移住者プロフィール
原田 康宏さん
出身地:山口県周南市、前住所:東京都、現住所:山口県周南市
目次
INDEX
- 昼と夜で遊び場の主役が変わる“飲み屋街”のど真ん中で生まれ育つ
- 時代の煽りを受け、老舗酒造がくだした「酒造りの休止」という決断
- どこかで継ぐ覚悟を決めていた、“後継ぎ”としての想い
- 継ぐことへの葛藤を忘れるくらい、周南市の暮らしや友人が恋しかった
- 7年ぶりの帰郷。見事に衰退した故郷の景色に驚きを隠せなかった
- 20年間の空白期を経て、「故郷・周南市のために」酒造りを再開!!
- 原材料は「地元愛」。地元周南の素材を使い、周南のために、周南で造る
- 再開発が進む徳山駅を中心に、もう一度賑わいを取り戻し、どんどん仕事が生まれてくるような魅力的な街へ
- 気兼ねなく、勇気を出して、胸を張って帰ってきてほしい。
- 周南市の魅力は、なんといっても「人」。これほど温かい人たちが集まるまちは他にないだろうー。
昼と夜で遊び場の主役が変わる“飲み屋街”のど真ん中で生まれ育つ
「夜の帳(とばり)が下りると、ご機嫌な大人たちで賑わう徳山の飲み屋街のど真ん中に生まれた僕の遊び場は、飲み屋街の中心にある『青空公園』でした。
学校から帰るとすぐにかばんをポーンと放り出し、毎日のように友達と野球を楽しむようなわんぱくな子で、家にはほとんどいなかったな(笑)」
と、楽しそうに当時を懐古するのは、1819年から続く老舗酒造『はつもみぢ』の代表取締役社長・原田康宏さん。
老舗酒造の長男として誕生した原田さんは、“後継ぎとしての重圧”と同居しながら時を重ねてきたのだろうか。
「それが、家業を継ぐことはあまり意識していなかったんですよ。しかも酒なんでね、子ども時代なんか『饅頭屋に変えてくれ』なんて言ってたくらい(笑)」
と、想定外のユーモラスな反応が返ってきた。
それというのも、当時の十代目当主は(父の兄にあたる)叔父が務めていたといい、自身の父は、長らく専務という立場に置かれていたからなのだとか。
また、(叔父の娘にあたる)年の離れた従姉妹たちもいたことから、“跡を継ぐ可能性がある”という微妙な立ち位置にいたといい、その状況は大学生当時まで続いたという。
時代の煽りを受け、老舗酒造がくだした「酒造りの休止」という決断
1954年に中国5県、山口県の新酒品評会で「最優秀賞」を獲得したこともある『初紅葉』ー。
酒を呑んでほんのりと頬が赤く染まる様子を、色づく紅葉に例えて詠まれた和歌から由来し、地元の人々に愛されてきたかつての銘酒だ。
しかし、1963年に初めてビールの売上が日本酒を上回って以降、日本酒の需要は下降の一途を辿っていき、その火の粉は初紅葉にも例外なく降りかかったという。結果、かつて銘酒を生み出してきた酒造部門は、会社の経営を危うくする“お荷物部門”と化してしまう。
だが時代はバブルの真っ盛り。
出光やコンビナートの恩恵で、人口に対する飲み屋の割合が全国で1位,2位を争っていた徳山の飲屋街では、ビールが飛ぶように売れ、老舗酒造の苦境などどこ吹く風とばかりに、ものすごい活気に包まれていたという。
「毎日がお祭りかというくらい、夜の賑わいは、それはそれはすごいものでした。
ですから、会社の経営を考えれば、『仕入れて売るビールをこの街に卸そう』という時代の流れにシフトするのは、必要不可欠な選択だったわけです」
1985年、『初紅葉酒造』は断腸の思いで酒造の休止を決断。
その後、実に20年もの長きにわたり、酒造りを休止することとなる。
どこかで継ぐ覚悟を決めていた、“後継ぎ”としての想い
「せめて父親が社長になるまでは、家業を継ぐことは考えないでおこうと思っていました」
