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破綻寸前の小さな酒造から、世界に羽ばたく「旭酒造」へと躍進
銘酒「獺祭」を生み出した酒造会社として、今でこそ名を知られている旭酒造。同社には、破綻寸前の小規模酒蔵から飛躍したという歴史があります。
この転換点には、「酔うための酒」や「売るための酒」ではなく、真に「味わう酒」を創り出すという明確なビジョンがありました。
「獺祭」はいかにして生まれ、広く認知されるに至ったのでしょうか。獺祭の歴史と開発者の想いに迫ります。
旭酒造の歴史は古く、前身の酒蔵が創業されたのは1770年の江戸時代にさかのぼります。
1800年代後半、初代が「桜井酒場」として酒造業を継ぎ、事業を拡大。第二次世界大戦中の米穀配給統制によって一度は事業を閉じざるを得なくなりましたが、戦後の1948年、複数の小さな酒蔵が協力して「旭酒造」を設立し、新たなスタートを切りました。
1984年には、創業家の急逝を受けて現会長の桜井博志氏(以下、桜井氏)が三代目当主として経営を引き継ぎます。
就任当時の売上高は9,700万円、年商も前年対比85%と危機的状況にあり、岩国市内においても4番手というポジションに甘んじていました。当時の主力商品であった「旭富士」の(紙)パック酒やカップ酒を作り、値引き販売を実施するも、一時的な打開策にしかなりえませんでした。
ここで桜井氏は、「価格重視」から「品質重視」へ大きく方針を転換すべく、純米大吟醸造りへの挑戦に乗り出します。この決断こそが旭酒造の大きな転機となるのです。
ノウハウがないところから何とか造り上げた大吟醸は、到底満足のいく出来ではなかったといいますが、それでもお客様の反応は上々で、大吟醸の売上げだけが伸びていきました。
手ごたえを感じた桜井氏は、新たな杜氏を迎えて大吟醸造りに本格的に取り組みます。こうして試行錯誤の末に誕生したのが、かの銘酒「獺祭」です。
誕生から2年後の1992年には、獺祭の名を一躍世に知らしめた『獺祭 純米大吟醸 磨き二割三分』を発表し、高品質な日本酒で国内外から高く評価されるようになったのです。
一人ひとりが酒造りの「匠」。他と一線を画す「社員による四季醸造」を実現
酒造りは一般的に、専門職である杜氏(とうじ)の指揮下で行われることが多く、かつては旭酒造も同様でした。
しかし、1999年に杜氏が去ってしまうという事態に見舞われ、社員だけで酒造りをすることを余儀なくされます。
この困難を乗り切るべく、現場のまとめ役として「蔵長」と「副蔵長」を置き、社員一人ひとりが「匠」を担う方針に転換。一丸となって酒造りに取り組む中で徐々に醸造期間を伸ばし、現在の「四季醸造」にたどり着きました。
四季を通じて高品質な獺祭を提供するために、データ分析と厳格な管理を徹底。実際に醸造に携わる社員だけでなく、間接的に関与する社員も含めて、全員が重要な役割を果たしています。
「誰ひとり欠けてもいい酒は完成しない」という理念のもと、組織全体の一体感が、獺祭の深い味わいを引き出す鍵となっているのでしょう。
会長・社長が共通して大切にしていること
2016年9月、代表取締役社長に就任し四代目蔵元となったのが、桜井氏のご長男・一宏氏です。
大学卒業後、東京の企業に就職しましたが、ある時居酒屋で飲んだ「獺祭」の味が忘れられず、2006年にUターンし旭酒造に入社しました。
製造を中心に1年半ほど働いた後、単身ニューヨークへ。積極的な外交で海外進出の礎を築き、常務取締役に就任。2010年より取締役副社長として海外マーケティングを担当したのち、父からのバトンを引き継ぎました。
「旭酒造は、トップとの距離が近い会社だと思います。会長と社長が共通して大切にされているのは、『社員の表情や顔色を自分たちの目で確認する』ということです。時間の許す限り朝礼にも参加されるので、誰かを介入することなく、トップからダイレクトに会社の方針が伝達されます」。
と、野中さん。そんな体制こそが、社員たちの士気の高まりに繋がっているのかもしれません。
獺祭ができるまで
副蔵長・野中さんの案内のもと、実際に酒造りの現場を見学させていただきました。
その様子を製造工程とともにお届けします。
(※見学できなかった工程については、旭酒造の公式ホームページに掲載されている「製造工程」の情報を参照して補足説明を行っています。)
使用する米は、酒米の王様と呼ばれる『山田錦』のみ
旭酒造は、「酒米の王様」とされる山田錦を唯一の原料として使用しています。この米は削っても粒が保持され、高品質の酒を造ることが可能ですが、その栽培は他の種類より困難です。
山田錦は背が高く倒れやすく、倒れると自動的に発芽を始めます。2024年現在、全国22県の生産者がこの貴重な酒米を旭酒造に供給しており、その努力により、消費者は上質な獺祭を楽しむことができるのです。
