続けるのは「変化を見極めるため」
サーフィンを楽しむ海の環境は、その年ごとに大きく変わる。海は、穏やかな時もあれば台風などによって大きな被害に見舞われることもある。
ある年は、台風が過ぎ去ったあと、前日まで砂浜の駐車場だった場所が一瞬で侵食して砂浜がなくなることもあったという。海を相手にしていると、自然の脅威を肌身で感じることも多い。
芝本さんは長年、海岸の保全活動にも力を入れてきた。活動を始めたきっかけは、海岸浸食によって東浪見(九十九里海岸)の砂浜が消えつつある姿を目の当たりにしたことだった。「日本の海岸環境を守る会」の会長を務め、2007年には当時の安倍晋三首相に官邸で面会し、島国である日本の海岸線を保全する重要性を訴えたこともあったそうだ。
「今は、団体としての活動というよりは地域ごとの個別の活動にシフトしています。ビーチクリーンもその一つです。とはいえ、サーフィンやってる人たちは、海上がりにゴミが落ちていたら片手で拾ってくるし、毎日、自然とやってるんですよね。
昔よりは、環境問題に関心を持つ人も増えて、誰かが呼びかけなくても自発的に環境問題に取り組む人も多くなって来てると思います」
人間が生きていれば、環境は必ず変化する。新しく引っ越してきた人がいれば、隣家の住人が亡くなって家が壊されることもある。それと同じように、10年前はいい波があったのに今はそうではないビーチがあれば、10年前はサーフィンができなかったのに今はできるビーチもある。そうした自然の変化の原因は、何年もかけて観察していないとわからないことが多いと、芝本さんは話す。
「大事なのは、その変化に対してアクションしたほうがいいのか、キープしたほうがいいのかを見極めること。それを見極めるためにも、私はサーフィンを続けているのだと思います」
10年後をイメージして移住先を選ぼう
移住して20年。大切な家族、サーフィンによってつながった多くの仲間と支え合いながら、いすみ市での生活を続けている芝本さん。最後に、先輩移住者として、移住を検討している人に向けてアドバイスをいただいた。
「移住するときに一番重要なのは、『仕事』だと思います。家賃が安いからといって地方移住しても、仕事がない場所に引っ越してしまうと生活水準が下がるから、結構ストイックにならないといけないことが多い。まずは移住する目的をはっきりさせて、自分が目指していることに合った場所を選ぶことが大切だと思います。
例えば、サーフィンをやりたい人は海のそばに引っ越すとして、どんな波を求めるかで場所が変わりますよね。常に波がある方がいいのか、穏やかな波がいいのか、人の少ない場所、暖かい場所、刺激のある場所……その目的によって住む場所を選ぶ。
その時、自分がこれから先の10年をどんな場所で、どういう風に生活していくと幸せなのかをイメージするといいと思います」
芝本さんご自身は今後もサーフィンをしながら、水着やビーチクリーンなど、自分が楽しく、そして周りを幸せにしていける活動を続けていきたいと話す。
「私は、人よりも早く何かに気づくのが得意なのかもしれません」
その言葉通り、シェアハウスも、染めの水着も、環境問題への取り組みも、世の中の関心が高まるずっと前に、芝本さんは自身の活動として発見し、取り組んできた。その感度の鋭さは、幼少期から海に親しみ、サーフィンから生きる術を学び、自然の変化をつぶさに観察してきたからこそ、備わった力なのではないだろうか。
もしかすると、移住先として人気が高まっているいすみ市への移住も、10年、20年先の未来を予感した選択のひとつだったのかもしれない。