と、話すように、大学進学を機に周南市を離れ、上京。
「どうせ行くのなら、東京に行きなさい」という父からの言葉も後押しになったのだという。
大学生活も半ばを過ぎ、皆が進むべき道を模索し始めるのと同様に、彼も就職活動をスタートさせた。
複数の企業から内定を勝ち取り、選択肢は複数あったというが、歩を進める先に選んだのは、“日本のウイスキーの父”とも呼ばれる竹鶴政孝氏が創業した、『ニッカウヰスキー』であった。
他業種を選ぶことができたにも関わらず、なぜ彼は、“家業と同業種の企業”を選んだのだろうか。
「継ぎたくはないけど、継がないわけにもいかない。そんな想いが頭の片隅にあり、結局は酒に携わる仕事を選んでいました」
と、当時の複雑な心境を懐かしむように笑みをこぼし、こう続けた。
「日本酒の需要は依然として戻る気配がなく、酒造りの再開のめども立たないままでした。
当時は本気で“酒造”から“酒屋”にすることも考えたようですから、ビール会社かウイスキー会社のどちらかを選ぶというのが自然な流れでした」
活路を見出すために老舗としてのプライドを曲げ、時代の流れに沿うことで会社の存続を可能にした『初紅葉酒造』。
“継ぐ意思はなかった”という言葉とは裏腹に、家業が求められた“変容”までをも汲み取った仕事選びを行っていたことに、原田さんの家業への想いが伝わってくるようだ。
継ぐことへの葛藤を忘れるくらい、周南市の暮らしや友人が恋しかった
東京で充実した日々を過ごす中でも、いつも思い出すのは、幼少時代を周南で共に過ごした仲間たちのことだったという。
「周南の友達がしょっちゅう電話してきてくれて。友達と話していると、周南で過ごしていた頃にタイムスリップしたようで、“田舎に帰りたい”という気持ちが日増しに強くなっていきました」
周南を離れて7年が過ぎようとしていた頃、原田さんのもとに、叔父が病に倒れるという一報が届いた。
叔父に代わり、専務であった父が社長を務めることになったタイミングで周南市へのUターン移住を決意し、『はつもみぢ』に入社。
「いよいよこの時がやってきたか」と、承継の覚悟を決めてのUターンであったことを想定して尋ねると、
「会社に帰りたいというよりも、同級生が作った野球チームにどうしても入りたくて、それで帰ったようなものなんです(笑)」と、どこまでも飾らない原田さん。
浮かべた満面の笑みの中に、仲間との絆の深さを惜しみなく滲ませた。
7年ぶりの帰郷。見事に衰退した故郷の景色に驚きを隠せなかった
「ちょうどバブルが弾けた頃で、見事にまちが衰退していく一方の頃でした」
7年ぶりに戻った故郷では、仲間たちが昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれたというが、その一方で彼を驚かせたのは、バブル崩壊と共に衰退の一途をたどり、寂し気に佇む故郷の姿であったという。
彼の記憶の中にあった故郷の飲み屋街といえば、週末ともなると、歩けば肩がぶつかるほど人でごった返していたというのだから、一変した街の様相から受けた衝撃は、相当なものだったに違いない。
変わりゆく街の姿を受入れ、見守り続けてきたはつもみぢの社員の中には、若き後継ぎ候補の突然の帰還に動揺し、ぴりつく空気感を隠そうとしない者もいたのだという。
社員が抱く動揺や反発心は、至極当然のことと真摯に受け止めた原田さんは、一般入社の社員と同じように最初の工程から順にたどることを選択。
来る日も来る日もビールの配達に明け暮れる日々はしばらく続いていく。
20年間の空白期を経て、「故郷・周南市のために」酒造りを再開!!