製造工程
精米
日本酒の製造工程は、主原料である「酒米」の精米から始まります。
日本酒に使用される米の精米歩合は通常約70%ですが、同社では、この数値を大幅に上回る平均35% に設定しています。これは、生産者が大切に育てた「山田錦」という最高級の酒米を一粒も無駄にせず、最大限に活かすための努力の表れです。
この高い精米歩合が、獺祭の特異な品質と深い味わいを生み出す秘密の一つです。
洗米、浸漬(しんせき)
精米した米を洗って糠(ぬか)を除去した後、米を水に浸す「浸漬」という工程に移ります。洗米後の水分値を0.3%以下という非常に厳密な水準でコントロールするために、作業は全て手洗いで行われます。
この高い精度は通常、高級な大吟醸酒造りにのみ用いられる技術で、最新の洗米機でも達成が困難であるため、非常に熟練した技が必要です。
蒸米
45日間の醗酵期間中に酵素の作用に耐えられる状態にするため、米の外側は硬く、内側は柔らかい状態にする必要があります。これを実現するために、伝統的な「和釜」技法を用います。
この技法では、洗米後の米を釜に入れ、蒸し上がりの米を釜から取り出すといった手間のかかる作業が求められますが、理想的な蒸米を作るには最適な方法とされています。
麹(こうじ)造り
「私たちの蔵には床(とこ)が計48台あり、これほど多くの床で手作業を行っているのは日本でも珍しいです」
そう言って通されたのは、麹造りを行っている室(むろ)内。
日本酒製造における重要なステップである「一麹、二もと、三造り」という言葉が示す通り、優れた麹がなければ質の高い酒は生まれません。
室内に足を踏み入れると、むわっとした熱気とともに、24台の床が整然と並ぶ壮観な景色が目に飛び込んできました。鼻孔をつく米と木の香りが心地よく、思わず深く息を吸い込みます。
この工程で最も重要になるのが「水分量のコントロール」。米が孤立して乾燥してしまわないよう、床の中央に密集して配置されます。
麹の発育を促すために室内は38-40度に設定されており、日に何度も着替えが必要になるのだとか。熱気に包まれた室内では、床を囲み、匠たちが黙々と米をほぐしています。
優しく優雅にかつ素早く米をほぐすそのリズムは、決して一定ではありません。
「優しいだけではダメ。厳しすぎても甘やかしすぎてもダメなので、その塩梅(あんばい)がなかなか難しいんです」と、野中さん。
まるで子育ての極意を聞いているかのようなその言葉通り、野中さんたちにとって麹を育てるということは、子育てと同義なのかもしれません。
飴と鞭を使い分け、日々愛情を注ぐ匠たちがいるからこそ、銘酒「獺祭」の原石となる麹が日々造られるのです。
発酵・酒母(もと)造り
「酒母」とは、アルコール発酵を促す「酵母」を大量に増殖させたものを指します。
麹と水を混ぜ合わせたものに、酵母と乳酸菌、さらに蒸米を加え、厳密に温度管理された発酵室のタンク内で、必要な期間しっかりと寝かせることで完成します。
仕込み
各セクションの「匠」たちの技法を通じて最高の状態で仕上がってきた「もろみ」を、0.1℃の精度でコントロールすることが求められる作業です。
年間を通して5℃に設定された醗酵室で、自然の発酵熱と、もろみの櫂(かい)入れ作業の強弱のバランスで制御しています。
櫂(かい)入れとは、長い棒の先に小さな板をつけた道具(櫂)で、酒母(もと)や醪(もろみ)をかき回す作業のことを指し、その様子からオーケストラの「指揮者」に例えられることも多いのだとか。
これほどの精度や温度管理を追求するとなると、やはり機械での管理は難しくなります。
コストや時間がかかろうと、管理が大変になろうとも、「美味しい酒」を造るためならば必要な手間は惜しまない。それが旭酒造の姿勢なのです。
上槽
重厚な扉の向こうで行われていたのは、醪(もろみ)から生酒を絞る、上槽(じょうそう)という作業です。旭酒造では、無加圧状態で醪を絞る遠心分離機が5台と、ヤブタ(圧搾機)が10台稼働していて、タンクから流し込まれたもろみを絞っています。
瓶詰め
いよいよ最後の工程、「瓶詰め」です。
様々な工程を経て造り上げた獺祭の味を損なわないよう、生で貯蔵された後、炭素濾過(清酒に活性炭を混入後、ろ過すること)を行わずに瓶詰めを行います。
冷たいまま瓶詰めして打栓された後、パストライザー(充填した容器ごと加温、殺菌、冷却をする装置)で65℃まで昇温され、再度パストクーラーで20℃まで急冷されます。瓶詰前に温度を上げる過程で香りを逃がさないよう、旭酒造ではこのような「冷温瓶詰方式」を採用しています。
瓶詰めされた「獺祭」は、火当てにより一旦崩れたバランスを回復させるため、一升瓶換算で50万本まで貯蔵できる冷蔵庫内で再度低温で貯蔵されます。回復後、お客様のもとへと出荷されます。
