移住者プロフィール
山口勉さん・利世 さん
出身地:千葉県・大阪府、前住所:大阪府東大阪市、現住所:和歌山県橋本市、職業:ベーカリー経営
目次
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オートバイとダンス。東京で夢を追いかけた二人
「ベーカリーを始めようと思い立つまで、パンを焼いたことは一度もありませんでした」。
そう話すのは、「ストーンズベーカリー」でパン作りを担当する山口勉さん。1972年千葉県生まれ。長年、東京で建築関係の仕事に携わってきた。
幼い頃から工作や料理など、ものづくりには興味があったのだという。
勉さん:「幼年の頃から、空き箱や粘土を使って何かを作ったり、プラモデルを組み立てたり、そうした工作をよくやっていました。料理も自分で作る機会が多かったので自然と好きになりましたね。家を建てるのも、料理を作るのも、素材を加工して物をつくるという意味では一緒。大きくは違わないと思っています」
10代の頃からプロのオートバイレーサーになることを夢見ていたという勉さんは、レースの資金を貯めるため、建築業界に身を投じた。
勉さん:「主に住宅の屋根の工事をやっていました。レーサーをするには、車にバイクを積んで、日本各地のサーキットまで遠征しに行く必要がある。何しろお金がかかるんです。レースは20代前半まで続けました」
妻の利世さんと知り合ったのは30代の頃。勉さんのひとつ年下の利世さんは、東大阪市の生まれ。進学のため上京し、その後ダンスのインストラクターをするかたわら、舞台衣装の制作も行っていた。
利世さん:「学生時代にダンスを始めて、卒業後はずっと自営業で働いていました。東京のダンススタジオのイベントに出演した際、その舞台装置の設営に来ていたのが主人。それが出会いでしたね」
全国の農地を回って目の当たりにした日本の課題
結婚後二人は東京を離れ、2011年から東大阪で生活を始める。利世さんのご実家が営む農業機器メーカーで、勉さんが働くことになったのだ。
営業として全国の農地を飛び回るようになった勉さんだが、「サラリーマン」としての働き方にはどうしても馴染むことができなかったという。
勉さん:「人が決めたことに従うようなやり方が得意ではなかったんです。サラリーマンを辞めてもう一度、建築業を再開してもよかったんですが、小さい頃から料理を作るのが好きで、飲食関係の仕事にはずっと興味を持っていたので、そういう方向で新しくスタートしたいなと考えるようになりました」
そこでヒントになったのが、全国の農地を周っている時に目の当たりにした、日本の農業が抱える問題だった。
勉さん:「全国的に休耕田や耕作放棄地は増え続けています。国内の農産品が減り続け、輸入の食材ばかり頼っている現状に違和感を覚えました。小麦がまさにそうで、日本人は米より小麦に多くお金を払っているんですが、そのほとんどが海外から輸入されたものです」
なぜ、使われていない田んぼを有効活用し、自国でもっと小麦を作らないのか。そうした問題意識がパン屋という発想に結びついた。
勉さん:「休耕田や耕作放棄地で農家さんに小麦を作ってもらい、その小麦で自分がパンを作る。漠然としたアイデアではありましたが、それがストーンズベーカリーを始めたきっかけです。
パン自体も工場製造のものではなく、手作りのものを安心して食べてもらいたかった。近年、子どものアレルギー問題が大きくなっているのも、そうした作り方と無関係ではないと思うんです。工場製造からの脱却。それをまず自分の住んでいる地域から始めたいという思いもありました」
2年の試作を経て、「ストーンズベーカリー」をオープン
しかし、パン作りに関してはまったくの素人。サラリーマンとして働きながら、毎週末にパンを焼いて試作を繰り返す生活が始まった。
勉さん:「いろいろなパン屋さんと自分で作ったパンを食べ比べてみて、これならお店で出せると思えたのは、試作を始めて2年ほど経った頃でした。今でも完全に納得はできていませんが」
こうして会社を辞めた勉さんは、自宅の庭に建てた工房で、2017年に「ストーンズベーカリー」をオープン。建築業の経験を生かし、基礎や骨組み以外、工房の施工は自身で行ったという。
一方、東大阪に戻ってからもダンスの衣装作りの仕事を続けていた利世さん。パン作りに挑む勉さんの姿をどのように見ていたのだろうか。