利き酒の才能は天性のもの。「山口県一の利き酒名人」ー。
2003年に代表取締役社長と十二代目当主を承継すると共に、社名を『(株)はつもみぢ』に変更し、気持ち新たにリスタートを切った原田さん。
現在に至るまでに、「山口県利き酒競技会」で7連覇、2006年の「全国利き酒選手権大会」でも準優勝という輝かしい成績を収めており、「山口県一の利き酒名人」として、県内では知らないものはいないと言われるほどの実力者だ。
だが意外なことに、利き酒ができることは酒造りをする上で大きな武器にはなったものの、酒造りを再開させる“きっかけ”にまではならなかったのだという。
ならば、2005年に突如として酒造りを再開するに至ったきっかけはなんだったのだろうか。
「原田さん、絶対に酒造らんといけん」
山口県といえば、「獺祭(だっさい)」を始め、「貴」や「東洋美人」、「雁木(がんぎ)」など、日本酒好きを唸らせる銘酒の宝庫であり、現在では“日本国内で10年以上連続で前年の出荷量を更新し続けている唯一の県”として君臨している。
今の姿からは想像もつかないことだが、実は「獺祭(だっさい」が世に出るまでの山口県の日本酒出荷量は、47都道府県中43,44位と厳しい状況にあったのだという。
この状況を打破すべく動き始めたのが、これまで技術承継がなされてこなかった後継ぎたちに“酒造りの技術を学ぶ場”を提供すべく発足された「青年蒸留会」、そして山口県の酒の認知度をなんとか高めるために団結した「酒造組合」の若者たちであった。
当時周南市には、「はつもみぢ」を含めてわずか3つ、現役で酒造りをしている蔵はわずか2つしかなく、加えて、「地元産の地酒がない」という独自の課題も抱えていた。
そんなある日、仲間からかけられた「原田さん、利き酒もできるのだから酒を造ったら?いや、絶対造らないけん(造らないといけない)」という言葉に、“この20年、何をしてきたんだろう”と愕然とすると共に、目の覚めるような思いがしたのだという。
「酒造りをやめてからの20年間、平気で他県の酒を仕入れて提供してきました。
飲み屋街のど真ん中にあり、酒を造る権利もあるのに、本当にこのままでいいのだろうか・・。
そう考えたら体中の血液が大移動でもしてるかのように急にぞくっとして、『造らないけん!』と、勝手に使命感を感じてしまったんです。
あの時の電気が走ったような衝撃は、今思い出しても鳥肌がたちます。
きっと先代11人全員から、背中を思いっきり蹴られたのかもしれませんね(笑)」
酒造りに挑戦する意思は固めたものの、酒造りを長いこと休止していたため、当然杜氏は不在。頼みの綱であった、かつての仕込み配合も残されていなかったという。
「青年蒸留会」で技術を学ぶ機会はあったものの、実際に酒造りなどしたことがなかった彼は、「酒類総合研究所」で一から酒造りを学んだ。
県内の若手醸造家たちに手ほどきを受けながら、2005年ついに酒造りを再開。
原点回帰の意味も込めて、銘柄名を『初紅葉』から『原田』に変え、再始動したー。
原材料は「地元愛」。地元周南の素材を使い、周南のために、周南で造る
目指すは『飲むご飯』。米のうま味を存分に引き出すような酒にしたい
現在、周南市を代表する地酒の一つとして愛されている『原田』。
酒米には、山口県のオリジナル酒米「西都の雫」と、地元周南市産の「山田錦」を使用し、米のうま味を存分に引き出すため、醸造アルコールを使用しない“純米酒造り”にこだわっている。
仕込み水に使用するのは、周南市の山間部「鹿野(かの)」の伏流水。
仕込みの度に週に一度片道40分をかけて水を汲みに行くのだが、2tの水を注ぐのにおよそ1時間半を要するため、半日仕事になるのだという。
17年間続けてきたこの労力こそが、『原田』の美味しさを支えているのだ。
一年中フレッシュな酒を提供すべく「四季醸造」を採用
日本酒は、冬の寒い時期だけ醸造するのが一般的と言われているが、『はつもみぢ』では、一年中フレッシュな酒を提供できるよう『四季醸造』を採用している。