全ての工程において一切の妥協を惜しまないこの姿勢こそが、旭酒造が世界で羽ばたける理由なのかもしれません。
2023年9月にニューヨークに蔵が完成。その名も「DASSAI BLUE SAKE BREWERY」
銘酒「獺祭」を掲げ、日本、アメリカ、ヨーロッパ、アジアで急成長を遂げてきた旭酒造ですが、その目線の先には常に"世界”があります。
「獺祭」の人気が国境を越えていることは、売上高の半分以上が海外マーケットからのものであることからもお分かりいただけますが、現状では主にアジア市場が海外増収をけん引しています。
「いつか世界中で獺祭を楽しんでいただきたい」という願いを実現するための大きな一歩として、2023年9月、米国ニューヨーク州ハドソンバレーに「DASSAI BLUE SAKE BREWERY」を開設しました。獺祭を世に送り出した1990年当時から抱いていた、現会長・桜井博志氏の悲願が実現した形です。
蔵のオープンを機に、ニューヨークと岩国市の二拠点生活をスタートさせた桜井会長の指揮のもと、現地の水と日本産の山田錦を使用して、純米大吟醸酒「DASSAI BLUE」が誕生しました。
先般、日本国内でも数量限定で販売されることが発表され、発売日の前日である2024年4月22日に東京都内でお披露目会が開催されました。
国境を越えた原材料のコラボレーションで誕生した「SAKE」は、どのような味わいで私たちを楽しませてくれるのでしょうか。日本を代表する銘酒「獺祭」から、全世界を代表する銘酒になる未来に、今から想いを馳せてしまいそうです。
常に求めるのは、印象に残る、感動する美味しさ
愛媛県に生まれ育ち、旭酒造への入社を機に山口県岩国市に移り住んだという野中さん。
元々大の日本酒好きで、「好きなことのためなら大変でも一生続けていけるのではないだろうか」と考え、“飲み手から造り手”へと歩を進めたといいます。
現在は、各現場の方針を決め、必要に応じて自ら現場に入り直接指導を行う「副蔵長」を務めています。
野中さんを奮い立たせるのはやはり、お客様からの「美味しい」という言葉。
「『美味しい』のその先にある『なにこれ美味しい!!』を常に目指して、私たちは酒造りに取り組んでいます。
お酒の品質を高めるためにはどうすればよいか。それは他ならぬ自分自身で考えるからこそ意味があることだと思います。
大切なことは、日々の細かな積み重ねを丁寧に続けていくことです。
あとは、とにかく美味しいお酒を造るためにできることは全てやる!これだけですね」
と淀みなく言葉を紡いだ後、こう続けます。
「相手は生き物ですから、『いい状態になるのはこの日ですよ!』なんてもちろん教えてくれるわけではありません(笑)。
ですから、その日のうちに対処をした方が確実に美味しい酒ができると感じたときは、何があろうと、その日のうちにやるべき作業はすべて終わらせます。作業を翌日にまわした結果、最高の状態を逃すなんてことは何としてでも避けたいですから。
いつ最高の状態が来てもいいように、うまくシフトを組み合わせて対処できるように準備しています。
洗米から酒が充填されるまで最短でも2か月は要します。その間常に“彼ら”の状態を気にかけながら日々を過ごしているので、本当に『我が子』同然ですね」
造り手の一人である野中さんが描く、獺祭の未来はどのような姿なのでしょうか。
「料理と一緒に何か美味しいものを飲みたいという選択肢の中に、自然と『獺祭』が入っている姿でしょうか。
『日本酒』や『ワイン』のように『獺祭』というカテゴリーが生まれ、飲み手の選択肢に当たり前のように入る未来があれば、これ以上嬉しいことはないですね」
やりたいことが明確であれば、地方でも不自由なく暮らせる
最後に、移住をし地方のお仕事に携わろうと考えている方に向け、メッセージをいただきました。
「『移住』というのは、何をしたいのかを考えるきっかけだと思います。
“どこで”ではなく、“何をするか”がいちばん大事だと思うので、そこの軸さえ持つことができれば、どこで暮らしたとしても、人生を楽しく過ごすことができるのではないでしょうか」
と、力強くエールを送ってくれました。
自分の情熱を追求できるものと出会うことで、自分自身の目標と熱意が、どのような環境にも対応できる力を持つのかもしれません。
移住は自分の夢を叶えるための舞台となり得るということが、野中さんの生き生きとした表情から伝わってきました。
前述のように、元々日本酒好きだった彼は、「好きなことなら、どんなに困難でも一生続けられるのではないか」と思い、消費者から生産者へとキャリアを転換しました。
一度きりの人生、自分の「好き」を叶える生業を求めて移住を検討するのも、良い選択かもしれません。