利世さん:「最初は(営業の仕事を)『3年、頑張ってみたら』という話はしていたんですが、関東育ちで大阪の空気が合わない部分もあったようだし、4年経っても5年経ってもずっとサラリーマンは合わないと言い続けているので、『じゃあ、もう辞めて好きなことすれば』と。パン屋を始めることに関しては特に驚きもなく受け止めましたね」
オープン当初は経理の仕事のみを手伝っていた利世さんだったが、ほかのスタッフを雇うようになってからは事務作業が忙しくなり、衣装作りの時間をとることが難しくなってしまったという。勉さんから頼み込まれる形で、パン屋の仕事に専念することになった。
直面した「理想」と「現実」のギャップ
ストーンズベーカリーでは、できるだけ近隣府県産の小麦を使い、シンプルなパン作りにこだわっている。基本的に使う素材は小麦粉、水、塩のみ。自家培養酵母で発酵させるため、仕込みには2日を要するという。
サワードウの自家培養酵母は酸味が出やすく、日本人の舌には合わないとも言われる。開業当初は苦労も多かったようだ。
勉さん:「近所の人に向けた販売だけではやっていけず、通信販売を始めて、ようやく売り上げが立つようになりました。SNSを積極的に利用しているパン好きな人のアンテナに引っかかり、メディアにも取り上げてもらったりする中で、少しずつ安定して顧客がつくようになりました」
しかし、通販という方法は二人の本意ではなかった。本当ならば、自分たちの作ったパンを地域の人たちの「食糧」にしてもらいたいという思いがあった。
利世さん:「東大阪はどちらかというと、"味が濃くて美味しいものをお店で安く手に入れる”という生活習慣の人が多いと感じました。適切なお金を払って良い食料を買うという考えにはあまり馴染みがない印象がありました」
勉さん:「加えて大阪は農産地ではなく、小麦を作れる環境ではなかった。仮に小麦を作れたとしても、今度は製粉の問題もある。米と違って小麦を粉にするには、製粉会社に頼まなければならないんです。かつては各地にあった小さな製粉所は、農政の変化により次々に廃業していった。小麦の生産から始めるパン作りの難しさにも直面しました」
多忙な日々の中で芽生えた「田舎暮らし」への憧れ
子育てをしながらの営業も決して簡単ではなく、営業日を3日に減らしても、睡眠時間を増やせないほど忙しかったという。そのように苦労して作ったパンが、肝心の地域の食卓にあまり届かないという現実が重くのしかかった。
「こんな生活が一生続くのか」と考えると、利世さんは気持ちが塞いでしまうことが多くなっていったという。
このままでは続けていけない。そう思い悩んでいる時、子どもを入学させたのが和歌山県橋本市にあるオルタナティヴスクールだった。
利世さん:「橋本に何度か足を運ぶうちに、環境の良い場所だなと感じるようになって。こういう田舎町に住んでみたいという気持ちがどんどん大きくなっていきました」
夜な夜なインターネットで近畿圏の田舎暮らしができる場所を調べるようになった利世さん。調べれば調べるほど、橋本市は理想の条件を兼ね備えているように思われた。
橋本市には、夢を実現できる土台がある
紀ノ川が東西に向かって流れる橋本市は、かつては材木運搬で栄え、高野山に向かうための宿場町としても知られる。和歌山県内で唯一、大阪都市圏に含まれる地域でもあり、大阪の難波駅まで電車一本で行けるなど交通の便もよい。北に金剛山地、南に紀伊山地と、市街地の周囲は急峻な山々に囲まれ、自然にも恵まれている。
利世さん:「この辺りは土砂災害や洪水被害の心配が少なく、川が東西に流れていることから日照時間も長い。平地部では雪も積もらない。橋本は田舎暮らしの懸念点をすべてクリアできたんです」
空き家バンクや不動産業者を利用し、橋本市の物件を熱心に探し始めた利世さんは、当初は移住するつもりのなかった勉さんを連れ出し、20件近くの物件を見学しに行ったという。
その中で「ここなら良い」と勉さんが惚れ込んだのが、現在、ストーンズベーカリーを移転させ、住まいにもしている物件だった。
勉さん:「私も『大きなチェンジをするなら今だな』とは考えていました。実は、自分で製粉をやりたいと以前から思っていて、東大阪の家の近くに小さな製粉所を建てることも計画していたんですが、地価の高さなどから実現できずにいました。
そんな中で、橋本市のその物件には、敷地内に大きな倉庫が2つ、住居になる建物も2つありました。ここならパン屋も、製粉所もできる。さらには、ゆくゆくやりたいと思っていた民泊も開けるかもしれない。夢を実現できる土台がすべて揃っていたんです」