「日本酒は置くと味が悪くなってしまうので、とにかく置く時間を少したいんです。“1年中酒を造れば一年中新酒が出せる”という素人発想から始めましたが(笑)、今となっては、譲れないうちのこだわりになっています」
「酒造りを再開しなければ、今の自分はなかった」
と話す原田さんに、今後目指すべきビジョンを伺うと、
「地元を愛しながら、世界中の人に『原田』を知ってもらいたいですね。地域に根ざしながらも外に目を向けていき、売上を伸ばすことで地域に貢献できたら」
と、ここでも周南への愛情を惜しみなく示した。
原田さんの「地元愛」が生み出した『原田』を、ぜひ一度ご賞味いただきたい。
再開発が進む徳山駅を中心に、もう一度賑わいを取り戻し、どんどん仕事が生まれてくるような魅力的な街へ
『はつもみぢ』の代表と、徳山商工会議所のトップの二足のわらじで奔走する原田さんに、今後の展望を伺った。
「周南市に限らずですが、人手不足、特に若者が不足しています。この問題を解消するためには、どんどん仕事(雇用)が生まれてくるような魅力的な街にする必要があります。それが会頭の私に課せられた責務だと思っています」
2023年12月、周南市のJR徳山駅周辺で10年越しに行われてきた「大改造」がフィナーレを迎え、新しく生まれ変わった姿がお披露目される予定だ。
「“街中にある蔵”という地の利を生かし、気軽に遊びに来てもらえる酒蔵を目指したい」との想いから、(駅からほど近い)市の中心部にある『はつもみぢ』も、社屋を大規模改装し、8月5日にリニューアルオープン。
地域振興の願いをこめられた取組みで進化を遂げる周南市に熱視線が注ぎそうだー。
気兼ねなく、勇気を出して、胸を張って帰ってきてほしい。
これからUターン移住を検討している方に向けて、メッセージをお願いした。
「故郷を離れた時間が長ければ長いほど、変わったと感じる部分はたくさんあるでしょう。でも、生まれた時からの懐かしい動きがそのまま残っている部分もたくさんあるでしょうし、変わらずに住み続けている人もたくさんいます。
一度離れたからこその発見もたくさん待っていると思いますから、気兼ねなく勇気を出して、胸を張って故郷に帰ってきてください」
と、先輩移住者だからこそ語れる言葉を送ってくれた。
また、ゼロベースでの移住において、懸念材料の上位項目に挙がることの多い「人間関係構築」のコツについてもご意見を伺った。
「月並みかもしれませんが、とにかく色々なところに出かけてみることが大事だと思います。自分の世界に引きこもっていたら何も始まらないし、相手もあなたのことを知るチャンスがありませんから。
趣味の世界など、自分の行きやすいところからでいいので、とにかく勇気を出して飛び込んでみましょう。
飛び込んでいけば、少なくとも周南市には仲良くしてくれる人は見つかりますよ(笑)」
と、不安な心を包み込んでくれるような温かなメッセージを残してくれた。
周南市の魅力は、なんといっても「人」。これほど温かい人たちが集まるまちは他にないだろうー。
最後に、原田さんがこよなく愛する“周南市の魅力”を言葉で表すとするならば、彼はどんな言葉を選ぶのだろうか。
「シンプルに『人』。これにつきますね」
と、淀みなく答えを導き出した後、こう続けた。
「周南の人たちは、おらがおらが(自分が自分が)ではなく、助け合ったり支え合ったりすることが当たり前の人ばかりなんです。それに、気品があると僕は思ってるんですよ。品がないのは僕くらい(笑)。
僕はずっと、周南市はものすごくポテンシャルの高い町だと思っているんです。
海もあるし、山もあるし、新幹線も止まる。もっと言うと、銀行の本店があって大学もある、それでいて15万都市なんですから」
柔らかく奥ゆかしくもありながら、その根底にほとばしる情熱とパワーを同居させる原田さん。
温かみが凝縮されたような原田さんの気質そのものが、彼が繰り返し紡いでいた「周南市の人の温かさ」を体現していると感じた。
周南市への地元愛から生まれた日本酒「原田」。
「山口県一の利き酒名人」の酒造りは、周南市だけでなく、日本全体の酒文化の未来への可能性を広げていくのだろう。