こうして2022年夏、山口さん一家は橋本市に移住することを決めたのだった。
橋本市で再オープン。人とつながり、地産地消の実現へ
新天地である橋本市で、ストーンズベーカリーを再開したのは2023年11月のこと。建物を改装して設備を整え、石窯も手作りした。
橋本市に店を移転させて良かったことはさまざまあるというが、そのひとつが、農家をはじめとした地域の人同士の横のつながりが強いこと。行政と密に連携をとることで、物事も進めやすいという。
利世さん:「役所の人は、頭の中に地域の相関図がちゃんと入っているから、『こういうことがしたいんです』と一言相談すると、すぐに関係する人を紹介してくれるんです。
それは行政の単位として見た時に、人口が多すぎないというのも理由のひとつだと思います。誰かの知り合いがまた別の誰かとつながっていて……というコミュニティの広がり方は、ローカルで暮らすことの大きな魅力だと感じています」
そうしたつながりを生かして、パンの材料にするフルーツなども地元農家から仕入れている。廃棄予定の柿の実をドライフルーツにしたものなど、地域の資源を有効利用する取り組みにも力を入れているそうだ。
勉さん:「実は、柿の木の枝がパンを焼く燃料にもなっています。東大阪では都市ガスを使って石窯でパンを焼いていましたが、橋本にきてからは薪で蓄熱して焼くようになりました。剪定された柿の枝は畑で燃やして処分されていたため、それを農家さんから譲り受けて薪として使っています。そうやって資源を地域で循環させることで、食材だけでなく、エネルギーの地産地消も実現できると気づきました」
これから一生かけてやっていきたいこと
加速するグローバル化は私たちの生活にさまざまな恩恵をもたらした反面、その歪みが社会のいたるところに現れ始めている。そんな中でストーンズベーカリーの取り組みのポイントは、橋本市を中心に据え、資源を調達する範囲を可能な限り狭めていくことにあるという。
勉さん:「開業当初は、北海道の小麦粉をメインに使っていましたが、現在は全体の60~70%を奈良県の農家から直接、仕入れています。そうやってどんどん仕入れ先を近くして、ゆくゆくは橋本産の小麦で作りたい。実際、知り合った近所の農家さんにそうした話は持ちかけていて、『それなら作るよ』と言ってくださっている方もいます。手ごたえは感じています」
最終的な目標は、橋本市を中心とした地域を、近畿地方で消費される小麦粉を一定数まかなえるだけの生産地にしていくこと。それをこれから一生かけてやっていきたいのだと、勉さんは話す。
勉さん:「今は、製粉所をはじめとしてそのための仕組み作りを少しずつ進めているところです」
できるだけ自然から離れない生き方を
最後に、地方移住を検討している方に向けて、お二人からメッセージをいただいた。
勉さん:「経済的な成功だけが人生の成功ではないということを、今、強く感じています。
都会に人が集中すると、どうしても海外の資源に依存しないと生活が回らなくなる。本当に日本の将来を考えるなら、過疎化している地方に人を増やして、資源の国産化への回帰と地産地消の道を模索していく必要がある。そうした視点で見ても、地方移住は意味のあることだと思います」
利世さん:「ある時ふと思ったのは、自分が死ぬ時にどれだけ綺麗な状態で地球に還っていけるだろうかということ。例えば、工業製品をできるだけ使わないとか、化学薬品をできるだけ自然に流さないとか、なるべく自然から離れない生き方が私にとっての豊かさです。そして、何よりの幸せは、自然体でへらへら笑って過ごせること。
田舎で暮らすことでこんな心境になるんだということを、ぜひみなさんにも経験してみてほしいです。1~2年田舎暮らしをしてみるとか、田舎と都会を行き来する生き方なども選択肢のひとつにしてみても良いのではないでしょうか」
橋本市に移住し、自身が追い求めていた理想のパン屋の形に一歩近づいた勉さん。多忙を極める毎日の中で失っていた心の平穏を取り戻しつつある利世さん。橋本市は二人の肌に合う場所であったようだ。
ストーンズベーカリーが起点となり、小麦の生産からパン作りまでが地域の中で完結する。そんな小規模な経済圏がどのように実現していくのか。小さなベーカリーから始まる大きな挑戦の向かう先がとても楽しみだ。